日本で「スーパーマリオ」と愛された元大洋のカルロス・ポンセ氏【写真:羽鳥慶太】

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ポンセ氏連載第2回、来日初年度から大活躍のマリオ似スラッガー…今も感謝する恩人

 プロ野球の大洋(現DeNA)で5年間プレーし、1987年に打点王、88年には本塁打と打点の2冠を獲得したカルロス・ポンセ氏が9月に来日し、「THE ANSWER」のインタビューに応じた。当時大流行していたゲーム「スーパーマリオブラザーズ」の主人公似の風貌で人気者となったポンセ氏が、日本で活躍できたのは“変化”を恐れなかったためだ。全3回でお届けする連載の第2回では、環境に応じて、自ら変わっていった歴史を振り返ってくれた。(取材・文=THE ANSWER編集部・羽鳥 慶太、取材協力=一般社団法人日本プロ野球外国人OB選手会)

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 ポンセ氏は大洋入りした1986年にいきなり打率.322、27本塁打、105打点という素晴らしい成績を残した「日本になじんで、幸せに生活できるように努力はしました。時には打てなくて落ち込むこともあったけれど……」。そんな時に勇気づけてくれたのが、当時『スーパーカートリオ』の一員として知られた故・加藤博一氏だった。

「屋舗(=要)さんのスピードはすごかったし、(高木)豊さんは身体が大きくないのに素晴らしいバッティングをしていた。そして私をチームに溶け込めるようにしてくれたのは加藤さんです。落ち込んだ時に横にいて『前を向こう』とポジティブな言葉をかけてくれたんです」

 その上で、自らも変わろうと努力をした。1986年にいきなり好成績を残せた理由は「分からない」というものの、さらに上を目指すことを忘れなかった。日本特有の、懐に食い込んでくる変化球「シュート」を打つために試行錯誤を重ねた。

活躍できる助っ人の必須条件「日本で学んで、成長しよう」

「シュートもフォークも、アメリカになかったわけではないけれど少なかった。反対に日本はボールを変化させる野球だったからね。さらに、私はアメリカでは二塁打、三塁打を打つバッターだったのが、ホエールズではホームランを期待される。他にいなかったからね。何とかアジャストする必要があったんだよ」

 米国時代からずっと長さ34インチ(86.36センチ)のバットを使っていたのを、重さは変えずに33.5インチ(約85.09センチ)に。さらに打席の後ろ寄りに立っていたのを前よりに変えて、曲がってくる前に打てるよう工夫した。クラウチング気味に、前かがみで立っていたのを、背中を伸ばすようにした。

 大洋での現役終盤に、眼鏡をかけたのも同じだ。1989年に打率が.264、本塁打も24本に減った。セ・リーグ最多の二塁打33本、三塁打7本を記録したものの納得がいかなかった。「数字が落ち始めて、何が原因なのかなと思ってやってみた。でも眼鏡をかけても、成績は上がらなかったけどね」と笑う。

 大活躍する外国人打者が減った今も、同じことが言えるのではないかという。

「アメリカに気持ちを残したままプレーをしている選手が、日本で伸びることはありません。日本で学んで、成長しようという気持ちのある選手が、結果的にメジャーリーグに戻ってもプレーできているんだと思います」

球界を離れてからも模索する変化「今なら数千ドルの価値が」

 引退してからの人生も変幻自在だ。1990年、大洋での試合出場は激減。1軍15試合出場で打率.193という信じられない成績で、ファーム暮らしも味わった。退団して1991年はエクスポズの春季キャンプに参加したものの、2週間で引退を決意。指導者に転身した。「もう無理だとわかってね。妻に引退するよと最初に言ったんだ」。

 1999年にはブルワーズ傘下のA+級ストックトンで監督を務めるなど、マイナー球団の打撃コーチや監督を7年間歴任した後は、さらに大きな岐路に立った。

 選んだのはバドワイザーのビールを運搬するトラックの運転手で、16年にわたって勤めた。40代半ばになってから自動車学校に通い、大型車の免許を取った。「次の仕事が、最後になるだろう」という覚悟があったからだ。「当時は会社の関係で、免許も15ドルで取れたんだけど、今なら数千ドルの価値があるだろうね」。現在も、フロリダ州で老人ホームのバスを運転しているのだという。

「コミュニティに貢献する仕事も楽しいですよ。あと、少年野球の指導もしています。歳をとって、身体が少しずつ厳しくはなっていますけどね」と笑うポンセ氏。環境に応じての変化を受け入れ、人生を楽しむ姿が印象的だ。

(THE ANSWER編集部・羽鳥 慶太 /Keita Hatori)