職場で傷ついたことはなぜ公言しにくいのでしょうか(写真:PIXTA)

上司から思わしい評価をしてもらえなかった、自分だけプロジェクトから外された、あるいは、部下が自分のことを見下している……仕事場で怒りを感じたり、やってられないと思ったりすることは誰でもあるはず。

しかし、世間では「ご機嫌の作法」「怒らない技術」などが、あるべき仕事人の姿としてもてはやされ、傷ついた人は置き去りになってしまう。仕事場での傷つきはなぜ公言されないのでしょうか。組織開発専門家の勅使河原真衣氏の著書『職場で傷つく』より一部抜粋して紹介します。

「できる人は整っている」への違和感

あれだけやってこの評価かよ。
部下が動いてくれないのは自分のせい?
仕事辞めようかな。

こういうことを思ったことがない人はこの世にいないでしょう。私もありますとも。

でも、できるだけ隠してきました。だって SNSを見てもハレの日の投稿が多いのなんの。そういうメディアだからと言われるとそれまでなのですが、怒ったり、泣いたり、わめいたり。「ネガティブ」さは敬遠されているかのよう。

やり場のない気持ちで書店へ行っても目立つところには 『怒らない…』『ご機嫌の…』『神メンタル…』などの書籍が並び、視線を横にずらしたところで『世界のエリートはなぜ…』『一流の人がやっている…』などが目に飛び込んできます。

――そうか、できる人はもっと「整っている」のか……。

悲しんだり、怒ったり、泣いたり、焦ったり。いろいろと心が揺れ動き、忙しない自分のことが、よりみじめに思えてくることも少なくありません。そして結局、「幸せ」なそぶりを研究しながら、生々しい痛みを堪え、動揺なんてなかったことにして生きていく。

でもこれ、確かに抱いた感情なのに、隠したり、なかったことにしたり、って、どこまでうまくできているんでしょうか。「え、なんで? ひどい」という困惑は、雑音でしかなく、それゆえ忌み嫌い、なきものとしつづけていて、大丈夫なんでしょうか。

これほどキラキラした社会において、大手を振って言い出しにくいことではありますが、「傷ついている」。これが本音ではないでしょうか。

「幸せ」を追い求めたい人間の性は理解しているつもりです。しかし、いや、ゆえに、この「傷つき」の話をしようと思います。それもあえて、仕事における「傷つき」を紐解こうとしています。

なぜか。組織開発者として数々の職場に分け入り、対話するなかで、いよいよ本題に入ったサインが意外にも、「要は自分、『傷ついている』っていうことなのかも」という言葉が本人の口から出たタイミングだと、常々感じてきたからです。

これまで「もやもや」という言葉でそれなりに表現されてきましたが、「傷つき」を自ら言葉にして初めて、事態が好転していくことをいく度となく、さまざな職場で目の当たりにしてきたのです。

職場で「傷つきました」は禁句

「いやー、でも職場で『傷つき』なんてそうそう聞かないですけどねぇ」とおっしゃる方いるでしょう。確かに「職場で傷ついた」と口にしてみても違和感がありますよね。自分でさえ、書けど、読み上げれど、不慣れというか、馴染みがないというか。ずっと「職場」やそこに渦巻く感情を仕事にしてきた私であっても、聞き覚えのないフレーズなわけです。

ですが私は、このひっかかりにこそ、一層着目すべきと考えます。というのも、人生の多くを費やし、心血注ぐ場である「職場」と、同じく実生活・実社会において多々経験する「傷つき」が同時に使われてきていないのだとしたら、これはやはり、奇妙なことだからです。

「職場で傷つく」ということは、おそらく十中八九起きていることなのに、意図的に口外されない、なきものとされる……これはどういうことなのか?

もしかして、
「職場で傷ついた」と思わせないしかけがあったのではないか?
「職場で傷ついた」なんて言おうにもその口は塞がれてきたのではないか?
そんな問いが、にわかにわき上がってくるのです。

「ハラスメント案件」で誤魔化されている?

がぜん、「傷つき」×「職場」にそそられた私は、新聞社の記事データベースで「仕事」や「職場」と「傷つく(傷つき)」という言葉の組み合わせがどのくらいあるのか検索してみました。

すると、ある文脈に偏在していることに気づきました――「ハラスメント」や「メンタル」という文脈です。これはますます次のような問いへと誘います。

・本来当たり前に存在している「職場での傷つき」を、現場でなかったことにする、見えないものとしているのではないか? そのために巧みな仕組みがあるとしたらいったい何か?

・「職場の傷つき」という元々ありふれたことに、「ハラスメント」や「メンタル不調者(ときにメンヘラなどという品のない言葉にもなる)」というラベルを貼ることで、自分たちとは違う、ごく一部の人たちに起きているかのような、問題の個人化・矮小化が進んでいないか?

・「組織変革」「心理的安全性」「人的資本経営」など耳に心地のよい「新しい指針」が示されるほどに、実は身近な「職場での傷つき」が置き去りにされ、タブー案件になっているのではないか。新しいそれっぽい概念が広まれば広まるほど、中身があいまいになる印象が拭えないが、「働く」という経験は皆にとってよりよいものになっていくのだろうか?

誤解なきようにお伝えしたいのは、ある条件下では「ハラスメント」だとして評価や処遇を問われたり、また、傷ついた側の傷の深さ次第ではときに「メンタル不調」として精神医学的な加療がなされることはもちろん大切なことです。

しかし他方で、ある種、極端なところに行くまで、日常的な個人のもやもや(悲しみや戸惑い)はなきものとされてしかるべき、というのも違うように思います。正常か異常か、できる人かできない人か、のような乱暴な二元論ではなく、素朴な疑問なのです。

――あのときのあなたの傷つきや悲しみや怒りは、職場でろくに口外されずに、どうなっているんでしょうか?

シャボン玉のごとく、きれいさっぱり消えたのでしょうか。いつまでも気にしているほうが悪くて、さっさと「メンタルを強く」すればすむのでしょうか。もしくは「怒らない技術」「いつもご機嫌でいる作法」があれば、平静を装えるのか。

はたまた、「職場での傷つき」は、"自分が仕事できないやつだから仕方ないんだ“”期待に応えられない自分が悪いんだ、能力が低いからダメなんだ"などと納得させてしかるべきなのでしょうか。その答えは総じてNOだと考えます。

「能力評価」が「傷つき」を見えなくしている?

「あの人やる気ないよね」
「うちの部署は問題社員ばかり」
「残念な上司のもとで成長しそうもない」
「社長にリーダーシップがないから、うちの会社はぱっとしないんだよ」


聞いたこと、もしかしたら言ったことのある、お馴染みの発言ではないでしょうか。上司から部下へのみならず、部下から上司のパターンも含む、働く個人に対する立場からの言いぐさ。

その矛先は、相手の「やる気」や態度、「リーダーシップ」をはじめとする「能力」への「評価」に向けられていることが多いわけですが、これらの一見それっぽく聞こえる「能力評価」こそが、「職場で傷ついた」と言わせてくれない労働・職業世界をつくっているのではないか?

そんな仮説を解きほぐしていこうとしているのです。逆に言えば、

・言われたことしかやらない職場
・多様性はかけ声ばかりで、実は排他的な職場
・上意下達で創造性や革新性が立ち現れない職場

などの、疲れた職場という問題は、社員個人の「不出来」「能力・資質」「メンタルタフネス」の問題にされがちです。そして、組織は個人の「選抜」「育成」に躍起になっていますが、足元の個人の「傷つき」をなおざりにしたまま、功を奏すことはあるのでしょうか。

このような問いを入口に、「職場の傷つき」が、公言されずともどのような場面で実は存在しているか? それなのに、本人が申し出ることはなぜないのか? の背景に迫ることから「組織開発」をはじめていきます。

(勅使川原 真衣 : 組織開発コンサルタント)