フェンシング男子フルーレ日本代表の飯村一輝。7月の世界選手権では史上初の団体金メダルを獲得した【写真:積紫乃】

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連載「10代逸材のトリセツ」、飯村一輝(フェンシング)前編

 日本スポーツ界の将来を背負う逸材は幼少期からどんな環境や指導を受けて育ち、アスリートとしての成長曲線を描いてきたのか――。10代で国内トップレベルの実力を持ち、五輪など世界最高峰の舞台を見据える若き才能に迫ったインタビュー連載。今回は7月にイタリア・ミラノで行われたフェンシング世界選手権で、男子フルーレ団体の一員として史上初の金メダル獲得の快挙を達成した19歳の飯村一輝(慶應義塾大学)だ。前編では来年のパリ五輪に向けてさらなる飛躍が期待される逸材が、フェンシングの道へ進んだルーツに迫った。(取材・文=松原 孝臣)

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 日本フェンシング界の次代を担うと期待される10代の星がいる。飯村一輝である。

 現在19歳の飯村は3種目あるうちのフルーレに打ち込み、高校1年生だった15歳で日本代表の一員になり海外遠征に参加。「僕以外は全員お酒が飲めて、ドイツではみんな現地の美味しいお酒やソーセージを食べている中で、僕はコーラとかを飲んでいました(笑)」。それも飯村の急速な台頭を物語る。

 昨年4月には世界ジュニア選手権で優勝し、同月のワールドカップで3位となったが、この時18歳3か月。日本選手最年少でのメダル獲得であった。現在は代表の一角を担い、世界を転戦する。

 早くから頭角を現した飯村は独自のスタイルを貫き、そして文武両道を実現するなど個性豊かな選手でもある。さまざまな視点からその横顔に迫りたい。

 飯村一輝は京都に生まれ育った。父の栄彦はフェンシングの選手であり、また指導者としても大きな実績を築いてきた。2008年北京五輪男子フルーレ個人と、12年ロンドン五輪男子フルーレ団体で銀メダルを獲得した太田雄貴を指導したことでも知られる。また妹の彩乃も、日本代表として活動する選手だ。

 フェンシング一家とも言える環境ではあったが、飯村自身は、当初はフェンシングをするのを拒んでいたという。

「怖いじゃないですか。痛そうだし、なかなかやる気にはならなかったです」

小2で手にした初のトロフィーが「めちゃくちゃ嬉しくて」

 何度か誘われたものの、そのたびに断っていた飯村だったが、小学校に入った年の夏の終わりのこと。

「『MATCH』という微炭酸のジュース、ご存知ですか? 『買ってあげるから』と言われて、それに釣られて剣を握ったのが初めてでした。最初は遊び程度で週に2回くらいやっていました」

 始めてみたものの、「怖い」「痛い」という、フェンシングに抱いていたイメージは消えなかった。

「やっぱり対人競技なので、相手が何を考えてるか分からないのがすごく怖いし、剣も怖かったですね。剣は曲がるんですけど、しなってバンって戻る時に腕とかに当たると跳ぶように痛いんですよね。『やっぱりこれ、いてえよ』。そう思いました」

 だが、やめることはなかった。

「小学校2年生の時、初めて四国の大会で優勝して、これぐらいのトロフィーをもらったんですよ。それがもう、めちゃくちゃ嬉しくて」

「これぐらいの」と手で表したのは、ささやかなサイズのトロフィー。それを手にして、「優勝した時の達成感からフェンシングに没頭するようになりました」。

 結果が出たこととともに、あるいはそれ以上にフェンシングへのめりこんだ要因があった。

「僕が一番いいなと思っているのは、相手との駆け引きの中で自分の作戦が決まった時の感覚ですね。瞬時に行われる駆け引きが楽しくて、痛みよりも勝っちゃいましたね。小学4年生の時に全国大会で優勝しましたが、準決勝で20、30センチくらい身長が高い相手との距離を詰めるために剣を叩いてみたり、足を生かしたりしていたのは覚えているので、その頃には駆け引きについて多少なりとも理解はあったのかなと思います」

 その駆け引きは、どう身につけたのだろうか。

「父とのマンツーマンのレッスンで、相手のシチュエーションに分けてこう来たらこう、逆にこう潰されたらこっちに行く、みたいな感じの練習をしていたので、そういう感覚がどんどん研ぎ澄まされていった結果、試合でできるようになったと思います」

 さらに小学生の頃から全国大会で勝てるようになった理由を挙げた。

「徹底的に基礎を教え込まれたのが1つの要因なのかなと考えています。フェンシングは『フレンチ』から始めて、手首が安定してきたら『ベルギアン』を持つことになります」

年上の選手と切磋琢磨できた練習環境

 剣のグリップの部分の形状には種類があり、棒状のものが「フレンチ」で「ベルギアン」はピストルのように指をかける部分がはっきりしている。

「フレンチを持っていた期間は人より異常に長くて、小学4年生の春頃まで持っていたくらい、基礎を徹底的に教え込まれました。それで他の小学生より手首が安定して、狙ったところをつける、行こうと思ったらそこに行ける、ポイント精度が小学生にしてはあったのかなと思います」

 土台を培った要素はこれらにとどまらない。

「小学5、6年生の時には中高生、つまり先輩方と練習させてもらう環境もありました。先輩にかかっていくチャレンジャー精神というのが自分の中で楽しさに変換されていて、そういう状況を楽しんでいました。中学、高校生となっていく中で、上のレベルで戦っていくという時にいい影響を与えたのかなと思います。剣を構えて向かい合った時には、もちろん今もそうですけど、年齢に関係なくアスリートとアスリートの対決として接するようにできる環境があったのかなと思います」

 フェンシングに触れやすい家庭に生まれ、飯村にとって適切な指導を受けられたこと、そして年長者たちと切磋琢磨する、いわば「背伸び」できたこと、さまざまな点で環境は大きかっただろう。

 でもそれを生かしたのは、飯村本人にほかならない。

 飯村は、自身の特性を見つめつつ、いかに戦うかを追求してきた。その取り組みがあったからこそ、今日がある。(文中敬称略)

■飯村 一輝(いいむら・かずき)

 2003年12月27日生まれ。京都府生まれ。五輪銀メダリストの太田雄貴を指導した父・栄彦氏の影響を受け、小学校からフェンシングを始める。15歳で男子フルーレの日本代表に初選出されるなど頭角を現すと、22年4月の世界ジュニア選手権で金メダルを獲得。今年7月にミラノで行われた世界選手権では男子フルーレ団体の一員として史上初の金メダル獲得に貢献した。慶應義塾大学総合政策学部2年。妹の彩乃も女子フルーレの日本代表選手。

(松原 孝臣 / Takaomi Matsubara)

松原 孝臣
1967年生まれ。早稲田大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後スポーツ総合誌「Number」の編集に10年携わり、再びフリーとなってノンフィクションなど幅広い分野で執筆している。スポーツでは主に五輪競技を中心に追い、夏季は2004年アテネ大会以降、冬季は2002年ソルトレークシティ大会から現地で取材している。