大瀬良大地の夏の甲子園 清峰・今村猛に勝利し、花巻東・菊池雄星と激闘「200%の力を出せた」と完全燃焼
長崎日大の大瀬良大地の名がにわかに全国に広がり始めたのは、日本で46年ぶりの皆既日食となった2009年7月22日だった。
初戦2日前に腰を痛めるアクシデントに見舞われた大瀬良大地 photo by Ohtomo Yoshiyuki
夏の長崎大会準々決勝が行なわれたこの日、長崎日大は優勝候補の大本命である清峰との一戦に臨んでいた。春のセンバツ制覇の原動力であるエース、今村猛(元広島)を擁する難敵ではあったが、大瀬良たちには勝算があった。
大会前から今村対策として150キロに設定したマシンを、マウンドから打席までの18.44メートルよりも前に設置して打ってきた。エースである大瀬良自身も清峰打線の映像をくまなくチェックしていくなか、「スライダーへの対応がよくない」という結論を導き出していた。
試合ではこれらの準備が見事にハマり、大瀬良は4安打、9奪三振の好投を演じて3対1で勝利。ライバルを制して金星を挙げた当時の状況を今も覚えている。
「もう、お祭り騒ぎでしたね。試合内容もできすぎだったし、決勝で勝って甲子園を決めた時よりも喜んでいたと思います」
センバツ優勝校を撃破して臨む甲子園。抽選会で長崎日大は悪い予感が的中してしまう。
「『絶対に引くなよ!』って、みんなでキャプテンに言っていたのに引いちゃって(笑)」
長崎日大の初戦の相手は花巻東(岩手)だった。
センバツで大会左腕最速となる152キロを叩き出した高校生ナンバーワンの呼び声高い菊池雄星がマウンドに君臨する優勝候補の一角に対し、大瀬良は「決まった以上は当たって砕けよう」と気持ちを切り替えていた。
【菊池雄星との投げ合い】その大瀬良にアクシデントが起きたのは、試合の2日前。ブルペンで投げていると急に体の力が抜けた。立ち上がれなくなり、病院で検査をするとぎっくり腰と診断を受けた。幸運だったのは、チームスタッフが伝手をたどってさまざまな治療を施したことで、なんとか投げられるまでに回復したことだった。
投げ合う相手が菊池というだけでアドレナリンが放出される。2日前までのコンディションがウソだったかのように、大瀬良は自己最速の147キロをマークするなどストレートは走り、5回まで3安打無失点と完璧なピッチングを披露した。
試合が大きく動き出したのは、長崎日大が1対0とリードして迎えた中盤からだった。
6回表に大瀬良とバッテリーを組む4番バッター・本多晃希のホームランでリードを3点差に広げたが、その裏、今度は大瀬良がつかまる。6回に2点を返されると、7回にもピンチをつくってしまったところでライトに回った。しかし、2番手の寺尾智貴も一死二、三塁からヒットで1点差とされ、なおも一、三塁からダブルスチールを許して同点に追いつかれた。
この時の状況を大瀬良はこう振り返った。
「自分の体力が限界だったんでしょうね。ライトに移ってから緊張の糸が切れてしまったのかなと思います」
1点を勝ち越した8回。無死一、二塁の場面で再びマウンドに立った大瀬良は、そこから満塁とピンチを広げてしまったところで佐々木大樹に走者一掃となるセンターオーバーのツーベースを打たれ、さらにスクイズで4失点。そのまま5対8で敗れた。
センバツ優勝校に続き準優勝校も倒す番狂わせは起こせなかったが、大瀬良は最後の夏を満足して終えられたと胸を張る。
「県大会で(今村)猛に投げ勝って、甲子園では(菊池)雄星と投げ合えたのはいい思い出になりました。200%の力を出せました」
大瀬良大地(おおせら・だいち)/1991年6月17日、長崎県生まれ。長崎日大3年夏に甲子園に出場。高校卒業後は九州共立大に進み、2013年ドラフトでは3球団競合の末に広島に入団。1年目から開幕ローテーションに入り10勝をマーク。セ・リーグ新人王に輝く。17年は開幕から無傷の7連勝を記録するなど10勝を挙げ、チーム37年ぶりのリーグ連覇に貢献。18年は最多勝、最高勝率のタイトルを獲得し、リーグ3連覇の原動力となった。24年6月7日のロッテ戦で史上90人目のノーヒット・ノーランを達成した