レンジで作る時短キーマカレー(写真:『50歳からのひとりごはん 少量・手抜き料理で生きていく!』)

子どもが大きくなり、家族のためのご飯を"卒業"した途端、好きなものを自分のペースで食べられる解放感を味わった、という料理家の本多理恵子さん。

しかし、それも束の間。料理を作るモチベーションが上がらず、だんだん食生活は乱れていきます。だからと言って、料理をひとり分だけ作るのは難しく、昔と違って量を食べられないという現実も……。

本稿では本多さんの著書『50歳からのひとりごはん 少量・手抜き料理で生きていく!』から一部を抜粋。家族ごはんを卒業した料理家が実生活で直面した、リアルな境地を垣間見てみましょう。

料理家のリアル

私はもともと料理が得意でも好きでもありません。

しかし、今まで家族のために、というか子どもの成長のために、どうにか「人に食べさせるごはん」を作ってきました。

また、ひょんなことから飲食業を始め、その傍ら料理教室をかれこれ15年ほど開催してきました。

繰り返しますが、今でも料理が得意でも大好きでもありません。

でも、だからこそ「できない立場」「それほど好きじゃない立場」から見つけた知恵やレシピは少なからず反響を呼び、おかげで世の中にたくさんの「料理が好きじゃないけど作っている」同志がいることもわかりました。

この体験から、2018年に『料理が苦痛だ』という本を出しました。

実は多くの人が感じている「料理がしんどい」という思いは、料理を通じてたくさんの生徒さんとふれ合ってきた私だからこそ言葉にして発信すべきだと確信したからです。

その後も何冊かの書籍を通じ、毎日のごはん作りの現場に立つ人たちと共感し合いながら、様々な苦痛をやり過ごす知恵や方法をお伝えしてきました。

そして時は流れ、私のプライベートのごはん作りに変化が起こりました。

息子が高校を卒業したことでお弁当作りが終わり、さらに大学に入学したタイミングで、私も「家族のために作るごはん」を卒業したのです。

実に20年ぶりに夫婦2人の生活となりましたが、夫はほとんど家でごはんを食べないので、実質ひとりで食べる「自分のためのごはん」作りの環境へと変わったのです。

「自分が食べたいものを、食べたいときに食べればいい」

そう思ったとき、世界の中心で叫びたいくらいの解放感を味わいました。

誰にも追い立てられず、時間も気にせず、何の責任も負わず、自分の腹具合でいつ何を食べようが構わないという自由。

激辛カレーや山盛りパクチーのエスニック料理も、食べたいときに食べられます。夜ごはんのおかずが納豆だけでも、ビールと柿ピーで済ませても構わないのです。

自由だけれど乱れる一方の食生活

また、食材の管理もグッと楽になりました。

たとえば、自分へのご褒美用に冷蔵庫で冷やしておいたプリンが食べられてしまうことも、飲もうと思った麦茶のポットが、ほとんどカラのまま残されていることもありません。

つまり、冷蔵庫の中の食材をすべて自分の管理下に置き、誰にも荒らされない平和が訪れました。何が残っていて何が足りないのかを把握できているので、突然思い立って料理するときや買い出しのときもいちいち冷蔵庫を確認しなくていいのです。

ちょうど、ひとり暮らしを始めたときの感覚がよみがえりました。

しかし、こうして気ままな食生活を送りつつも、次第にそこはかとない寂しさと虚しさ、そして後ろめたさを感じるようにもなりました。

自由気ままな食生活は、料理を作るきっかけとモチベーションを見失い、乱れる一方でした。

自分ひとりのためにわざわざ用意するのは面倒くさいし、多少の空腹はつまみ食いで我慢してしまうようになったのです。

こんな生活では痩せてしまうのではないか!とあらぬ妄想を抱きましたが、食生活が乱れると間違いなく太ります。そしてメンタルは罪悪感と背徳感で常にモヤモヤしています。

仕事としてきちんと作る料理の反動で、ふだんのごはん作りは一層おざなりになっていきました。

「いつもこんなにおしゃれで美味しいごはんを作っていてすごいです」

料理教室ではたとえ社交辞令でもそう言っていただくことが多く、そのたびに違う違う!と心の中で絶叫していました。「自分のごはんなんて適当ですよ」と口にしても、人様は信じてくれません。

「またまたご謙遜を!」と言われて、いちいち否定するのも面倒になりました。

そんな食の二極化は2、3年続きました。

まがりなりにも料理を仕事にし、料理教室では「栄養バランス」や「野菜をたっぷり」などエラソーに口にしていた自分が!です。

人間、責任感がなくなるとこうも堕落するのか、とリアルに体験しました。

そんな中、ときおり芽生える問題意識から自分の未来を想像してみました。

自分で気をつけない限り、自分のごはんは変わらない。他人から注意されることがなくなっていくのが、歳をとるということです。

ただ、間違いなく人間の体は食べたもので作られています。

そしてこれから先も、できれば心身とも健やかに生き抜きたいと思っています。

「自分を食べさせていく」へ

次第に「自分の未来のための食事」を意識し、「自分を食べさせていくこと」に取り組もうという思いが大きくなりました。

では、どうしましょう。どうやって自分を食べさせていきましょう?

同じような年代、環境の人はいったいどうやっているのか?と外に目を向けてみて、打ちのめされたのです。

インスタグラムや雑誌の「手間暇をかけたていねいな暮らし」や「健康を意識した手作り生活」ばかりが目に入り、そのおしゃれすぎる暮らしぶりやマメさに圧倒されました。

そんな生活に強く憧れ、生まれ変わったら絶対にそんなことができる人間になりたいと思いますが、私には無理です。というか、そもそもできないし続かない。

たとえ見よう見まねで挑戦してみても、結局くたびれて終わりです。

タケノコのアク抜きに疲れカップ麺をすすり、クリの渋皮をむいて荒れた指先に気持ちが萎え、漬けた梅干しも梅酒も結局消費できません。

大量にゆでたあずきは食べきれずに、もう2年ごしで冷凍庫の奥に眠っています。

もったいないし食べきれないからと、自分が作ったものをよそ様におすそ分けするのも考えものだと思うようになりました。

実際に友達から「いつも煮物を持ってきてくれる知り合いがいるけど、実は食べきれなくて断れずに困っている」と聞いて、ハッとしたのです。

そうです。ひとりが食べる分量なんてたかが知れているのです。

残念ながら、「作った量と実際に食べられる量」「作ってみたい気持ちと実際の食欲」は比例しません。

同じものを延々食べ続けることは食の自由さを奪い、冷凍庫の中の残り物を見てはため息をもらすことになります。

そこでたくさんの後悔を経て、「手仕事は気が向いたときだけ・自分がすぐに食べきれる分だけ」と決めました。

味噌に関しては、よほど気が向いたときだけ手作りしますが、基本「ちょっといい味噌」を色々と買って楽しんでいます。

おしゃれ気分にそそのかされて作るジャムも、そもそも基本的に私はパン食ではないので、作った後でほとんど食べないことに気づきます。

限りある時間と衰えていく消化能力を考えたら、食べきれない食材の保存や消費に追われるのは本当にバカげていると気づきました。

作りすぎない、ため込みすぎない。

美味しいものを、食べたいときに、ちょうど良い量だけいただく。それこそが大人世代の最高の贅沢だと思うのです。

そして年を重ねるにつけ、行動パターンも変わりました。

若いころは「面倒だから外食で済ませよう」が、最近は「外食に出かけるのが面倒」になりました。外食好きの私が今ではほとんど家で食べるようになった理由は、「面倒くさい」気持ちと「外食のメニューにちょうどいいものがない」からです。

その日の様子で「ちょうどよく」

このように、「家で作る自分のためのごはん」が自分にとって大切なことになりましたが、同時に「面倒に思うこと」は料理に限らず年々驚くほど増えてきました。


人間関係や感情の起伏、日常の身支度から家事全般まで。中でも生きていくには避けられない「料理」は、「面倒くさい」が満載です。

しかし幸いにも、私たちには長年それなりに料理をしてきた経験とスキルがあります。細かいことをいちいち説明されなくても、なんとなく作れる経験値があります。

食べやすい大きさとは何センチ四方なのか、塩少々とはどのくらいなのか……。そういうことは示されなくてもだいたいわかります。素晴らしき「適当力」がついています。

「私なんて我流で……」と皆さん謙遜なさいますが、自分ひとりで作る料理は全人類もれなく我流です。そもそも、料理は我流&マンネリでよくて、レパートリーすらそれほど必要ではありません。

一度に食べられる食事の量も減ってくるので、その日の腹具合、そして気分と相談して「ちょうどよく」作って食べましょう。

(本多 理恵子 : 料理家)