「さあ、エジプトの皆さんこんにちは」ほとんど日本語なのに"味の素が飛ぶように売れた"驚きの営業トーク
※本稿は、黒木亮『地球行商人 味の素グリーンベレー』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
※本稿は、2013年の話です。登場人物の肩書は当時のものとなります。
■何を言っても制服を着ない営業マン
2月下旬――
宇治(※)は、オフィスの社長室のデスクで、総務担当の男から報告を聞いていた。
「やっぱりいうこと聞かないか……」
水色の作業服姿の宇治が、苦々しげな顔でいった。
作業服は川崎工場のお下がりで、エジプト味の素食品社の冬の制服として譲り受けたものだった。
「はい、この2日間も注意したんですが、相変わらずジーパンで来ています」
社長用のデスクにくっ付いた会議用テーブルで、総務担当の男が悩ましげな表情でいった。
昨年のラマダン明けに入社した営業マンの一人が、制服のチャコールグレーのズボンをはかないで毎日出社しているのだった。
「それで、はかない理由は何だっていってるの?」
「あのズボンは汚れてしまったので、ゴミとして捨てる、といっています」
縁なし眼鏡の総務担当の男がいった。
「なに、ゴミとして捨てる⁉」
宇治が目を剥く。
(会社が金を出して、わざわざ仕立てて支給したものを、ゴミとして捨てるっていうのは、どういう神経なんだ⁉)
「分かった。会社のルールに公然と挑戦するというのなら、これはもうワーニング・レターしかないね」
「そうですね」
■エジプトなまりの英語でまくし立てようとする
宇治はワーニング・レターを作成し、件の営業マンを社長室に呼んだ。
「きみは制服のズボンをはかないようだけれど、理由は何なのかな?」
宇治は、努めて穏やかに英語で語りかけた。
「ルールだっていうのは分かってます。でも総務の担当者が、僕にひどいいい方をするんです。もうしょっちゅう……」
宇治の目の前にすわった営業マンは感情もあらわにまくし立てる。
24歳で、背が低く、坊主頭で、口の周りにうっすら髭を生やした顔は、日本の田舎の親父のように見える。出張でやって来る浅井(※)は「坊主」と呼んでいた。
※浅井幸広氏:世界各国で行商を指導している海外食品部の部付部長
隣にセールス・マネージャーの島田(※)がすわっていた。
※島田周雄氏
「総務の担当者の話は別問題でしょ? 制服のズボンをはくのは会社のルールなんだから、守ってもらわないと」
「いや、おんなじ問題です! どうしてかというと……」
坊主頭の営業マンは、巻き舌のきついエジプト訛りの英語でなおもまくし立てようとする。
「この件については、あなたにワーニング・レターを出すことにしました」
■「きみには2つのチョイスがある……」
宇治は相手の言葉を遮り、英文のレターを読み上げる。
制服のズボンをはかないことは就業規則違反であり、改善されなければ処分を受けるという内容だった。
「きみには2つのチョイスがある。1つは就業規則を守ること。もう1つは会社を辞めることです」
厳しい表情で宇治がレターを差し出した。法律的に解雇の根拠となり得る文書だ。
「分かりました」
営業マンは抵抗を諦め、淡々と受け取り、サインした。
■何でも抵抗したり主張したりしてみる傾向がある
翌朝――
「サバーハル・ヘール(お早うございます)」
「サバーハン・ヌール(お早う)」
出勤して来た件の営業マンを見ると、ちゃんと制服のズボンをはいていた。しかも、汚れていないまっさらの新品だ。
(なんだ、まったくの新品じゃないか! どこが汚れてるっていうんだ⁉)
宇治は呆れたが、営業マンは涼しい顔をしている。
「お前、いってることが違うじゃないか!」といいたい気分だったが、いってもしょうがないと思い直した。
(まあ、何でもいいから自己主張がしたかったんだろう。もしかすると、総務に日頃色々注意されるもんだから、反抗してみたかったのかもしれないな)
エジプト人たちは、何でも抵抗したり、主張したりしてみて、要求がとおったら儲けもの、とおらなくても元々と考えているふしがある。こういう発想が、何かあるとすぐ集まってデモを起こすという社会現象に通じている。
■不正が発覚、最後は自分から辞めていった
この営業マンは性格が明るく、人懐っこく、粘りもあるので、期待していた一人だった。
その後、態度もあらたまり、仕事ぶりもよかったので、7月にショブラ地区のデポのセールス・リーダーに昇格させた。しばらくはリーダーとして真面目に仕事をしていたが、翌年になると身勝手な言動が目立ち出した。5月に3グラム品のパック(10カレンダー=120サシェ)を定価の21エジプトポンドではなく22.5ポンドで販売し、差額を着服していた不正が発覚した。ペナルティとして、減給と営業手当(1日12ポンド=約171円)の1年間の停止処分にしたところ、自分から辞めていった。
■カイロ国際見本市の日本館に出展した
日々のトラブルは相変わらず数えきれないほどあったが、エジプト味の素食品社は営業基盤を着々と拡大していった。
2月にカイロ市内のナイル川右岸のショブラ地区に最初のデポを開設し、5月に同南部のトゥーラ地区に2つめのデポも開設した。営業チームは、ドッキ本社に車両2チーム、バイク2人、ショブラに車両1チーム、バイク1人、トゥーラに車両1チームとなった。
3月6日には、1日の3グラム品の販売が10ケース(1ケースは5.4キログラム)を超え、過去最高を記録した。
3月19日――
カイロの東の郊外、ナスルシティにある見本市会場で10日間にわたるカイロ国際見本市が始まり、味の素は日本館に出展した。
ブースでは、味の素グループやキーメニューであるロッズの調理方法を紹介するパネルを展示し、島田やエジプト人社員たちが試食や販売を行なった。
■フーテンの寅の格好をして啖呵売
最終日、宇治は、フーテンの寅の格好をして、啖呵売をやった。
「さあ、エジプトの皆さんこんにちは。ものの始まりが一ならば国の始まりが大和の国、島の始まりが淡路島なら泥棒の始まりが石川の五右衛門、ここに持ってきた味の素はただの白い粉じゃない、ジーちゃんもバーちゃんもみんなの料理を美味しくするものだ」
頭に鉢巻を締め、ダボシャツに首から下げたお守り、腹巻姿の宇治は、寅さんになりきって口上を述べる。
後方のブースで、社員や臨時販売員のエジプト人女性らがせっせと味の素を販売する。
「角は一流デパートの黒木屋赤木屋白木屋で、紅おしろいつけたお姉ちゃんに下さい頂戴といっても50や100は下らない代物、今日はなんと、うま味調味料味の素、ハムシーン・グラム・タラータ・ギニー、ノッス・キロ・アシャラ・ギニー(50グラム3ポンド、半キロ10ポンド)」
数字のところだけアラビア語で、あとは日本語だ。
「さあほっかむりのお姉ちゃんも、オバQ目出し帽のおばちゃんも寄ってらっしゃい見てらっしゃい」
威勢のいい口上に、エジプト人たちがどっと集まり、味の素が飛ぶように売れた。
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黒木 亮(くろき・りょう)
作家
1957年、北海道生まれ。早稲田大学法学部卒、カイロ・アメリカン大学大学院(中東研究科)修士。銀行、証券会社、総合商社に23年あまり勤務し、国際協調融資、プロジェクト・ファイナンス、貿易金融、航空機ファイナンスなどを手がける。2000年、『トップ・レフト』でデビュー。主な作品に『巨大投資銀行』、『法服の王国』、『国家とハイエナ』など。ロンドン在住。
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(作家 黒木 亮)