「現代の若者たちにとって理解不能」であろうさまざまな言葉を項目別に解説します(写真:アン・デオール/PIXTA)

『じつは伝わっていない日本語大図鑑』(山口謠司 監修、東洋経済新報社)では、誰もが手っ取り早く情報を入手できる“スマホ社会”が日本語に与えている影響は大きく、そして深いと警鐘を鳴らしている。

「オワタ」「クサ」…極端に短い文字による弊害

そうかもしれない。ただ、よく指摘されるように言葉は生き物であり、その時代に生きる人の価値観を投影したものでもある。だとすれば、旧来の常識を逸脱した表現が浸透したとしても、それはむしろ自然なことなのではないか?

彼らがSNSやLINEなどの画面に打つのは、たとえば「り(→了解の意)」「オワタ(→終わったの意)」「クサ(→笑いの意)」……などなどの極端に短い文字、あるいは記号や絵文字。
いったい、日本の素敵な言葉がどれだけ摘み取られてしまっていることか。(「はじめに」より)

だが、著者と同年代の私もSNSでは「w(→笑いの意)」みたいな表現を日常的に使ったりしている。もちろんそれを正当化したいわけではなく、基本的に日本語は正しく、なるべく美しく使うべきだ。

とはいえ、口語(話し言葉)に関してはそれでもいいという気がしているのである。著者の言う「極端に短い文字、あるいは記号や絵文字」が“共通言語”として機能するならば、それらを用いることでコミュニケーションは成立するのだから。

ただし著者は若者同士のコミュニケーションを問題視しているのではなく、「若者と年配者との会話」に危機感を抱いているようだ。「年配者なら当然知っている言葉を若者は知らない。だから、コミュニケーションが成立しない」という現実があるということだ。

もしも今日、部下の若い社員たちにかけた言葉「大車輪でいこう!」が、まるで彼らの心に届いていないとしたら--。兄弟げんかの仲裁に入った母親の一言「両方ともそんなに目くじら立てなくても」が、彼らの頭に「?」としか残さないとしたら--。そのほか、わが子を励ます「本腰を入れて頑張れ」とか「大器晩成型だから」とか……。
もちろん通じるケースがゼロとはいいませんが、いずれにせよ、日本語コミュニケーションをめぐる新たな実情を正しく把握し、自分が扱う言葉の選択に今一度配慮することが、若い人相手には最低限必要なのかもしれないのです。(「はじめに」より)

そこで本書において著者は、「現代の若者たちにとって理解不能」であろうさまざまな言葉を項目別に解説しているのである。いくつかを抜き出してみよう。

“もうひとつの意味”が通じない


お金がないことをはっきりと訴えたくないとき、「どうにも首が回らなくて」というような表現を用いたりする。あるいは他人の情報をつい聞いてしまったとき、「たまたま耳に挟んだもので」と言い訳することもあるだろう。

日本語にはこうした、「直接的な言葉を避け、なんらかの言葉の裏にもうひとつの意味を含ませる」という特徴があるわけだ。

しかし著者によれば、スマホの短い表現だけで要件を済ますことの多い昨今では、そんな“遠回りな”言い方は聞いたこともないという若者が“驚くほど増えている”らしい。

そこでここでは、「文字通り以外に別の意味がある」言葉を紹介しているのである。

味噌をつける:失敗してしまう。面目を失う。あることをしそこなって目的を達することができない。昔、失敗してヤケドをした箇所に味噌をつけて手当てしたことから(15ページより)

枕を高くする:身の回りに危険なことや心配事がなく、安心してゆったりと眠る状態(16ページより)

弓を引く:引き立ててもらったり、恩ある人などに対して、そむくこと。反抗すること(20ページより)

襟を開く:自分の胸の内をさらけ出す。思っていることを隠すことなくすべて打ち明ける(45ページより)

バスに乗り遅れる:時代の流れに置いていかれる。世の中の動きについていけない。取り残される(49ページより)

「海老で鯛を釣る」「絵に描いた餅」など、世の中の理や人生の機微を簡潔に掬い取っていることわざの数々も、短文だけでこと足りるスマホ社会では登場する機会が減っていると著者は危惧する。

また、ことわざ以外にも日本語には、巧みな喩えで本来の意味を込めた言い回しが多数。昔は誰もが「ああ、それそれ」と比喩を共通理解していたということだ。

木で鼻をくくる:冷たい無愛想な態度で応対する。そっけなくあしらう(55ページより)

虎の尾を踏む:非常に危険きわまりないことをする(65ページより)

色を失う:非常に驚いたり恐れたりして、顔色が青ざめるさま(66ページより)

呑んで掛かる:実力は自分より劣っているはずと相手を下に見て対応する。相手を軽く見くびって勝負に向かう(66ページより)

蛙の面(つら)に水:どんなことをされようが、何を言われようが、まったく平気でいる。羞恥心もなく、言動も厚かましい様子(72ページより)

昭和世代が好む言い回しは若者には謎

たとえば、いちばん重要な最優先事項を意味する「一丁目一番地」の意味がわからず、別の意味に捉えていたという若者は少なくないようだ。

そんなところからもわかるように、昭和の言い回しは多くの場合、いまの若い人たちにはほとんど理解されないと考えるべきだという。

よしなに:おまかせするから、上手にやっておいてね。うまい具合になるよう、よろしくね、という意。ほぼ丸投げに近いニュアンス(111ページより)

空中戦:手元に資料などがいっさいなく、口頭だけで議論を交わすこと(116ページより)

ガッチャンコ:二つ以上の事柄を、まとめて一つにすること(117ページより)

ロートル:年寄りのこと。元は「老頭児」という中国語で老人を意味する(119ページより)

メートルを上げる:酒を飲んで酔いが回るにつれて、どんどん気勢が上がる(126ページより)

「大風呂敷を広げる」と言われても、風呂敷を知らなければ理解できないのは当たり前。「下駄を預ける」と肩を叩かれても、そもそも下駄を履いたことがない--。このように、「モノ」がもとになっている言葉を理解しようとするのは若い世代にとって難しくもあるのかもしれない。

お鉢が回る:順番が巡ってくる意。お鉢とは飯びつ=ご飯を入れる桶状の器。昔、複数人の食事の場で、それぞれの分のご飯を取るため、飯びつを回したことから(155ページより)

濡れ手で粟:なんの苦労や努力もなしに、利益を得ること。水に濡れた手で小粒の穀物である粟をつかめば、手にいっぱいくっついてくることから(159ページより)

のれんに腕押し:軒先の日よけや屋内の仕切り用として、ひらりと垂れている布のれん。それを腕に力を入れて押しても手応えがない。そこから、相手にいろいろ働きかけをしても反応がなく、張り合いがない、の意(161ページより)

敷居が高い:不始末があったり不義理をしていたりなどで、その人の家へ行くのにどうも気が引ける。行きにくい意。敷居とは、戸などを開け閉めするための溝がついた横木。敷居が高いと、またぎづらいことから(165ページより)

お座敷がかかる:仕事を依頼される。あることで人に招かれる。芸者や芸人などが客に呼ばれる、という本来の意味から派生(165ページより)

どの世代も気づきが得られる

先にも触れたとおり、なにかと「若者はこうだ」と結論づけようとするところに多少の抵抗を感じるのは事実だ。なるほど「上の世代からすれば常識的なことを知らない若者が“驚くほど増えている”のかもしれないが、そんなことを言い出したところでなにも解決しないからだ。

ましてやそういった言説を若者が目にしてしまったとしたら、上の世代との間の分断はさらに深いものになってしまうだろう。だからこそ、必要以上に世代間ギャップを強調するべきではないと私は思う。

その点については指摘せざるを得ないが、しかし、そういった世代論とは別の次元で、本書の内容は非常に興味深くもある。なぜなら世代に関係なく、読者はここからさまざまな知識をインプットできるはずだからだ。

いや、それ以前に、パラパラとページをめくり、目についた項目を流し読みするだけでも楽しく、大きく役に立つに違いない。

たとえば若者であれば、「へー、こんな言葉があったのか」と新たな知識を得ることができる可能性は大きい。一方、上の世代も「そういえば、こんな言葉があったなあ」と、忘れかけていたことを思い出すかもしれない。

逆に、「このくらいのことは知ってるよ」という若者だってもちろんいるだろうし、「これは知らなかった」と上の世代が新たな気づきを得ることも考えられる。

つまりは世代がどうであれ、「へー、そうだったのか」「おっと、うっかり忘れていたぜ」というような気づきや思いを本書は与えてくれるのである。

したがって年末の「ケツカッチン」な状況でも、気軽に楽しむことができることだろう。

(印南 敦史 : 作家、書評家)