岡島秀樹氏

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 もともとメジャーリーグには何も興味がなく、ジャイアンツひと筋で現役生活を終えるつもりだった。しかし、プロ13年目の開幕直前に決まった北海道日本ハムファイターズへの電撃トレードが岡島秀樹の人生を変えた。
 そして、’07年から、彼はメジャーリーガーとなった。「ボストンがどこにあるのかも知らなかった」と語る岡島は、1年目から中継ぎ陣の中心として活躍。ワールドチャンピオンに輝き、チャンピオンリングも手に入れた。

 ふとしたきっかけから運命が激変し、「野球人生の最後はアメリカで迎えたい」と考えるまでになった彼のアメリカでの日々を振り返りたい――。

◆FAの権利を捨ててでも残りたいチームから移籍を告げられた

 1993年秋、読売ジャイアンツからドラフト3位で指名された。桑田真澄、槙原寛己、そして斎藤雅樹の3本柱を擁する豪華投手陣の中で岡島のプロ野球人生は始まった。プロ6年目となる1999年に中継ぎに転向すると、めきめきと頭角を現し、貴重な左腕としてチームに欠かせない存在となる。

 しかし、’06年の開幕直前、岡島は北海道日本ハムファイターズへのトレードを命じられた。青天の霹靂だった。

「あと数か月でFAの権利を取得できる時期でしたけど、チームには愛着がありましたからジャイアンツに残るつもりでした。なのに、FAの権利を捨ててでも残りたいチームから移籍を告げられた。それはやっぱりショックでした」

◆トレイ・ヒルマン監督、新庄剛志氏との出会い

 しかし、ファイターズでの出会いが岡島を変えた。きっかけをもたらしてくれたのはトレイ・ヒルマン監督と、この年限りでの引退を事前に表明していた新庄剛志だった。

「ヒルマン監督はいつも、『家族は元気か?』とあいさつしてくれました。東京に残してきた僕の家族のことを気にかけてくれていたんです」

 コンディションについて尋ねられたことは一度もなかった。いつも家族のことばかり尋ねられるのが不思議だった。

「それで通訳さんに聞いたら、『それがアメリカンスタイルだ』と言われました。このとき初めて、アメリカっていいな、って思ったんです」

 一方の新庄は、「岡島のフォームは個性が強いから、絶対にアメリカで通用するよ」と熱心に語り続けたという。リリースの瞬間に顔を下に向け、ホームベース方向を見ずに投げる独特の投球フォームを新庄は絶賛したのだ。

「新庄さんからは、『この投げ方なら、必ず通用するから、絶対にアメリカに行ったほうがいい。すぐに行け!』って何度も言われました(笑)」

◆真っ先に連絡が来たのはボストン・レッドソックス

 家族を気遣うヒルマンのスタイル。そして、メジャー経験を持つ新庄の言葉。少しずつ、岡島の胸の内にメジャーリーグの存在が大きくなっていく。しかし、それはまだ曖昧模糊としたものだったが、やがて現実味を帯びてくる。

 移籍1年目となる’06年、ファイターズは北海道移転後初となるリーグ制覇、そして日本一に輝いた。左のセットアッパーとして、岡島もチームに貢献した。そして、この年のオフ、満を持してFA宣言をした。国内外を問わず、自分の評価が聞きたかった。

「真っ先に連絡が来たのはボストン・レッドソックスでした。エージェントによると、条件もそんなに悪くないということだったので、家族に相談せず、独断で決めました」

 それまで、まったくメジャーリーグに関心はなかった。かつてのチームメイトの松井秀喜がニューヨーク・ヤンキースで活躍する姿をスポーツニュースで見る程度だった。

 しばらくすると、期せずして松坂大輔のレッドソックス入りが決まった。世間の注目は松坂に集まっていた。