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戦火の灰の中からユニークなアルファロメオV12エンジンが現れた。同様にミステリアスなボディと共に、いかにして生き残ったのか。謎に包まれていたその物語を、自動車史家のカール・ルドヴィグセンが解き明かす。

【画像】ミラノのミステリーマシン、V12搭載アルファロメオ(写真13点)

先日、ラディカルなV12エンジンを搭載するアルファロメオの魅惑的なスポーツロードスターが、その謎めいたヒストリーと共に姿を現して、クラシック界の話題となった。

”12Cプロトティーポ”と名付けられたこのマシンは、アルファロメオの111周年を記念してF1チームの本拠地で披露された。ドラマチックな登場にふさわしく、熱い注目を集めたが、それだけでなく、様々な憶測も呼んだ。このアルファのV12エンジンは、ジョアッキーノ・コロンボによる伝説のフェラーリV12エンジンの種子となったのではないか、という説もある。今こそ、その誕生とヒストリーを明らかにすべき時だろう。

ブルーノ・トレヴィザンのV12

1938年、アルファロメオの宰相、ウーゴ・ゴッバートは、R&Dチーフのウィフレード・リカルトに、スポーツレーシングカーとグランプリカーの設計を任せた。残念ながら、このスペイン人エンジニアの作品はあまりにも複雑だったため、実際にスターティングラインにつくことはなかった。レースでは役に立たないことは、当時まだアルファコルセの運営に関わっていたエンツォ・フェラーリにとって火を見るよりも明らかだった。

その頃、アルファロメオはプロダクションカーを統括する人物も必要としていた。1930年代には航空機エンジンとレーシングカーが優先され、この部門は完全にないがしろにされていたのだ。ベテランエンジニアのヴィットーリオ・ヤーノはランチアに鞍替えし、重要な地位があいていた。ゴッバートが後任として選んだのは、イタリア空軍の予備役少佐、ブルーノ・トレヴィザンだった。エンツォ・フェラーリはこう述べている。「トレヴィザンは、ヴィチェンツァにある工業のエキスパート養成学校の教授を父に持ち、ゴッバートはその教授に学び、工学で卒業した」

トレヴィザンは、エンジンのエキスパートとしてフィアットで働いたあと、1934年10月にアルファロメオに移った。最初の仕事は、レース用の新V12エンジンを設計し、ヤーノが残した新しいシャシーに搭載することだった。トレヴィザンはこれを見事にやり遂げた。スーパーチャージャー搭載の12気筒エンジンは、最終的に4.5リッターで430psに達し、アルファに勝利をもたらしたのである。次にトレヴィザンは、アルファの主力である6気筒の6C 2300Bの刷新に取りかかった。シンクロトランスミッションと組み合わせ、1939年にはさらにアップデートして、6C 2500を完成させた。

1938年、ブルーノ・トレヴィザンのチームは、アルファの未来を担うモデルの設計に取り組んでいた。彼らの手元には、ヤーノの置き土産であるティーポ1の計画があった。新しい1.5リッターの 4気筒エンジンで、SOHCとDOHCの2種類の構想があったが、傾斜したバルブとアルミニウム製シリンダーヘッドは共通だった。このプロジェクトは試作の段階でストップしていた。ゴッバートはイタリアにはアルファの高級モデルを必要としており、大衆の相手はフィアットに任せておけばよいと決めたことが、計画中止の理由だった。

二つのカテゴリーをカバーする計画が練られた。3.5リッターのトップカテゴリーには、12気筒エンジンでホイールベース128インチのティーポS10を当て嵌めた。一方、V8エンジンを搭載するホイールベース112インチのティーポS11は、より一般的な2.5リッター・クラスに適していた。いずれも、流行しはじめたボディとシャシーを一体化した構造とし、前後独立懸架を採用した。まずベルリーナを発売してから、それらのスポーツカーも製造する構想だった。

ブルーノ・トレヴィザンは、まったく新しいエンジンの詳細をつめる仕事も担っていた。ベースにしたのはヤーノが残した1935年の研究で、バルブステムにタペットをネジ留めするヤーノ設計のバルブギアを活用した。バンク角はV8が90°、V12が60°と異なるが、シリンダーボアは共通の68mmとして、ウェットライナーとピストンは同一のものが使えた。チェーンで駆動する1本のオーバーヘッド・カムシャフトがバルブを開閉し、バルブの角度はシリンダーのセンターラインに対して30°とした。

シリンダーヘッドは、内側の吸気バルブのフェースに沿って、エンジンの中央に向けて15°傾いた設計とし、どちらのシリンダーヘッドも同じ工作機械での主な加工を可能にしていた。V8については、トレヴィザンはDOHCヘッドも設計したが、こちらはヤーノの影響を受け、バルブ挟み角を広く取っていた。

スケッチを見ると、両モデルとも標準仕様のボディは地味なベルリーナで、アルファの主流モデルの伝統を引き継いでいた。V12を搭載するスポーツカーバージョン、S10 SSのモックアップでは、リアはリーフスプリングで吊ったリジッドアクスルだった。チューンアップしたエンジンは、レース用燃料に合わせた高い圧縮比とトリプルキャブレターによって、4700rpmで165bhpを発生した(標準仕様は同じ回転数で140bhp)。アルファは、これを搭載したスポーツレーシングカー3台で1941年のミッレミリア出走を目指したが、結局1台も完成には至らず、ミッレミリアが開催されることもなかった。

余談ながら、まったく同じ頃、ハンス・グスタフ・ローが指揮するメルセデスのチームが、V8とV12の2種類の新エンジンの開発に精力的に取り組んでいた。両エンジンで多くのコンポーネントを共有しながら、排気量はそれぞれ4リッターと6リッターの仕様があり、タイプ540Kの後継にふさわしいサイズだった。このエンジンが車に搭載されることはなかったが、さらに大型化したV12エンジンの搭載車もテストされたものの、生産化には至らず、エンジン単体がサーチライトの動力として3000基以上製造された。

V12計画の中止

1941年5月、ジョゼッペ・ブッソは「アルファにとって相当に重大なできごと」が起きたと記している。「ヤーノ時代から生き残っていたものがあった。大型車のプロトタイプ2台だ。設計と製造は大きく進んでいた。1台はV型12気筒エンジンのS10。元の設計は68×82mmで排気量 3560ccだったが、3リッタークラスに出走できるよう、ボアを62mmに縮小して2971ccにした。この縮小版エンジンの出力は分からない。もう1台は、2260ccの8気筒エンジン、S11V8を搭載していた」

ブッソはこう続ける。「ウーゴ・ゴッバートは、あやふやな状況はもちろん、長期にわたって結果が現れないことも毛嫌いしていたから、ある時点で、もっと方針の定まった明確なやり方に改めるために、抜本的な介入が必要だと判断したに違いない。1941年5月31日に、社内の様々な組織にゴッバートの名前で通達が届いた。それは、指示の内容はもちろんのこと、私の考えるところでは、ほとんど冷酷なまでの態度で意見を表明した点でも、間違いなく歴史的なできごとだった」

こうしてブルーノ・トレヴィザンの新作は、「これらの車両に関連するすべての作業を中止」するよう求めるゴッバートからの短い指令で、完全にその道を絶たれた。V8は順調に進んでおり、2台のプロトタイプが完成して、エンジニアでアルファ・ロメオの歴史家であるルイジ・フージによれば、「テストは大成功」に終わっていたのだが。

トレヴィザンのV12エンジンも、既に命を吹き込まれていた。戦後の復元作業から、ツーリング用のS10が2基、スポーティーなS10SSが2基、合計4基が造られたことが推測できる。ツーリング用V12は2台のプロトタイプサルーンに搭載され、少なくともそのうち1台は、ドイツ軍の大佐が徴用した1943年には完成していた。また、アルファのエンジニアのジャン・パウロ・ガルチェアは、戦後、職場に戻った際に、「部署で最も堂々たる車両、12気筒エンジンのS10サルーン」にルイジ・バッツィと共に乗せてもらったと回想している。「 1台のプロトタイプはまだ完璧なコンディションで、隅々まで磨き上げられていた」というから、ゴッバートが個人的に使用していた1台である可能性が高い。

戦時中、アルファのエンジニアたちは、空襲の激しいミラノから疎開し、1942年12月10日に、ミラノの北西にあるオルタ湖畔のアメーノに移った。リカルトはここで、極めて複雑な28気筒の航空機エンジンと、まったく新しい乗用車のガッゼッラの開発に取りかかった。ボンネットの下にDOHCの2リッター6気筒エンジンを搭載し、後軸をトランスアクスルとしたモデルだ。リカルトはアルファとの契約が切れる1945年3月31日までこのプロジェクトに励んだが、ミラノのファクトリーは空襲を受け、完全な新モデルを発売できる状況ではなかった。

戦中に疎開した貴重モデルのその後

この間、アルファのメカニカルパーツは、ミラノの東のメルツォにあった広い支社に保管されていた。その中には、大切なレーシングカーのティーポ158が数台のほか、8C2900とそのシャシーもあった。1935年に登場した8C2900は、終戦まで当代最強を誇るスポーツカーだった。ホイールベースには”スポーツ”と”ツーリング”の2種類があり、2.9リッターのDOHC直列8気筒エンジンに、2基のルーツ式スーパーチャージャーを搭載。エンジン側にクラッチを備え、リアはトランスアクスル方式だった。これは、ポルシェが設計した前後独立式懸架に適していた。

5200rpmで約180bhpを発生する2.9リッターのエンジンも相まって、8C2900はスポーツカーレースを席巻した。ミッレミリアは 1936年から1939年まで連覇し、戦後最初の1947年にも優勝した。

1948年に8C2900Bをドライブしたハインツ-ウルリッヒ・”ウリ”・ヴィーゼルマンは、『Das Auto』誌にこう語っている。

「とりわけ見事で、魅力的で、興奮を覚えるのが、外観とハンドリングと乗り心地の調和だ。独特で、並ぶものがない。単なる移動手段や路面電車の代わりではない以上、名門による技術の形やエレガントなデザインの美しさが分かる者なら、誰でも傑作と評するはずだ」

当然ながら、この名車は引く手あまただった。スイス税関の記録を調べたハンス・マティによれば、戦中・戦後に十数台の8C 2900がスイスに輸入されていたという。

残念ながら、S10とS11のプロトタイプについては、ここまで明確な記録は残っていない。前述のように、完全なS10プロトタイプサルーンが少なくとも1台は、アルファの隠し場所から姿を現したわけだが、プロトタイプはどれも長くは生きながらえなかった。ただし、プロトタイプエンジンは何基か生き残り、少なくとも3基のV12がクラシックカー界を転々とした。1基は 6C2500のシャシーに搭載された。そのボディは、カロッツェリア・トゥーリングによる1938年の見事なスポーツレーシングカーのレプリカだ。豊富な知識を持つエミリア地方のコーチビルド職人、ジャンニ・トレッリの作品である。

もう1基のV12は、マリオ・リギーニやディーター・ダンバッハーの手を経て、ミラノのコレクター、コラード・ロプレストの元にたどり着いた。ロプレストは、前述のトレッリにV12を甦らせるレストアを依頼した。トレッリは嬉々として取り組み、3基のキャブレターを装着して、5000rpmで200bhpを発生するまでに仕上げた。そして、前述のプロジェクトと同様に、ギアボックスと共に1939年の6C 2500クーペに搭載できるようにした。これはうってつけの選択だった。ボディを手がけたカスターニャは、大量生産を請け負っていたバッドともつながりのある、アルファが好んで使ったカロッツェリアだったからだ。

3基目のV12は、長い放浪の道をたどった。しばらくは、他のアルファの遺産と共にメルツォの保管場所にあり、その中には150トラックのシャシーもあった。戦後間もない頃に、ベルンで整備工場を営むジャン・シュトゥーダーが訪問し、これを見てよい商売ができると考えた。さっそく、ベルンのアルファロメオ支店をとおして購入者を探し、バンを必要としていたスイス郵便局がトラックのシャシーを引き取った。シュトゥーダー自身は、トゥーリング製ボディの8C2900と、S10SSのV12エンジン1基を持ち帰った。

シュトゥーダーは8C2900でレースに出走し、何度か成功を収めると、これを1948年に友人のパウル・グラウザーに売却して、自分は別の8Cを購入した。このシャシーナンバー412013には、0.9mm厚のジュラルミン・パネルを使ったユニークな美しいロードスターボディが架装されていた。その独特のスタイルを見ると、戦時中にアメーノでアルファのチームが製作したものかもしれない。あるいは、同種のシャシーの少なくとも1台に、ベルンのヴァルター・マーティンがボディをデザインしたことが分かっているから、これもマーティンの作品かもしれない。いずれにしても、こうしてようやく本稿の主役が登場したのである。この時点では、412013には8Cのエンジンが搭載されていた。当然ながら、シュトゥーダーはプロトタイプS10SSエンジンの搭載を検討したが、手間がかかりすぎると判断した。

生き証人”412013”

8C2900として短いレースキャリアを送った412013は、有名なスイス人レーサーのヴィリアム・ペーター・”ヴィリー”・デトヴィーラーと親しかったフリッツ・キューンツィに売却された。シュトゥーダーはV12エンジンも手放した。412013は、何年もスイスでレースに使われたあと、まずドイツ人に託され、次にスイスの博識なピエール・ストゥリナティのクラシックカーコレクションに加わった。そのグリルの写真が、コレクションをまとめた1968年のカタログ「ヴォワチュロブジェ」の表紙を飾っている。

その後しばらくはスイスにあったが、コレクターのアルベルト・オブリストから、ベルンのディーラーのアルブレヒト・グギスベルクに渡るまでの時期については、はっきりしていない。ドイツの数人とアルファロメオとの間で取引が行われ、412013は分割されることとなった。その後、あるドイツ人エンスージアストが再びコンポーネントを集め、これを譲り受けたアメリカ人コレクターが、ミュンヘンに保管していた。

実験的なV12エンジンが412013に初めて搭載されたのがいつだったのか、正確な時期については謎のままだ。このユニークなスポーツカーに再び光が当たったのは、つい最近のことで、スイスのプロジェット33社を率いるエンスージアスト、ステファノ・マルティノーリが所有してからである。マルティノーリは、オーストリアのレストアスペシャリスト、エゴン・ツヴァイミュラーにメカニカルパーツの再生を依頼した。ボディの補修作業は、パドヴァ近郊のヴィゴンツァにある、ディーノ・コニョラートのワークショップが担当し、フランコ・ロディゲーロがヴェリア・ヴォレッティ製の計器を甦らせた。

スイスのプロジェット33は、これを”12Cプロトティーポ”と名付けた。ウーゴ・ゴッバート、ブルーノ・トレヴィザン、ウィフレード・リカルト、そしてジョアッキーノ・コロンボによる、アルファのエンジニアリングとレースでの野心を今に伝える貴重な証拠である。過去の偉人たちと現代のレストアラーたちの奮闘については、12Cプロトティーポに関する新しい本に、図版を交えて詳しくまとめられている(別枠で紹介)。

フェラーリV12との関連性は?

偉大なるジョアッキーノ・コロンボは、S10とS11エンジンの開発に携わったエンジニアのひとりだった。そのため、アルファ S10V12エンジンと、1948年にフェラーリが放った最初のV12とのつながりについて、様々な可能性が取り沙汰されている。類似点はたしかにある。バンク角が60°である点(V12エンジンには当然の選択だが)、コンロッドのビッグエンドを斜めに分割している点(一部仕様)、1本のOHCを、1本のトリプルローラーチェーンで駆動する点だ。しかし、それを除けば、共通点はほとんど見あたらない。

そもそもアルファが最初に構想したサイズは、フェラーリ初のV12エンジンの2倍以上だった。技術的な差異も無数にある。たとえばピストンの設計はかなり異なっており、フェラーリ125のピストンクラウンはS10よりずっと大きかった。バルブギアや燃焼室の設計はまったく異なり、ほかにも相違点は多い。

たしかなのは、アルファロメオによるS10/S11プロジェクトが、時代の先を行く野心的な挑戦だったことだ。戦争が邪魔をしなければ、ロードカーの殿堂の上位に祭られていたかもしれない。コンパクトで、かつ経済的に生産できるという優れたコンセプトによって、ブルーノ・トレヴィザンの3.6リッターS10V12エンジンは、アルファにとって大変に価値ある財産となっていただろう。

だが実際には、8気筒以上のモデルをアルファロメオが検討することは二度となかった。それも当然だ。既にヴィットーリオ・ヤーノが指揮を執っていた頃に、8気筒エンジンで十分すぎるほどの実績を上げていたからだ。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下恵
Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.)  Translation:Megumi KINOSHITA
Words:Karl Ludvigsen Photography:Spalluto Press

すべての謎を知りたい人に

アルファロメオ12Cプロトティーポについてさらに詳しく知りたい人にお勧めしたい本が、『The Missing Link』だ。著者陣は、ジュゼッペ・ピーノ・アリエヴィ、ロレンツォ・アルディツィオ、ルカ・ダル・モンテ、カール・ルドヴィグセン、ベルント・オストマン。価格は400ユーロ、250冊限定の豪華版。progetto33.ch で注文できる(ISBN:978 3 033 09088 0)。

この1台を特別なものにしているのはV12エンジンだけではない。エンジンは4基のみ製造されたと考えられているが、12Cプロトティーポはボディもユニークだ。再び光が当たったのはごく最近のことだ。