日本への本格的な都市モノレール導入をめぐり、「跨座式」「懸垂式」という全く異なるタイプを採用する、ドイツとフランス、2つの規格の争いがありました。どんな結末を辿ったのでしょうか。

「ぶら下がり式」あんまり見ないけど

 日本にある8つのモノレール事業者のうち、6つがレール上を走る「跨座式」、2つがレールからぶら下がって走る「懸垂式」です。すでに廃止・休止された8路線を見ても、6つが跨座式で、懸垂式は2つだけ。日本国内だけでなく海外でも懸垂式は少数派です。

 このような勢力図になるまでには、日本の「モノレール黎明期」における様々なドラマがありました。


大船駅と江ノ島をむすぶ、懸垂式の湘南モノレール(画像:写真AC)。

 世界初のモノレールは1901(明治34)年にドイツで開業した「ブッパータール空中鉄道」で、懸垂式モノレールですが、鉄道と同じ「鉄のレール上を車輪が走る」スタイルでした。1957(昭和32)年に開業した日本初のモノレール「上野懸垂線(上野動物園モノレール)」は、これを参考に開発した「上野式」と呼ばれる方式を採用しています。

 1950年代以降、モノレールは近代化が図られていきます。跨座式・懸垂式ともゴムタイヤを採用することで加速度の向上、急勾配に対応、騒音も抑制されて都市交通としての適正が高まりました。これは重い鉄道車両を受け止められる高性能タイヤの開発で実現したものです。

 二大巨頭となったのは、跨座式モノレールはドイツで開発された「アルヴェーグ式」、懸垂式モノレールはフランスで発明された「サフェージュ式」でした。

 今となっては水をあけられてしまった懸垂式「サフェージュ式」ですが、未来の交通機関としてモノレールが注目された1960年代には、アルヴェーグ式とサフェージュ式が互角の売り込み合戦を繰り広げていました。

 コンクリート製の軌道上を走るアルヴェーグ式に対し、サフェージュ式は「鋼鉄製の桁の内部に車輪を入れて走る」方式のため、雨や雪の影響を受けず、覆われているため騒音が少なく、支柱の間隔を広くとれるため景観を損なわない利点があったのです。

日本へのモノレール上陸、「アルヴェーグ」か「サフェージュ」か

 日本への本格的な「都市交通モノレール」導入にあたっても、この跨座式「アルヴェーグ」陣営と、懸垂式「サフェージュ」陣営とで熾烈な争いが繰り広げられました。

 最初に動いたのは日立製作所で、1960(昭和35)年12月にアルヴェーグ社と技術提携を締結し、日本高架電鉄(後の東京モノレール)新橋〜羽田空港間を事業化。さらに蒲田・横浜方面への延伸免許を出願しました。

 出遅れた三菱は「バスに乗り遅れるな」と、1961(昭和36)年4月に三菱重工、電機、商事を中心に東洋電機、汽車製造、東急車両など10社が加わり「日本エアウェイ開発」を設立。1962(昭和37)年6月にサフェージュ社と正式な契約を締結したのです。

 同社が1961(昭和36)同年8月に出願した最初の路線は「大手町〜三鷹間」でした。さらに同年11月、大手町から延長する形で東京湾岸を走り、千葉県の五井に至る、約50kmもの長大な路線を出願しています。

 最初の都内区間は、すでに5か月前に鈴木彌一郎の「日本モノレール電鉄」がアルヴェーグ式で免許申請していましたが、入れ替わるように申請を取り下げています。この「出願譲り」劇の背景として、1974年4月発行の『電気車の科学』に掲載された座談会で、日本モノレール開発(日本エアウェイ開発が1972年に改称)専務の村岡智勝は「当時鈴木彌一郎氏が持ってきたのが、東京の現在の地下鉄東西線と同じルートです」と答えています。

 鈴木はかつて「大和観光」として新橋〜羽田空港で懸垂式モノレールの免許申請をしていましたが、日本高架電鉄に免許申請を譲り、同社副社長になったあと解任されていました。もともと将来の路線構想として「羽田空港から横浜、熱海方面、新橋から千葉工業地域方面への延長」という壮大な計画を披露しており、これをサフェージュ陣営に持ち込んだことになります。

 日本エアウェイ開発は続いて1962(昭和37)年2月に蒲田〜山下公園間の免許申請をしていますが、これは日本高架電鉄がかねて構想線として披露していた「横浜方面延長線」に先手を打ったものでした(日本高架電鉄は同年3月に羽田空港〜蒲田間、9月に羽田空港〜横浜間を出願)。

 壮大な延伸計画はとどまることを知らず、6月に大森から高円寺、十条、西新井、新小岩を経て長島町(葛西付近)まで環状7号線に沿って一周する大環状路線を出願するなど、本気で都市交通を担おうとしていたことが分かります。

東京モノレールに先を越された…懸垂式モノレールの「次の一手」は

 1964(昭和39)年9月、いざ期待を背負って開業した東京モノレールですが、東京オリンピックの会場輸送が終わると想定の半分以下まで利用が低迷。日立が中心となって経営再建を進めることになり、延伸構想も夢のまた夢になってしまいました。

 東京モノレールで明らかになったのは、海への橋脚建設には想定以上に費用がかかり、道路上空を走らせるのが望ましいが、建設省と東京都は否定的だということ。またそもそも道路を拡幅しなければ橋脚を設置できないという問題でした。「地下鉄よりはるかに安い」と思われていた建設費は大きく上振れし、モノレールそのものに対する社会の期待が薄れていく結果となりました。

 それでもサフェージュ陣営としては、一足先に都市モノレールの実用化にこぎつけたアルヴェーグ式に負けるわけにはいきません。いちおうサフェージュ側も、東京モノレールと同じ年、名古屋の東山公園に0.5kmの路線開業を実現させてはいました。とはいえ事実上の実験線であり、本格的な交通手段としての実績には欠けていたのです。

 そうした中、注目されたのは「江ノ島のモノレール構想」でした。前掲『電気車の科学』によれば、この構想も元々は鈴木彌一郎が持ち込んだ江ノ島〜マリンランド(新江ノ島水族館)間800mの路線が発端だといい、申請はいったん却下されます。

 そのころ、鎌倉〜藤沢間に京急が「日本初の自動車専用有料道路」を運営していました。ここに大船〜江ノ島間をモノレールで結ぶ構想が発展。1965(昭和40)年に「湘南モノレール」として免許を申請します。ポイントとなるのが、京急の「私道」を利用することで、先述の「道路上空の使用問題」を回避した点です。無事着工し、湘南モノレール西鎌倉〜大船間は1970(昭和45)年3月7日に開業を果たします。

 実はこれは「大阪万博」開会のわずか1週間前のことでした。大阪万博では会場内に、アルヴェーグ式を発展させた日本跨座式による4.3kmのモノレールが出展されており、「さらに遅れをとる訳にはいかない」として突貫工事で開業させたといいます。

「後追い勢力」の自滅、そして現在

 当時、アルヴェーグ式をもとに東芝が独自に開発した「東芝式」や、ロッキード社と提携した川崎の「ロッキード式」など様々な方式が乱立していました。しかも東芝式を導入した大船の「ドリームランド線」は設備の不備で1年で営業休止、ロッキード式を導入した「姫路市営モノレール」もすぐに経営危機に陥るなど、逆風が吹いていました。

 そこでモノレール協会は1967(昭和42)年頃から標準規格の策定に乗り出し、「跨座式では日本跨座式、懸垂式ではサフェージュ式が基本」とされました。

 時代にギリギリ踏みとどまったサフェージュ式はその後「千葉都市モノレール」で採用が決まり、現在も2路線が走り続けています。長い間推進役だった三菱グループですが、2015(平成27)年に保有する株式をみちのりホールディングに譲渡し、保守などを除いてモノレール事業から一歩引きました。

 今後あらたな「サフェージュ式」モノレールが誕生するかというと、現在のモノレール整備計画が既設線の延伸のみで具体的な新線建設計画も無いため、可能性は低いと言わざるを得ません。しかし懸垂式モノレールの放つ独特の存在感は、これからも人々を魅了し続けることでしょう。