「やっと日本人になれて心から感謝した」男子バスケ日本代表ジョシュ・ホーキンソンが帰化を決意した理由
■「日本のパスポート」までの遠い道のり
2023年2月。官報にはある人物の名前がありました。
「ジョシュア・ハーコン・ホーキンソン」
そうです。これは僕、ジョシュ・ホーキンソンのフルネームです。官報とは、わかりやすく言うと、国が発行している新聞のようなものです。官報にこの名前が出たということはつまり、僕の日本人への帰化が承認されたことを意味していました。
本当に感慨深い瞬間でした。
日本の大半の皆さんは帰化のプロセスがどれほど大変かをご存知ないでしょうが、「日本のパスポート」を手にするまでには数多くの書類を提出し、日本語の試験と面接を受けるなど、気が遠くなるような時間と労力を要するのです。
それだけのプロセスではありましたが、では帰化が承認されて嬉しかったかといえば、その表現はいまひとつしっくり来ません。むしろ、日本人になれたことを「感謝する」気持ちのほうが強かったように思います。そして、日本人となったことでそれまで以上により良い選手になって良いプレーを見せたいという思いが湧いてきました。
■約3年が経ち、日本を楽しめるようになった
この承認直後、僕はさっそくトム・ホーバスヘッドコーチ率いる男子日本代表チームの合宿に招集され、ワールドカップ・アジア地区予選の最終Windowに出場するにいたりました。国を代表してプレーできることへの感謝と、貢献したいという思いも強く持っていました。
日本人への帰化を考え始めたのは、僕がファイティングイーグルス名古屋から信州ブレイブウォリアーズへ移った2020年頃です。
アメリカのワシントン州立大学を卒業して日本のBリーグでプレーを始めてから3年ほどが経っていましたが、この頃になると僕も日本に慣れ、この国で生活することを本当に楽しめるようになっていました。
最初の2年は日本語があまりできずに苦労もありましたが、それでもこの国で過ごしていくうちに、もっと日本にいる覚悟を決めてプレーをしたいと思うようになっていったのです。同時に、自分が日本にずっと暮らし続ける姿が想像できるようになっていました。
■尊敬する「帰化選手の先輩たち」の存在
そこからは真剣に日本語を勉強し、帰化の申請プロセスに入っていきました。多くのアメリカ人選手たちがオフシーズンに入ると帰国する中で、僕は日本にとどまっていました。なぜかというと、帰化をするには日本への在住実績も問われますし、さらにこの頃には新型コロナウイルスが世界的に蔓延していて、もしアメリカへ帰国してしまうと入国制限などで日本に戻ってこられない恐れがあったからです。
また、僕が帰化申請を決意した背景には、ニック・ファジーカスさん(元川崎ブレイブサンダース)の存在も欠かせません。彼はネバダ大学時代にはすばらしい活躍をし、その後、NBAでもプレー。そして日本に来て多くの人たちから愛され、2018年には帰化をして日本代表でも成功を収めました。
それを見てきた僕としても「彼のようになれるのでは」という思いを抱くようになったのです。
同じく「帰化選手の先輩」として桜木ジェイアールさん(現富山グラウジーズスーパーバイジングコーチ)からも多くを教わりました。僕が日本に来た時、彼はまだ現役で、シーホース三河でプレーしていました。当時、僕が所属していたファイティングイーグルスのチームメート栗野譲さん(現島根スサノオマジックアシスタントコーチ)と仲が良く、紹介されたのです。
■日本人になるには日本語能力が欠かせない
その後、僕はジェイアールさんとよく話すようになり、彼の家に行くようにもなりました。若い選手たちの面倒見もすごく良く、僕も尊敬しています。日本に帰化した選手のパイオニアの1人ですから、僕が帰化を考えるのに大きな影響をもたらしたといって間違いありません。
こうして、長く大変な申請の過程を終えて無事、日本国籍を取得することができました。ちなみに、欧米の多くの国々では誰かが帰化をする時、必ずしもその国の言語を話せる必要はないのですが、日本では日本語の能力が要求されます。「なぜ日本人になりたいのか」の作文を日本語で書く必要もありました。
こうした厳しいプロセスを通り抜けてきたからこそ、晴れて日本のパスポートを取得した時には、得も言われぬ感謝の念が湧いてきたのです。
■たったひとつしかない「帰化選手枠」の重圧
日本への帰化が完了した僕ですが、感慨に長く浸る暇はありませんでした。すぐに日本代表の合宿に招集。そして、日本の自力でのワールドカップ出場権のかかったワールドカップ・アジア地区予選の最終Window6で、日本代表としてのデビューを飾ったのです。
当初は、他にも帰化選手が合宿に参加して、ひとつしかない帰化選手枠を争うことになるのだろうと予想していたのですが、実際には僕しかいなかったため、少なくともこのWindowではプレーをすることになったのです。
ただ、ひとつしかない帰化選手枠に収まるわけですから、コートに立てば本当に良いプレーをして、インパクトを残さなければいけません。
初戦の試合はアジアの強豪イラン。
コートに立った僕は、かつてないほど緊張していました。ユニフォームの胸には“JAPAN”の文字が刻まれています。
そう、僕はいま、日本という国を代表しているわけです。
■二桁得点、二桁リバウンドの大活躍
ちなみに、僕は普段、それほど緊張しやすい人間ではないと思っています。しかし緊張をまったくしない人間などいません。国の代表チームでプレーをする立場となればなおさらです。僕がこの2試合以前に国の代表を務めた経験はなかったわけですし、日本代表の他の選手たちとの関係も深く築けていたわけではなく、トム・ホーバスヘッドコーチのシステムにどれだけ順応できるかもわからなかったので、緊張の度合いはより大きかったように思います。
日本代表としての第一歩はやはり特別な感情で臨んでいました。試合前に君が代が流れている時も、いろいろな人々がたどってきた道のりを考えながら感慨に包まれました。
様々な思いと緊張のあった僕でしたが、イラン戦も、その次のバーレーン戦でも二桁得点、二桁リバウンドの「ダブル・ダブル」を記録し、チームの連勝とワールドカップ行きに貢献することができました。
この2試合の選手たちの大半はBリーグの所属ではありますが、試合の時などに「やあ、調子どうだい?」と簡単な言葉を交わすくらいで、本当の会話というものをしたことがありませんでした。そういった選手たちをより良く知り、そしてチームとしてのケミストリーを確立するためには時間がかかります。
■「Bリーグの敵」から「日本代表の仲間」に
ただし、新参者の僕でしたが、その環境の中でとても早くチームに馴染むことができたと思います。
それは、敵であるとはいえ普段、Bリーグで対戦していることで「彼はこっちにドライブへ行くことが多い」とか「彼はここからだとシュートに行くことが多い」といった具合に、チームメートたちがどう動くかを知っていたことが大きな要因でした。
そのため、合宿の期間は短かったにも関わらず、それ以前からすでにケミストリーができあがっていたように感じられたのです。
こうして、最初は緊張感を覚えた僕の「日の丸デビュー」は成功裏に終わったのです。
■トムコーチからの熱心なアドバイス
僕が日本代表に早い段階で馴染むことができた理由のひとつに、トムコーチの存在があります。
帰化後、代表に招集されると彼は、僕がチームに加わったらどういったことをしてもらいたいのか、そしてチームのスタイルに僕がどれくらい合っているのかを、映像を見せながらとても熱心に説明してくれました。トムコーチが率いていた時代の女子日本代表の試合や、僕が加入する前の男子代表の試合の映像です。
僕の加入前のワールドカップ・アジア地区予選で、日本は中国に連敗したり、オーストラリアに力の差を見せつけられたりと苦しんでいました。個人的にそうした試合を見ながら、もし自分が入ったらどういう役割を担うのか、自分ならどう対応できるのか、強みをどう生かせるかなどと必死で考えていたのですが、トムコーチが映像を見せながら僕のすべきことを指示してくれたおかげで、よりはっきりとした形で理解することができました。
バスケットボールでは通常、新しいチームに入るとチームメートたちとの練習を重ね、時間をかけてケミストリーを高めていくものですが、トムコーチと映像を見るという作業のおかげで、さほど苦労をせず、短い時間でチームにフィットできたのです。
また、彼は帰化選手ではないものの、日本のリーグでプレーをした経験もあり、日本語を学んだということもあって、僕の立場などもわかってくれていましたし、同じアメリカ出身だということもあって、僕としては非常に接しやすいと感じています。
■選手にとって、怒られることは期待の表れ
信じられないかもしれませんが、トムコーチが日本語で話す時でも僕は彼の言うことがよく理解できます。おそらく、彼も僕も英語を母語としてきたため、考えることが近いところがあるのではないでしょうか。トムコーチは英語で話すにしろ、日本語で話すにしろ、指示がとても明瞭です。
もちろん怒られることもあります。というよりも、彼は選手によって態度を変えるコーチではありませんし、良くないプレーをすればそれを正すために声を荒らげて叱ることをためらいはしません。
そして、怒られることは選手にとって悪いことではありません。もしコーチが選手に話しかけることをやめてしまったら、それはその選手が期待をされていない証拠だからです。
トムコーチをはじめ、コーチたちが選手たちに対して怒りを表したり、厳しい言葉を投げかけたりするのは、外野からは怖く見えるかもしれませんが、選手の最高の姿を引き出すために、ひいてはチームをより良くするためにあえてそうしているのです。
ですから、コーチが選手に声を荒げてでも何かを伝えてくるのは、重要なコミュニケーションなのです。
■「君にコートにいてもらわないと困る」
トムコーチが僕に強い言葉で指示してきたことでよく覚えているのが、ワールドカップ初戦のドイツとの試合のことです。僕は試合の序盤からファウルを吹かれてしまったのですが、僕はそのジャッジに納得がいっていませんでした。
すると、トムコーチとコーリー・ゲインズアソシエイトヘッドコーチが僕を端に引っ張り出して、こう言ったのです。「聞くんだ。われわれは君にコートにいてもらわないと困る」と。そこからは安易なファウルをしてベンチに下がらないといけない事態を避けるように注意をしました。
それ以外にも、トムコーチからは多くの助言をもらっています。ワールドカップ前に股関節を故障した影響もあってか、自信があるはずのスリーポイントシュートの感覚がおかしく、大会に入ると最初の4試合ではほとんど決めることができませんでした。
試合前の練習ではよく決まっていたのですが、試合になると入らない。もちろん相手からのプレッシャーの有無もありますが、バスケットボールでは打つべきタイミングでシュートすることは必要ですから、打たない選択はありません。
■2メートル21センチの強敵に苦戦したが…
そんな中、パリ五輪出場を賭け、日本は最終戦のカーボベルデ戦に臨んだわけです。相手には2メートル21センチの身長を誇り、インサイドで圧倒的な存在感でゴールを守るエディ・タバレス選手がいました。ゴール下の守護神がいるおかげで、身長面で分が悪い日本が点を取ることは簡単ではありません。
彼のマッチアップ相手だった僕に求められたのは、彼をゴール下から引き出すこと。そう、アウトサイドでプレーし、スリーポイントの脅威を相手に見せつける必要があったのです。
試合前、それまでスリーポイントを決められていなかった僕に、トムコーチはこう言いました。
「ジョシュ、君ならできると僕はわかっている。今日も打ち続けてシュートを決めてやるんだ」
この言葉で僕は燃えました。そして試合ではなんと4本のスリーポイントを沈めることができたのです。試合後、トムコーチは半分冗談めいた口調で僕にこのように声をかけてきました。
「言っただろ、君ならやれると。でもそれだけやれるなら、最初の4試合でもやってくれよ(笑)」
■チームをアジア1位に導いたコーチの問いかけ
スリーポイントの入っていない僕に対してトムコーチが「シュートを打ち続けろ」と言ってくれたことは自信を与えてくれましたし、彼からの言葉で印象に残っているもののひとつです。
もうひとつ。これは僕に対してだけのものではありませんが、トムコーチの言葉で忘れることができないのが、選手たちに対して「自分たちの目標とプレーするバスケットボールスタイルを信じていますか」という問いかけです。
ワールドカップでアジア1位のチームになってパリオリンピックへの切符を手にするという目標を定めると、僕たちを輪になって座らせ、「その目標を成し遂げられると心から信じている」とひとりひとりの口から言わせるのです。
そして大会で僕たちは実際にアジアで1位のチームとなったわけですが、僕としてはすべてが終わるまでは成し遂げたことがどれほど大きなことなのかを、本当の意味では実感できていませんでした。それ以上に、僕らが互いを信じながら、ひとつの共通の目標に向かった末にそれができたことは、かけがえのない経験となりました。
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ジョシュ・ホーキンソン男子バスケットボール日本代表
1995年生まれ。アメリカ・シアトル出身。元プロバスケットボール選手の両親を持つ。高校時代は野球でも頭角を現し、150kmのストレートを武器にした速球派投手として活躍。その後ケガもあり、ワシントン州立大学進学後はバスケに専念するが、NBAドラフトでは惜しくも指名漏れという結果に終わる。2017年夏、当時B2だったファイティングイーグルス名古屋でBリーグのキャリアをスタート。2020年からB1の信州ブレイブウォリアーズ、2023年からサンロッカーズ渋谷に所属し、同年に日本国籍を取得。同年のワールドカップでは獅子奮迅の活躍を見せる。日本名は名字の「Hawk(鷹)inson」から「鷹大(たかひろ)」とし、ファンからは「鷹ちゃん」の愛称で親しまれている。
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(男子バスケットボール日本代表 ジョシュ・ホーキンソン)