東京藝大では何を教えているのだろうか。アート・アンド・ロジック社長の増村岳史さんは「入学後はひたすら自己表現を探求する。東京藝大美術学部の必修科目のうち7割が実技科目だ」という――。

※本稿は、増村岳史『東京藝大美術学部 究極の思考』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。

■「自己表現の探求」をひたすらしていく

東京藝大の美術学部と聞いて、皆さんがすぐ頭に思い浮かべるのは、油絵科(油画専攻)ではないでしょうか?

工芸科や彫刻科などは、入学してから技術や技法を学んでいきます。

たとえば工芸科であれば、彫金・鍛金・鋳金・漆芸・陶芸・染織など工芸のさまざまなジャンルをひととおり学んだのちに、自身の興味や意思に基づいて、専攻を先生方との面談も含めて決めていきます。

また、彫刻科も然りで、塑造・石彫・木彫・金属など彫刻のさまざまなジャンルをひととおり学んで専攻を決めていきます。

しかしながら油画専攻は、学生たちが入学をした時点で、油絵を描く技術や技法をひととおり身につけています。

そのため、やや大げさな表現かもしれませんが、「自己表現の探求」をひたすらしていくのです。

■入学後に求められる「上手な絵を描くことからの脱却」

10年ほど前に藝大を卒業され、現在アーティストとして活躍している(助手経験のある)卒業生の方から聞いたのですが、入学後の最初の実技課題は「半年間をかけて自分の絵画表現をしなさい」だったそうです。

この方は、課題の意図を振り返って「半年かけて毒抜きをすることにあったのでは?」とおっしゃっていました。

受験のために身につけた、いわゆる「上手な絵」を描くことから脱却しなさいという強いメッセージが込められていたのでしょう。

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入学後に求められる「上手な絵を描くことからの脱却」(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/gorodenkoff

■お茶や武道などの世界で言われる「守破離」

半年間にわたる課題は、一部の関係者の間では、別名“放牧”とも呼ばれていたそうです。

お茶や武道などの世界で言われる「守破離」という言葉があります。

この「自分の絵画表現をしなさい」という課題を聞いて、私はこの「破」を連想しました。

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お茶や武道などの世界で言われる「守破離」(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/halbergman

この守破離、ご存じの方も多いかもしれませんが、まずは師匠から教わった型を「守り」、型の完成後に、それまで守ってきた型を「破る」ことで自身のオリジナリティを発見し、さらに鍛錬に鍛錬を重ねて探求することで、最終的には師匠の型、そして自分自身が作り出した型からも「離れ」て自己の表現を完成でき、自在の境地に達するということを表した言葉です。

受験勉強で身につけたのは「守」であるので、これからは「破」に向かうことを促す。つまり「君たちは基礎を十分に学んでいるのだから、これからは自分たちの表現を追求しなさい」という大学側からのメッセージと考えられるでしょう。

■今までの知識や経験をあえてリセットする

また、「合格した人たちは皆、絵を描かせたら上手いので、いかに『上手く描けてしまうこと』から脱却するかが重要だ」と、複数人の卒業生から聞いたことがあります。

これは、「自身で身につけた知識や技術を手放さなければ、次なる次元に進めない」と言い換えられるかもしれません。

私たちは幼少期から常に「知識の蓄積」を要求され、成長という言葉の下に、どんどんと頭の中のハードディスクにデータを増やすように期待されます。

ハードディスクのデータを増やすことも、もちろん大切です。

しかし、「半年間をかけて自分の絵画表現をしなさい」とは、ハードディスクに溜まった今までの知識や経験を、あえてリセットをすること。そうすることで、新しい考えを吸収できるのです。

この考え方は、今こそ私たちにとって重要なことではないでしょうか?

■第一印象「疲れきった暗い人が多い」

東京藝大は従来の偏差値教育を「越境」した大学だと述べました。

東京藝大はどんな場所だったのか、入学当時の印象を振り返ってもらうと、第一印象は、「疲れきった暗い人が多い」というものだったそうです。

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疲れきった暗い人が多い(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/Aramyan

もともと絵を描きたい人たちは、「自分が描きたい絵」を描くことに楽しみを見出すのは本望であるはずなのに、受験勉強で課題を与えられ、それをこなすことを強いられていたので、このように陰鬱な印象があったのかもしれません。

■月日を経ると個々の個性が発揮されてくる

しかし、数カ月を経ると同級生たちの印象も徐々に変化してきたそうです。

世間でいわれているところの進学校から入学してきた、理論的で頭でっかちの人や、暗いと思っていた人たちも、じっくりと話をしてみるとユニークで面白かったりと、月日を経ると個々の個性が発揮されてきて楽しい場となっていったそうです。

これは、一般の大学ではあまり見受けられない傾向なのではないでしょうか。

なぜなら、入試をパスした同じような学力の人々が集う場では、良くも悪くも同じような価値観の人々が集まります。

その点、「一般的な勉強ができる・できない」だけの価値基準では入学ができないこちらの学び舎は、遥か昔から、究極のダイバーシティ(多様性)の場であり、お互いを認め合い、さまざまな価値観を受け入れるインクルージョンの場でもあります。

■「卒業してから地獄が待っている」

小学校から中学・高校・大学に至るまで、ステージは違えど、入学すると必ず、偉い先生、校長先生、学長、学部長などのスピーチを聞く機会があります。

その多くは、入学生を歓迎・叱咤激励し、晴れやかな未来を語るものでしょう。

しかしながら、ある年に、これとはまったく逆の、極めて「ネガティブ」な入学式のスピーチが油画専攻の新入生に向けてありました。

教授陣がひと言ずつスピーチをしたあと、その中の某大御所の画家がこう述べました。

「入学おめでとう、卒業してから地獄が待っているので、この4年間は大いに自由に、好きなことをやりなさい。ここにいる先生たちも、偉そうにしているかもしれないが、今でも地獄でもがいているかもしれないのだからね」

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「卒業してから地獄が待っている」(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/Thinnapat

■「君は、僕より売れていないよね」

この毒のある歓迎スピーチ、実は現役のアーティストから、アーティストの世界に足を踏み入れた雛鳥たちに贈る、現実を知り抜いた人だけが口にできる珠玉のメッセージであったかもしれません。

ちなみに、この大御所画家と、同じ学科内の他の教授とが、とある授業で口論になったそうです。その際に放った大御所画家のひと言。

「君は、僕より(絵が)売れていないよね」

このひと言で、教室中が水を打ったように静まり返り、口論が収束したそうです。

どの世界でもプロフェッショナルはシビアな場に立ち続けているのです。

■実技科目の割合が7割以上

読者の皆さんのうち、社会人の方の多くは、一般の大学などを卒業されたのではないでしょうか?

大学を卒業するためには、定められた単位を取得しなければなりません。法令で決められている単位は、4年制の課程において124単位以上が求められます。

私は大学を卒業したのがはるか彼方の昔なので、明確な記憶がないのですが、おおよそ1つの授業の単位が2単位から4単位ですので、合計55〜60くらいの講義・授業を受け、授業ごとに前期と後期に試験を受けるのが一般的でしょう。

見事パスをすると単位が取得でき、その単位の積み重ねによって進級し、規定以上の単位の取得により卒業となります。

他方、美術系大学の多くは、実技単位がメインとなります。その中でも東京藝大の場合は、単位の中に占める必修の実技科目の割合が7割以上となっています。

ほかの美術系大学の必修の実技科目の割合は、大学によってさまざまですが、おおよそ4割から6割です(ほかの美術系大学も選択科目としての実技科目は用意されていますので、本人の意思次第では実技にシフトすることもできます)。

つまり、藝大では、4年間の学生生活をほぼ制作に費やします。

■「それは自分で考えるしかないよ」

油画専攻以外の学科、たとえば工芸科や彫刻科では、ひととおりの知識や技術を入学後に学ぶことは先ほどお伝えしました。

一定の技術を身につけたと認められて入学した油画専攻の学生には、ほかの学科に比べると、先生たちが細かく技術や技法を教えることはあまりありません。

質問やアドバイスを求められても「それは自分で考えるしかないよ」というスタンスの先生が多いといわれます。つまり、常に自主性を重んじるのです。

学期・学年ごとに、作品を提出すると、必ず「講評会」が開催されます。

増村岳史『東京藝大美術学部 究極の思考』(クロスメディア・パブリッシング)

講評会とは、学生が制作した作品に対して、自ら制作意図などの解説を行い、担当の先生が講評する場です。この場には、同じ学科のほかの学生たちも参加し、作品に対しての批評も行います。

つまり、年間の中で数回、学生たちは自身の作品が批評に晒されるのです。

一般の大学のように、授業ごとに課題を出され、次の授業までに課題を提出する、いわば、PDCA(プラン・ドゥ・チェック・アクション)サイクルを回転させるような形式のものはほとんどありません。

ましてや、受験のときなどのように2日間で仕上げなければならないこともありません。数カ月、半年間の単位で、卒業するまで作品をひたすら制作し続けるのです。

そして、4年時に最後の作品制作である卒業制作をもって学部を卒業します。

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増村 岳史(ますむら・たけし)
アート・アンド・ロジック取締役社長
学習院大学経済学部卒業後、株式会社リクルート入社。マーケティング・営業を経て映画・音楽の製作および出版事業を経験。リクルート退社後、音楽配信事業に携わったのち、テレビ局や出版社とのコンテンツ事業の共同開発に従事する。2015年、アートと人々との垣根を越えるべく誰もが驚異的に短期間で絵が描けるプログラムを開発、企業向けにアートやデザインを通して脳を活性化し、新たな知覚と気づきの扉を開くアート・アンド・ロジック株式会社を立ち上げ、現在に至る。代々のアート家系で、人間国宝・増村氏の血筋。著書に『ビジネスの限界はアートで超えろ!』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)がある。
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(アート・アンド・ロジック取締役社長 増村 岳史)