居城を失い浪人に落ちぶれた戦国武将・尼子経久…なんと『とある舞』で城に忍び込み奪還に成功していた

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毛利元就、宇喜多秀家と並んで中国の三大謀将と呼ばれた尼子経久(あまご-つねひさ)。

他にも謀聖や雲州の狼といった異名も持ち合わせておりますが、一度居城の月山富田城(がっさんとだじょう)を失うも意外な方法で城を取り戻しておりました。

果たして、その方法とは何だったのでしょうか。

そこで今回は、経久が居城である月山富田城を失った理由と取り戻した方法をご紹介します。

尼子経久/Wikipediaより

強引な地盤固めで城を失う

月山富田城跡/Wikipediaより

長禄2年(1458)に生まれた経久は、文明10年(1478)までに家督を父・尼子清定より継承しています。

この時の尼子氏は、出雲や近江等の守護を務める京極氏の代わりに国を管理する守護代として出雲国に滞在しておりました。

これを好機とみた経久は、国人たちと協力関係を築き始めます。そして、京極氏が持つ寺社領の横取りや美保関公用銭の段銭の徴収拒否を繰り返し、独自の基盤を築きました。

しかし、経久の行き過ぎた行為に室町幕府や京極氏の反感を受けてしまい、文明16年(1484)に居城の月山富田城を包囲されてしまいます。

その上、守護代を剥奪されたことで経久はすべてを失ってしまいました。

浪人経久、鉢屋衆に目をつける

千秋万歳の様子/Wikipediaより

浪人となってしまった経久は、再起を図るべく鉢屋衆(はちやしゅう)に目をつけます。

鉢屋衆は祭礼や正月に芸を演じる芸能集団で、月山の麓に住む鉢屋衆は賀麻党(かまとう)と呼ばれていました。

経久はその党首・鉢屋弥之三郎(はちや-やのさぶろう)を味方に付け、賀麻党が月山富田城で毎年催す新年を祝う舞・千秋万歳(せんずまんざい)に紛れて城を奪還する計画を立てました。

奇襲成功により城を奪還

伝・塩冶掃部介墓/Wikipediaより

文明18年(1486)の元旦、賀麻党70人は計画通り太鼓や笛を鳴らしながら月山富田城へ進入。城内の兵たちは舞に見入っていました。

その隙に忍び込んでいた経久は各地に火を放ちました。これを合図に賀麻党は、身にまとっていた烏帽子や素襖を脱ぎ捨て、隠していた具足と武器で奇襲を仕掛けます。

突然のことに対処できず、城内は混乱状態。混乱を抑えきれず、月山富田城の城主だった塩冶掃部介(えんや-かもんのすけ)は妻子を殺害した後に自害しました。

こうして、経久は再び月山富田城の城主に返り咲きました。

守護代から守護への地位を固める

その後、経久はお家騒動に敗れた出雲守護・京極政経を匿ったことで関係を修復させ、明応9年(1500)に守護代としての地位を完全に復活させました。

政経の死後には、宍戸氏と婚姻関係を結び、勢力を有していた塩冶氏をけん制し、権力基盤を確立させていきます。

そして、政経の後継者である吉童子丸が永正11年(1514)に病死すると、経久は権力者がいない出雲国を乗っ取りました。

ただ、この時点では守護代の地位でありましたので、大永年間(1521年〜1528年)に出雲守護に任命されたことで、名実ともに出雲国を手中に収めました。

また、月山富田城奪還に協力した鉢屋弥之三郎は、月山富田城本丸北にある鉢屋平に長屋を与えられ、以後やぐら下郎と呼ばれるように。

その後は忍者となり、賀麻党を率いて奇襲やだまし討ちで功績を挙げ、最後まで尼子氏のために尽くしました。

参考:二木謙一『誰かに話したくなる日本史こぼれ話200』‎2006年、日本文芸社