1945年の今日、三菱航空機が開発した日本唯一のロケット戦闘機「秋水」が初飛行しました。開発には異例ともいえる旧陸海両軍の協力がありました。しかし初めてだったロケットエンジンの扱いは、困難を極めたようです。

異例の陸海軍タッグ

 太平洋戦争も末期の1945(昭和20)年7月7日。三菱航空機(現・三菱重工業)が開発したロケット推進戦闘機「秋水」が初飛行しました。開発にあたっては旧日本海軍と旧日本陸軍が協同していますが、これはとても珍しいことでした。


太平洋戦争終結後、アメリカ軍が撮影したロケット推進戦闘機「秋水」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。

「秋水」は局地戦闘機、つまり日本本土へ襲来する敵機を迎撃する目的で開発されました。機体は海軍が、ロケットエンジンは陸軍が製作を主導しています。元になったのは、ドイツのメッサーシュミット製Me163「コメート」ロケット戦闘機。ただ、資料は機体外形の3面図とロケット燃料の成分表、取扱説明書などしかなかったため、日本が独自開発した部分も多々あります。「コメート」とは機首部分やキャノピーの形状が異なるほか、翼幅も「秋水」の方が大きくなっています。

 ロケットエンジンの開発は、激しくなる空襲や物資の欠乏も追い打ちをかけ困難を極めました。それでも1944(昭和19)年12月には、全木製の軽滑空機「秋草」が滑空テストを実施。翌1945年1月には、ロケットと武装がない以外「秋水」とほぼ同じ機体が造られ、その後も試験や乗員養成が行われました。

保存機はアメリカにただ1機

 ドイツより技術提供を受けてから約1年。追浜飛行場(神奈川県横須賀市)で「秋水」の試験飛行が行われました。しかしエンジンの不調に見舞われ、離陸したのは予定時刻から2時間後のことでした。

 滑走距離は200mあまり。「秋水」は離陸し、初飛行に成功しました。ただ、高度350mほどでエンジンが停止。再起動もむなしく、「秋水」は飛行場西端に不時着したのです。機体は大破し搭乗員は重傷を負い、翌日に亡くなっています。


試験中の「秋水」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。

 軍は2号機以降を製作しようとしますが、機体は造れても肝心なエンジンを事故で失ってしまいます。結局、日本は8月15日に終戦を迎え、飛行した「秋水」はただ1機にとどまりました。

 ちなみに、終戦までに完成していた機体は三菱航空機で4機、日本飛行機で3機の計7機でした。うち何機かはアメリカ本土に送られ、調査に供されています。そして2023年現在、カリフォルニア州チノにあるプレーンズ・オブ・フェイム航空博物館に、世界で唯一となる「秋水」が保存・展示されています。

 ほかには、名古屋市港区の三菱重工大江工場内にある「大江時計台航空史料室」に、復元された機体が展示されています。