日本で「スーパーマリオ」と愛された元大洋のカルロス・ポンセ氏【写真:羽鳥慶太】

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ポンセ氏連載第1回、マリオ似で大人気に…口ひげを剃ったことが「1度だけある」

 プロ野球の大洋(現DeNA)で5年間プレーし通算119本塁打、1988年には本塁打と打点の2冠を獲得したカルロス・ポンセ氏が9月に来日し「THE ANSWER」の取材に応じた。当時大ヒットしていたテレビゲーム「スーパーマリオブラザーズ」の主役に似ていたことから、子どもたちに大人気となったスラッガー。全3回でお届けする連載の第1回では、その風貌の由来から個性派軍団だった当時の大洋のことまで、大いに語ってくれた。(取材・文=THE ANSWER編集部・羽鳥 慶太、取材協力=一般社団法人日本プロ野球外国人OB選手会)

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 ポンセ氏のトレードマークだった口ひげは、64歳になった今も健在。「もう、ひげなしでは生きていけないよ」と言うほどだ。来日した1986年、日本中で空前のブームとなっていたのが、任天堂のゲーム機「ファミリーコンピュータ」とそのソフト「スーパーマリオブラザーズ」。日本では打席での強打以上に、愛らしい風貌で人気者となったことに今でも感謝している。ポンセ氏が結果を残せば残すほど、ユーモラスな姿もクローズアップされた。

「マリオに似ていると言われたのは、日本に来てからだよ。日本では口ひげを伸ばしている人が少ないから、注目されたのはそのせいもあると思うけど……。でも、子どもたちに『スーパーマリオ』と言われるのは悪くなかったよ。楽しく過ごさせてもらったね」

 ちなみに、口ひげを伸ばし始めたのは、故郷プエルトリコで育った14歳の時だというから、もう半世紀の付き合いになる。「人生で1回だけ剃り落としたことがあるんだ」と振り返るのは、ブルワーズの3Aに在籍していた時代のこと。「チームが口ひげを禁止にしていてね。ずっと一緒だったから……。仕方なく剃ったけど、野球の結果もひどかったと思うよ」。どこか自分でないような自分を感じていた。

 それが原因ではないだろうが、ポンセ氏は1985年にブルワーズでメジャーデビューを果たしたにも関わらず、そのオフに日本行きを選択する。

来日は即決「メジャーに行っても給料が高くないのはわかっていた」

 当時の大洋には、ブルワーズから来日する助っ人が多かった。球団のスカウト部門が提携関係にあり、パイプが太かった。ポンセ氏は渉外担当だった故・牛込惟浩氏に口説かれると、迷いなく大洋入りを決めたという。

「ブルワーズにはポジションがなくて、メジャーに行っても給料が高くはないというのは分かっていたからね。大洋は2年契約をしてくれるというし、考える必要もなかったね」。過去にフェリックス・ミヤーン(元大洋)やトミー・クルーズ(元日本ハム)ら、同じプエルトリコ出身の助っ人が活躍していたのも後押しになった。「彼らとも、日本はエキサイティングだという話をしたよ」。

 ポンセ氏は来日すると、いきなり打ちまくった。1986年は打率.322、27本塁打、105打点。ランディ・バース(阪神)が前年に続く三冠王を獲得したために無冠だったが、翌87年は35本塁打、98打点で打点王。88年は33本塁打、102打点で2冠を獲得した。それでもチームは、86年から4位、5位、4位、6位と浮上の気配が見えなかった。

 最初に出会った監督は近藤貞雄氏。中日でリリーフ専業の投手を誕生させるなど、アイデアマンとして知られた。「コンドーサンは物静かだったけど、とにかくアンパイアには熱かったね」と、退場の多さでも知られた激情家との日々を振り返る。

 スピードのある選手が多い一方で、パワー不足だった打線の特徴を生かそうとして指揮官が生んだのが「スーパーカートリオ」だった。高木豊、加藤博一、屋舗要と1番から快足打者を並べ、4番のポンセ氏もシーズン18盗塁したほどだった。「Bクラスのチームを、Aクラスにしようと努力していたのは良くわかる。でも……」。大洋が上位進出を果たせなかった理由を、どう見ているのだろうか。

大洋が勝てなかった理由「チームのためにという選手が少なかった」

「チームが優勝するときに、本当のトッププレーヤーが必ず必要かと言えばそうではない。当時のホエールズは……。チームの結束というか、団結が今一つだったかな。自分よりもチームのために野球をしようという選手が少し足りなかったかなと思うね」

 日本球界を彩った個性的な選手たちとの出会いは、今も記憶に残っている。同時期に大洋で活躍したダグ・ローマンやジム・パチョレックは巧打が光った。そして他球団でもバースやウォーレン・クロマティ(巨人)と「外国人助っ人=強打者」という印象が強かった時代だ。

「レロン(ロッテ)とレオン(ヤクルト)のリー兄弟や、ブーマー(阪急)も素晴らしい打者だった。ガイジンはみんな試合の合間に試合のこと、チームのこと、愚痴も含めて話していたね」と懐かしそう。チームがなかなか勝てなかったポンセ氏は、愚痴のほうが多かったのかもしれない。それでも口をつくのは「I Love Yokohama」だ。

「元町や中華街は妻が好きだったね。あと、ミナトノミエルオカコウエン? だっけ。晴れていると富士山も見えたりしてね。とても美しいところで大好きだよ。でも最高の場所はやっぱりハマスタさ」

 今も、大洋につながるDeNAには愛情を注ぐ。「今季もいい時、悪い時がずいぶんあったようだね。バウアーの投球もそうだった。だけどとにかく、戦うしかないんだ。『Do or die(やるかやられるか)』という言葉を贈りたいね。ファンのみんなは、とにかく待っていてほしい」。住んでいる米フロリダ州から、インターネットを通じて試合や情報を追っているというポンセ氏。ファンと同じ思いで、優勝の日を待っている。

(THE ANSWER編集部・羽鳥 慶太 /Keita Hatori)