人は老化とともに、自らの所属している集団の論理しか受け付けなくなりがちだという(写真:metamorworks/PIXTA)

「年を取るとガンコになる」「理性より直感が優先される」「ダイエットしてもリバウンドしてしまう」。これらの現象は、個人の性格や意思の問題だと思われがちですが、実はいずれも脳の仕組みが関係しているといいます。

「人の脳は賢くなりすぎないようにできている」と語る、脳科学者の中野信子氏の著書『新版 人は、なぜ他人を許せないのか?』の中から、加齢と脳の関係や脳のシステムと思考の関係について解説します。

加齢が脳を「保守化」させる

できることなら、自分と異なるグループ(アウトグループ)の人の考え方も、ただ「アウトグループだから」という理由で排除したりせず、異なる考え方を尊重し、互いを認め合いたいものです。

しかしこれは、脳科学的には難しい問題でもあります。実は、どのような相手に対しても共感的に振る舞い、人間として尊重し、認めていくという機能はとても高度なもので、前頭葉の眼窩前頭皮質という領域で行われています。

ここは25〜30歳くらいにならないと成熟せず、さらに、しっかり発達させるためには、相応の刺激(教育)も必要になります。また、重要な部分なのに、アルコール摂取や寝不足といった理由で簡単に機能が低下してしまいます。しかも、その機能が得られるまでには人生の3分の1近い長い時間がかかるのに対し、衰えてしまうのはとても速いのです。

ニュースなどで見る、いわゆる「キレる老人」を典型的なパターンとして思い描いていただけるとわかりやすいかもしれません。老人が相手に有無を言わせず、自分の倫理だけを信じて、直情径行的に行動してしまうのは、前頭葉の背外側前頭前野が衰えているからかもしれません。

一般に、加齢とともに思考が保守化すると言われますが、同じ理由で説明できます。実際は、脳が老化したから保守化したということが疑われるのです。

ここで言う保守化は、政治思想的な保守という意味ではなく、自分が元々持っていた思想の傾向がより純化され、それ以外の意見は自動的に棄却される確証バイアスが働いて、さらに思考が硬直化していく、といったイメージです。

老化とともに、自らの所属している集団の論理しか受け付けなくなってしまうのです。

「理性」は「直感」には勝てない

思想的な保守とリベラルの話も少ししておきましょう。

脳科学的に見ると、理性と直感が対立すると、ほとんどの場合、理性が負けるようになっています。これはリベラルが保守に勝つことが難しい理由でもあります。もっと身近な例で言うと、ダイエットがなかなか成功しないというのは、これと同じ構図によるものです。

保守の人は安全志向で、自分が得てきたこれまでの成功体験を信頼し、そこから大きく外れることなく生きる方がより賢い(安全だ)と考えています。安全確実な方法をより価値が高いとし、優先する慎重派と言ってもいいでしょう。

一方、リベラルの人たちは、すでに存在している確実なパラダイムに対して、常により新しい別の選択肢がないかを考え続け、ロジックを更新していこうとします。そして、そうした行為自体が人間としてあるべき正しい姿だと考える傾向が強いと言えます。

この両者は、脳科学におけるいわゆる「ボトムアップ」と「トップダウン」のプロセスのせめぎ合いとも言えます。

同様の言い回しは、経営や組織論にもありますが、そこにおける用語と混同しないように注意してください。脳科学では、前頭前野が決定したことに認知的に従うことをトップダウンと呼びます。前頭前野でのコントロールによる「ダイエットすべき」、あるいは「リベラルであるべき」という思考は、トップダウンによるものです。

しかし、トップダウン的思考を行ったとき、実は後から振り返ると、意外に賢い選択がなされていなかった、ということも多いのです。よくありがちな例はダイエットとリバウンドの関係です。

人は前頭前野でダイエットのメリットを思考します。容姿を良くしたい、健康に生きたい、とにかく目標を達成するクセをつけたいなど、自らのあるべき姿を設定して「ダイエットをするぞ」と決めます。すると、本来人間が持っている「食べたい」という本能、つまりボトムアップからの欲求をそれこそ365日、起きている間中、抑制していなければならなくなります。

そしてダイエットのことばかりに脳のリソースを奪われ、他にやらなければならないことはたくさんあるのに気が回らなくなります。すると次第に面倒になり、あるいはあまりの面白みのなさ、つらさに嫌気が差してダイエットは主たる思考の座から追われ、リバウンドしてしまうというわけです。

リベラル、つまり「理想的な社会を作る」「正しくあるべきだ」という思考の制御は、前頭前野で行われています。ダイエットすべきだ、瘦せている方が美しく健康的だ、という思考と、これまでの(古く誤っているかもしれない)方法は否定すべきだ、社会はより正しく変わるべきだ、という思考は、いずれも現実に対して、ボトムアップの思考を殺し、強制するように行われているものです。

極端な例かもしれませんが、1つの思考実験として以下のような状況を考えてみましょう。自分が尊敬する父親から、次のように教えられて育ってきたとします。父は自分に、「困っている人がいたら必ず助けてあげなさい」と常日頃から説き、そう振る舞ってきました。そして、自分もそれに納得しているとします。

では、実際にお隣さんが「うちは生活が苦しいから、これから毎日食べ物をくれないか」とか、「お宅にはクルマが余分にあるのだから、うちにも使わせてもらえないか」「洗濯機が壊れたから、好きなときにあなたの家で洗濯させてほしい」などと、要求してきたとしたらどうでしょうか。

父の教えに従うのであれば、隣人の要求に従うことが正しい振る舞いだということになります。しかし、本当にその教え通りに生活を続けていたら、最終的にはこの隣人にすべてのリソースを奪われ破産してしまうおそれがあります。場合によっては、生命の危険を感じることすら起こり得るかもしれません。

脳は「賢くなり過ぎない」ようにできている?

これは、決して個人の意思の力といったような問題ではありません。実際は、人間が人間であり続けるため、脳は前頭前野に従い過ぎないように、つまり「賢くなり過ぎない」ように設計されていると考えざるを得ないような作りなのです。

生きるためには食べなければいけないのに、その本能に逆らってひたすらダイエットを続ければ、そのうち健康を害し、餓死すらしかねません。元々、トップダウンのシステムが弱くなるのが健康な状態で、そのようにできているのです。

その典型は女性と出産の関係かもしれません。女性が自分の生命維持を最優先するなら、子どもを産むという行為は、リスクが高過ぎると言えます。実際に、医療がこれほど発達していない時代には、お産で亡くなる女性も多かったのです。

しかし、それでは種としての人間が絶えてしまいます。だからこそ、トップダウンではコントロールできないような、愛情や性欲、子どもへの愛着などが強くなるように仕組んであるわけです。

「完璧な記憶」は人生をつらいものにするだけ

記憶力も同様です。完璧に記憶でき、忘れない脳があったらいいと思う方もいるでしょう。しかし、記憶は不完全になるように、あたかも設定されているかのようです。

それどころか、都合よく記憶同士を合成したり、書き換えたりすることも行われます。場合によっては、自分の昔の恋人との記憶と、現在の配偶者との記憶が混在してしまう……というような事態も生じたりしてしまうわけですが。

かといって、完璧に記憶できる人が仮にいたとしたら、一体どうなるでしょうか。嫌な思い出を忘れることもできず、周囲に合わせるための都合のよい記憶の書き換えもできず、かなりつらい人生を送ることになるでしょう。

記憶が徐々に消えていく、あるいは書き換わる仕組みが存在するのは、より良く生きていくためには自然で、当たり前のことだと言えます。

例えば、体験した危険な出来事を学習し、同様の事象を回避するための安全装置として記憶の仕組みが発達してきたのだとすれば、一定期間その危機がやって来なければ、その案件の重みづけを変え、優先順位を低く見直す仕組みが必要になります。

それよりも、高頻度かつ致命的な影響を与え得る危険の方を優先的に回避するべきで、なかなか起こらないことに記憶のリソースを割いていると、かえって重要なことに対応できず、危険な状態になってしまいます。

また、過去の失敗だけでなく、成功体験にとらわれやすくなるために、前例のないことには新しい挑戦をしにくくなります。

したがって、人間の能力の一部に過ぎない記憶力をことさら重要視する現代の教育や受験制度は、せっかく最適化されてきたはずの人類の生存戦略をかえってゆがめてしまっている可能性があるのではないかと思います。

テストでは高得点を取るために記憶力が高い人が有利になるのは確かですが、その結果をそのまま優秀であるかどうかのランク付けとして使うのはいかがなものかと思います。

テクノロジーによって補完される人間の記憶

というのも、テクノロジーの発達によって、不完全な人間の記憶力はどんどん補完されるようになってきており、実際にその仕組みは社会でも利用され始めているからです。


文字をパソコンやスマートフォンで打つようであれば、漢字の書き方を忘れても大きな問題にはなりませんし、そもそも人間の漢字記憶力は、パソコンやスマートフォンには絶対に勝てません。ならば、使用頻度がそれほど高くない漢字を覚えるより、素直に電子機器の恩恵にあずかった方がよさそうです。

警察は、逃げた犯人を追うとき、今や目撃者の情報だけでなく監視カメラを活用します。交通事故が起きれば、当事者同士の記憶に基づく証言よりも、ドライブレコーダーの映像の方が証拠能力として高く扱われるでしょう。

人間の不完全な記憶力を補完するこうした機器の性能を、私たちはすでに自分たちよりも優秀だと認めているわけです。このような機器の性能はこれからさらに高まっていくわけですから、優秀な人を見分ける基準として記憶力という尺度を使うのは、多くの人が同じように感じていると思いますが、すでに時代にそぐわなくなってきているのかもしれません。

(中野 信子 : 脳科学者)