80年前、大空で生命を賭して戦った若者たち…戦争の「生き証人」として当時を語った「8人の元零戦搭乗員」

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私は、2024年4月25日、『決定版 零戦 最後の証言1』(光人社NF文庫)を上梓した。

じつは私は、平成1999年、本書の「原型」とも呼べる『零戦 最後の証言』、2001年にはその続編『零戦 最後の証言II』を上梓している。同書は、もとは写真週刊誌の報道カメラマンだった私が、終戦50年(1995年)を機に「元零戦搭乗員が振り返る戦中、戦後」をテーマに取材を始め、その成果の一部を書籍化したものだった。

戦争体験者たちが守ってきた沈黙

零戦にまつわる書籍はすでに巷に溢れていたが、取材を始めて驚いたのが、ほとんどの人が自身の戦争体験を家族にすら話していなかったことである。つまりそれまで世に出ていた話はほんの氷山の一角だった。

沈黙を守ってきた理由は人それぞれだ。取材を受けたら意に反した形で発表され、話すことに懲りた人、戦場での体験がいわばトラウマになり思い出したくないという人、戦争で死んだ戦友たちに対し、生き残ったことへの負い目、戦争に敗けたことへの慚愧の念……終戦時に海軍から受けた「密命」のために口をつぐんでいた人もいる。

戦後50年というのは、そんな人たちが自らの寿命を自覚し、人生を振り返りはじめた時期でもあった。

「50年も経てば『当事者』から『生き証人』になる。生き証人として話をしましょう」

と言った人もいる。私はたまたま、この人たちがまさに重い口を開こうとした時期に取材を始める巡りあわせになった。

四半世紀の時を経て

太平洋戦争(大東亜戦争)で実戦を経験した当事者一人一人の戦中、戦後の姿とともに、現代からの目線で戦争体験を回想するスタイルの本はそれまで類書がなく、タイトルの「最後の証言」とともに、多くの後追い本が出た。そういう意味では、戦争を扱った書籍の一つのジャンルのパイオニアになったと自負している。

それから四半世紀――。いまだから言えることだが、当時、知恵を振り絞り、同様のタイトルの先行本がないことを確認して、練りに練ってつけた『最後の証言』というタイトルは、取材を受けた当事者からは不評だった。

その頃、元零戦搭乗員は、航空隊で飛行長を経験した元中佐から訓練中に終戦を迎えた元飛行兵長まで約千人が存命で、

「『最後の証言』とはなんだ。俺はまだまだ死なんぞ」

と、意気軒高で、なおかつ元気な人が大勢いたのだ。

だが、「時間」は戦争より確実に人の命を奪う。千人いた元零戦搭乗員が、25年後のいま、名簿上でわずか十数名を残すのみとなってしまった。令和6年4月現在、存命が確認できている元搭乗員の最年長は106歳、最年少が95歳である。

私はその後、『零戦最後の証言』で取材した元零戦搭乗員に、新たに出会った人たちの話を加えて『証言 零戦』シリーズ全4巻を講談社+α文庫で刊行したが、これは文字数無制限のインターネットマガジンに寄稿した文章を順にまとめたもので、私としては反省点も多かった。

「決定版」を世に出す決心をした理由

今回、『零戦 最後の証言』の「決定版」(全3巻)を世に出す決心をしたのは、いくつかの理由がある。

まず、四半世紀の間に元零戦搭乗員のほとんどが鬼籍に入り、存命の方もふくめて新規の取材がほぼ不可能になった、つまり、私のインタビューに語った言葉がほんとうに「最後の証言」になってしまったこと。次に、この人たちの物語と姿とを、より完成度を高めた形で、後日談もふくめて残しておきたかったこと、などである。

なかでも私のなかで大きなウエイトを占めるのは、第一線に投入されたうちの八割が戦死したほどの未曾有の激戦を、零戦を駆って戦い抜いた「勇者たち」が、この世に「生きた証を残す」ことだ。

当事者(=元零戦搭乗員)の子供世代でさえも高齢化が進み、四半世紀前の親の年代と重なりつつあるいま、孫や曾孫にあたる世代で、戦争中を生きた人たちに関心を持つ人が増えてきたという実感がある。そしてそのなかには、零戦搭乗員をルーツにもつ親族の人も少なくない。じっさい、近年、SNSを通じて、「おじいちゃんのことが知りたい」「曾祖父のことが知りたい」などと、若い親族の方から問い合わせや連絡をもらうことが目立って増えてきた。

「祖父が亡くなったときまだ小さくて話が聞けなかった」「曾祖父は私が生まれる前に亡くなり、写真でしか知らない」「戦死した大叔父の名前があなたの本に出ていたので、わかることを教えてほしい」……。元零戦搭乗員から体験を聞き、多くを教えられてきた私が、いつの間にか、その話を近い子孫である親族に伝える立場になった。

人がほんとうに死ぬのは、その存在が誰からも忘れ去られたときだ、と思う。来年(2025年)は戦後80年。帝国海軍が存在した期間(73年)よりもはるかに長い時間が過ぎた。「80年」といえば、人が何かを忘れ去るには十分な時間だ。しかし私は、縁あって出会った戦士たちの記憶を、誰かの心のなかに刻むことができれば、という思いでこの本を書いた。

登場人物それぞれのプロフィール

では、『決定版 零戦 最後の証言1』の登場人物それぞれのプロフィールをご紹介しよう。

三上一禧(かつよし)氏は、現存最高齢の零戦搭乗員である。1917年、青森県に生まれ、飛行機に乗りたい一心で1934年、海軍を志願。部内選抜の操縦練習生を経て戦闘機搭乗員になった。1940年9月13日、海軍に制式採用されたばかりの零式艦上戦闘機(零戦)が中国・重慶上空で中華民国空軍のソ連製戦闘機と戦ったデビュー戦に参加。そのとき撃墜した中華民国空軍のパイロット・徐華江氏と58年後の1998年、奇跡的な再会を果たした。そのとき、報道対応と記者会見の司会を務めたのが私だった。恩讐を超え、「やっとお会いできましたね」「よかった。ほんとうによかった」とガッチリ抱き合った三上氏と徐氏の姿は忘れられない。2人の友情は2010年に徐氏が亡くなるまで長く続いた。

黒沢丈夫氏は元海軍少佐。開戦劈頭、台湾の基地から零戦隊を率い、フィリピン・クラークフィールドの米軍基地を空襲。その後も蘭印(現インドネシア)を島伝いに転戦し、連合軍機を圧倒した。戦後は故郷・群馬県多野郡上野村の村長となり、全国に先駆けて村民の健康診断、成人病対策に取り組んだり、中学校に外国人英語教師を招聘したり、中学生全員に海外でのホームステイを体験させるなどの施策を実行した。1985年8月12日、羽田発大阪行きの日航ジャンボ機が村内の御巣鷹の尾根に墜落するや、パイロットとしての経験を生かして役場の陣頭指揮をとり、自衛隊や機動隊による捜索、救出活動を陰で支え続けた。事故後には犠牲者520人を供養する道義的立場から「慰霊の園」を建築している。2011年歿。享年97。

藤田怡與藏氏も元海軍少佐。空母蒼龍に乗り組み真珠湾攻撃に参加、ミッドウェー海戦では蒼龍が撃沈され海を漂流、奇跡的に救助される。その後もラバウル、硫黄島、フィリピンなどを零戦隊や紫電隊を率い、転戦した。戦後、GHQに禁じられていた航空活動が解禁されると日本航空に入社。ダグラスDC-4、DC-6C、DC-7、DC-8の機長を経て、1970年、日本人として最初のボーイング747(ジャンボジェット)の機長となった。1977年、引退するまでの総飛行時間は18030時間におよぶ。2006年、89歳で死去。「空はいいぞォ!」というのが、私が聞いた藤田の最後の言葉になった。

中島三教氏は、1933年に水兵として海軍に入り、部内選抜の操縦練習生として戦闘機乗りになった。中華民国空軍との戦いに活躍、さらに操縦教員として多くのパイロットを育てた。日本舞踊の名手でもあったという。1943年1月、ラバウルからガダルカナル島に向け出撃したさい、乗機のエンジン故障で海面に不時着、島に泳ぎつき現地人に助けられたが、敵に売られて米軍の捕虜となった。米本土の収容所に送られ、テキサスキャンプで終戦を迎える。捕虜収容所で一緒だった人のなかには、真珠湾攻撃の「捕虜第一号」酒巻和男少尉や、戦後直木賞作家となる豊田穣中尉らがいた。中島氏は、その操縦技量を知る誰もが認める名パイロットだったが、捕虜になったことを恥じて、私が訪ねるまで戦争体験を語ることはなかった。

岩井勉氏は、やはり飛行機に乗りたい一心で1935年、予科練を志願。1940年9月13日の零戦のデビュー戦に参加。太平洋戦争では空母「瑞鳳」に乗り組み、ラバウル、マーシャル諸島の激戦をくぐり抜け、1944年の比島沖海戦では小沢囮艦隊の空母「瑞鶴」から出撃。さらに数次の沖縄航空戦を戦い抜いた。その間、22機もの敵機を撃墜しながら、自らの機体には1発の敵弾も受けなかった。その操縦技量から、教官として操縦を教えた予備学生たちから「ゼロファイターゴッド」と呼ばれていたという。戦後は経理の道に進み、米穀会社を経営。2004年、84歳で亡くなったが、岩井氏の主治医が私の亡父を看取った主治医と同じ医師であったりと、不思議な縁でつながっていた。

中村佳雄氏は1923年、北海道生まれ。自転車も見たことのなかった寒村の少年が1940年、海軍を志願、生まれて初めて汽車に乗って横須賀海兵団に入団。部内選抜の丙種予科練を経てたった2年で一人前の戦闘機乗りになった。1942年、ラバウルに派遣されてからはガダルカナル島やポートモレスビーの攻防戦を中心に、のべ百数十回の出撃を重ねる。空戦中2度の重傷を負いながらも帰国を拒み、1年4か月にわたって戦い続けた。その後は日本本土上空でB-29を撃墜したこともある。戦後は郷里で造材業を営んだ。空戦で被弾したさいの弾片が体に入ったままで、空港の金属探知機に必ず反応したという。2012年、89歳で死去。

吉田勝義氏は1923年、兵庫県香住町生まれ。中学校の友人に誘われて一緒に受験した甲種予科練に合格、戦闘機乗りとなる。主に東南アジアの戦線で戦い、オーストラリア本土のダーウィン空襲ではイギリスの誇る名機スピットファイアを圧倒した。その後、戦況が悪化すると太平洋の激戦地に送られ、トラック島防空戦やビアク島攻撃に参加。日本に帰還してからは主に関東に来襲する敵機と戦い、1945年8月15日午前、天皇の玉音放送前に米英軍の艦上機が大挙して関東を空襲したさいにも出撃、英軍機1機を撃墜している。戦後は漁網会社に勤務。1977年、NHKの「思い出のメロディー」に出演、戦地で慰問団の一員として会った森光子と再会した。2018年死去、享年95。

土方敏夫氏は、1922年、大阪で生まれ、東京で育つ。豊島師範学校を卒業後、小学校教員をしながら東京物理学校に通い、1943年、海軍飛行専修予備学生十三期を志願。約5000人中20番の成績で基礎課程を修了すると、選ばれて戦闘機搭乗員となった。沖縄戦、九州上空の邀撃戦で連日のように出撃。終戦後は教壇に戻り、成蹊学園中高校の数学教師、教頭となる。成蹊時代の教え子に故安倍晋三元総理大臣がいた。学校を退職後は外務省帰国子女相談室長を長年にわたって務め、帰国子女教育に尽くした。戦後の一時期、中学校の数学教科書の執筆にも携わっている。2012年死去。享年91。

本書『決定版 零戦 最後の証言1』の登場人物は以上8名だが、オビに〈「地獄の戦場」「鎮魂の戦後」を見た男たちが語る 零戦パイロット全24名の証言録、シリーズ第一弾!〉とあるように、第2巻、第3巻を数ヵ月おきに刊行する予定である。

――80年前、欲も得もなく、ただ大切なものを守るためと信じ、大空で生命を賭して戦った若者たちが確かに存在した。戦場で多くの仲間を失い、奇跡的に生還した彼らは、戦後、一変した価値観に戸惑いながらも、それぞれの形で戦後の日本復興に尽力、貢献した。このことを、次代を担う世代にこそ知ってほしい。――お伽話ではなく、彼らの記憶を未来にまで繋いでいくために。

【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!