「B-29を撃墜せよ」調布のミニ飛行場は首都防空の要だった! 今も残る“証人”としての謎構造物
太平洋戦争中、首都圏の防空にも用いられた日本軍機のひとつとして、三式戦闘機「飛燕」が挙げられます。同機が配備された飛行場としてよく知られているのが、東京都下にある調布飛行場。その周辺には当時の面影が今も残っています。
飛行場横のコンクリート製建造物
東京都の郊外に位置する調布市には、主にプロペラ機が発着する調布飛行場(調布空港)があり、東京と伊豆諸島を結ぶ定期航路も運航されています。
いまでこそ、公園脇にある小さな飛行場といったイメージの強い場所ですが、80年前の太平洋戦争中は、旧日本陸軍の航空隊が首都防空の拠点としており、飛来するB-29などアメリカ軍機を迎撃するために戦闘機が日々行き交っていました。
そのため、かつて滑走路に繋がっていたエリアには、今も掩体壕(えんたいごう)または掩体(えんたい)と呼ばれる、かまぼこ型をした軍用機の格納庫が残されています。
調布飛行場横の公園にある、「大沢1号掩体壕」の右側に設置された三式戦闘機「飛燕」のブロンズ像。かつて帝都防空を担った陸軍航空隊があったことを物語っている(吉川和篤撮影)。
太平洋戦争は1941(昭和16)年12月に始まり、それから約4年後の1945(昭和20)年8月に終わりましたが、後半になると日本本土もアメリカ軍機による空襲や地上攻撃を受けるようになりました。
攻撃対象は主に軍事施設や軍需工場でしたが、それらとともに軍の航空基地も含まれていました。そこで敵航空機が来襲した際には素早い迎撃や退避ができるよう、滑走路から近い場所に航空機を駐機させる必要に迫られます。
また1か所に多数の機体を格納してしまうと、1発の爆弾で破壊されてしまうので、分散して格納したりその場所を偽装したりといったことも重要でした。そこで機体を守るシェルターとして、滑走路に繋がる誘導路の側に掩体壕と呼ばれた個別の格納庫が建設されたのです。
掩体壕は、爆撃や機銃掃射にも耐えられる頑丈な鉄筋コンクリート製のものから、木や竹や土を使った木製のもの、単に爆風や破片を避けられればよいとコの字の土塁で囲っただけの簡易なもの、さらには山の斜面に横穴を掘ったトンネル式と、多種多様な構造に分けられます。
木製の掩体壕や土塁で囲っただけのものなどは壊しやすいため、比較的早く姿を消してしまいましたが、コンクリート製のものは頑丈なことから、いまだに形をとどめているものが多いです。たとえば高知県南国市の高知空港近くの農地には。旧海軍航空隊が使用した7基が残存しています。
では、調布飛行場の周囲にはどれほどの掩体壕があったのでしょうか。記録によると、コンクリート製のものが約25基、土塁だけで一部に擬装用の竹製屋根を掛けたものが約30基建設されていたとのこと。文献によっては約130基あったなんて説もありますが、そのうち現存するのはコンクリート製掩体壕3基で、各々一般公開されています。
首都防空の切り札だった調布の「飛燕」
このように、いまなお戦争の面影を残す調布飛行場ですが、元は東京府(当時)が公共用飛行場として1941(昭和16)4月に開設したものです。
当初は東京調布飛行場と呼ばれており、いまでこそ長さ800m、幅30mのメイン滑走路1本しかありませんが、当時は全長1000m、幅80mのメイン滑走路と、全長700m、幅80mの横風用滑走路の計2本(ともにコンクリート舗装)を有する近代的な空港でした。
1945年3月の調布基地において、竹材をアーチ状に組んでぼろ布などで擬装した簡易な掩体壕で翼を休める、飛行第244戦隊所属の三式戦一型丁(吉川和篤所蔵)。
太平洋戦争が始まると、調布飛行場は旧日本陸軍の飛行第144戦隊が拠点とするようになります。この航空隊は九七式戦闘機2個中隊で編成されていました。
開戦半年後の1942(昭和17)年4月、アメリカのB-25爆撃機によるいわゆる「ドーリットル空襲」が起きると、それを境に首都東京の防空拠点として強化されることが決まります。これにより、未舗装の滑走地帯も南側と西側に拡充しました。そして部隊規模も3個中隊に拡充、これに伴い名称も飛行第244戦隊に改められました。ちなみに一時期、二式単座戦闘機「鍾馗」を1個小隊分保有し、皇居防空の任務にも就いています。
その後、1943(昭和18)年7月から12月に掛けて、部隊は当時最新鋭であった三式戦闘機「飛燕」(キ61)へ機種変換を図ります。「飛燕」は川崎航空機(現川崎重工)で開発された、戦争中の日本では珍しい液冷式エンジン装備の単座戦闘機です。
万能に使える中型戦闘機、いわゆる「中戦」として、太平洋戦争中の1941(昭和16)12月に初飛行を行い、終戦までに約3000機以上が生産されています。飛行第244戦隊には、胴体に20mm機関砲2門、左右主翼に12.7mm機関砲2門を搭載し、最も生産数が多かった一型丁が主に配備されました。
飛行第244戦隊はその後、激しさを増す京浜地帯へのアメリカ軍の爆撃に対して連日のように出撃を行うようになっていきます。特に1944(昭和19)年11月から翌年4月に掛けては、B-29爆撃機に体当たりすることで迎撃を行う「震天制空隊」が編成され、刺し違えたりパラシュートによる生還をしたりしながら、数々の撃墜戦果を挙げました。
なお飛行第244戦隊は、沖縄戦の支援として調布基地を離れる1945(昭和20)年5月までに敵機84機を撃墜(B-29爆撃機は73機)、94機を撃破(同92機)したと伝えられています。
今なお残る往時の遺構、見学もOK
改めて現在の調布飛行場を見回してみると、隣接する府中市に「白糸台掩体壕」という名で1基が、三鷹市には「大沢掩体壕」として2基のコンクリート製掩体壕がそれぞれ残されています。これらは全て旧日本陸軍の飛行第244戦隊が使用した三式戦闘機「飛燕」用の小型掩体壕で、前述したように、いまでは外から自由に見学できるようになっています。
旧日本海軍のコンクリート製掩体壕は普通に整地して固めた地面の上に建てられましたが、調布飛行場周辺に残る陸軍の掩体壕は、地面を1m以上掘ってからその上にコンクリート製のカマボコ屋根を付けて、前後に空気が抜けるようにした半地下の開放式構造になっていました。
このような構造だと背が低いために爆撃時の爆風を避けやすく、なおかつ上空の敵から発見しにくいという利点がありました。さらにかまぼこ型の屋根の上には土が盛られて草木も植えられ、大地の一部の様に偽装されました。なお、中に飛行機をしまうときは尾翼から入れます。そのため、上から見ると横幅が徐々に狭くなる形状となっています。
入口の蓋に三式戦闘機「飛燕」のイラストが描かれた三鷹市の「大沢1号掩体壕」。2号掩体壕と比べて破損が広がっているため、内部には充填材が詰められて前後の入口は閉じられている(吉川和篤撮影)。
府中市の「白糸台掩体壕」は、国道20号線沿いの住宅地に囲まれた一角にひっそりと建っています。元々は2基が残されていたものの、個人宅の敷地にあった1基はマンション建設のために最近、解体されてしまったのだとか。しかし、残りの1基が史跡に指定されたことで、文化財として整備されて説明板も設置されており、前部に冊があるもののスロープを降りて内部も見学できるようになっています。ただ、前述したように半地下式の構造であったため、現在は半分位まで土砂で埋まっています。
三鷹市の「大沢掩体壕」の2基は調布飛行場の東側にある武蔵野の森公園内にあって、それぞれ1号と2号と名付けられています。どちらも史跡として整備されていますが、周囲はフェンスに囲まれているほか、1号掩体壕は崩壊を防ぐために内部を充填材で補強して前後の開口部は閉じられています。
しかし前部の蓋にはリアルな三式戦闘機「飛燕」のイラストが描かれており、さらにその横には説明板と共に「飛燕」や掩体壕のブロンズ像も設置されていて、在りし日の掩体壕の姿を想起できるようになっています。
2023年現在、この公園は市民の散策コースにもなっており、1号掩体壕前に広がる丘のベンチからは調布飛行場を発着する航空機が眺められます。天気の良い日などには、旅客機と飛行場、そして掩体壕の遺構を見に、調布飛行場へ足を延ばしてみてはどうでしょうか。首都防空に参加した戦闘機部隊の史跡を見学することで、改めて往時を偲ぶことができるでしょう。