謎の梅ヶ丘運河(二日市水道)と九州北部大隆起説:邪馬台国探しの前に/純丘曜彰 教授博士
以前、九州に住んでいた。その観光地を巡って思ったのは、どこも妙に内陸にあるということ。いま、新規発掘で話題の吉野ヶ里遺跡なんて、その典型だ。
それは、なぜだろうか。というわけで、とりあえず九州北部を40メートルほど沈めてみた。すると、博多湾と有明海が繋がって九州北部は東西に分断され、大村湾も広がって、どこもがちりぢりの島になる。九州が九州と呼ばれたのは、こうしたいくつもの島から成り立っていたからだろう。
しかし、日本列島がまだ不安定だった3500年前ならともかく、縄文海進でも一般にはせいぜい5メートルの標高プラス程度とされ、いくら火山が多く、地殻変動のある九州のこととはいえ、歴史年代で40メートルもの隆起など聞いたことがない。なにか証拠となりうるものはないだろうか。博多湾と有明海がつながっていたとしたら、最低でどれだけの隆起があったことになるだろうか。
博多湾と有明海の分水嶺は、太宰府市と筑紫野市の間、天拝山駅付近だ。さらに細かく見ていくと、このあたりで両流域をわけているもっとも低いところは、筑紫野市歴史博物館〜日本たばこ工場のあたり、現JR線に沿ったところで、標高38メートル。しかし、このあたりは、両側に排水路が多く作られているように、泥洲の湿地帯で、葦などが茂って、人が立ち入ることもできなかっただろう。しかし、台地の上にもかかわらず、これほど排水路がある、ということは、ある時代には、満潮時にこの標高まで海水が上がってきていたことを意味している。
この東はもはや太宰府まで続く針摺丘陵になっている。ところが、この丘陵の合間にどうみても人工的に開削した運河跡があるのだ。梅ヶ丘運河。現在は、片谷池と呼ばれているが、日本を大陸と往復できるほどの、相応の大型外洋船が通過できる幅だ。ここの両端が、先の歴史博物館と同じくらいの標高、そして池の水面標高が45.7メートル。池がいくつかのブロックに分かれているところを見ると、この運河は水門式だったことがわかる。その南側の針摺台地の上、現在の筑紫高校のグランドあたりに貯水池があり、各ブロックに水を流し込むことで、標高40メートルから船を8メートルほど上げ、頂上を越えると、水を流し抜いて水面を下げ、大型船を移動させたのだろう。水道として直結せず、あえて水門式にしたのは、博多湾と有明海の潮位差で激流となるのを避けるためだろう。このすぐ北で、九州の玄関口とされた福岡大宰府政庁が40メートル。つまり、太宰府は、律令国家の政庁として整備される前から、半島式城塞の大野城山を背後に構えて、梅ヶ丘運河を通る前の外交上の関所、貿易港としての役割を担っていたのだろう。同様に、玄界灘に面した福岡の宗像大社高宮も40メートル。また、大分の宇佐八幡は、現在は小さな丘、亀山の上にあるが、この亀山はもとは周辺を海に囲まれた小島で、やはり標高40メートル。また、岩壁にへばりつく大きな佐賀の祐徳稲荷も、標高40メートル。どちらも、そのすぐ目の前まで、外洋船で乗り付けることができたことが伺える。さらに、熊本の菊池神社は、いまではかなり内陸だが、40メートルの水位があれば、玉名から山鹿を抜けて、目の前の七城町のところにまで巨大な湾が広がり、ここを九州最大の豪族が拠点としたというのも理解できる。このほか、中小の古墳や神社も、九州北部では40メートルラインに並んでいることから、古墳時代、大和時代になっても、これより下はまだ「陸」とはみなされていなかったことがわかる。
さて、梅ヶ丘運河だが、その東南側へ降りてすぐ、筑紫野市天山の高木神社を登ったところに「船繋石」がある。これは、秦の始皇帝時代、紀元前210年ころ、皇帝の命で不老不死の妙薬を求めて日本に来たという徐福の伝説にまつわる。彼は、数十隻もの大型船で三千名もの若い男女、さまざまな技術者を連れてやってきて、平原広沢の王となり、もはやだれも帰国することはなかった、という。梅ヶ丘運河を越えて目の前に現われた、干上がりつつある筑紫平野は、まさに平原広沢の名にふさわしい場所だっただろう。(佐賀県の筑後川河口近くの金立神社が徐福上陸地とも言われるが、有明海を大きく回ってきたにせよ、このあたりはどうやってもまだ当時は海で、話にムリがありすぎる。)
一方、筑紫平野の西寄りにある吉野ヶ里遺跡だが、ここは丘の上でも標高20メートルそこそこしかない。となると、ここは上記のような前史的古代遺跡と較べると、すでに土砂が沖積して平野が干上がりつつあったころの、ずっと新しい集落ということになる。『魏志倭人伝』の海路道程は、おそらくこのころにはすでに塞がってしまっており、間尺が合わない。とはいえ、ここはもともと、熱田神宮のように、北から伸びる半島の先端。九州を縦横に航海可能だった邪馬台国時代の遺跡があるとすれば、この北、肥前精神医療センターの西側にある、標高40メートルほどの小山だろう。実際、この麓には、いくつかの古墳が見つかっている。
邪馬台国探索ブームのきっかけとなる『まぼろしの邪馬台国』(1967)を書いた在野の研究者、宮崎康平もまた、「倭人伝を忠実に読めば読むほど、どうしても南へ水行しなければならない」とし、博多湾と有明海を繋ぐ二日市水道の存在を信じていた。ただし、彼は、それが火山灰その他で深く埋もれた、としていた。しかし、太宰府や宗像大社、宇佐八幡、祐徳稲荷などがいまも標高40メートルにある以上、二日市水道の部分にだけ40メートルの火山灰が積もって沈んだ、などという説にはムリがある。
また、梅ヶ丘運河は、645年の壬申の乱で知られる七世紀の天智天皇(中大兄皇子)が作った、という話もあるにはある。もともと博多湾側には500年頃に国造磐井が開いた水路があり、彼はこれを改修延長したという。だが、当時の国際情勢からすれば、663年の白村江の戦いで完敗し、防人を置くなど、九州防衛の徹底が急務で、博多湾を有明海と繋いで、海軍力に勝る敵に進撃の道を開くなどというのは、ありそうな話ではない。むしろ彼が破壊して塞いだ可能性の方が高いだろう。さらには、江戸時代に福岡黒田家が筑後平野側の米を城下に運び込むために、何度も運河開削を計画している。が、地峡西寄りのもっとも標高が低い湿地帯(現在のJR線あたりか)でも船を通すにはもはやすでに水量が足らず、実現には至らなかった。宮崎が発見したと喜んでいた遺構は、この江戸時代の試掘の名残だった可能性が高い。
いずれにせよ、40メートルも、九州北部が現状より低く、針摺地峡のほとんどが海没していた、などというのは、聞いたことが無い。しかし、一時的にせよ、九州北部が40メートルも低かった(満潮時の海水位が安定して高かった)ことが続き、だれが作ったのか、その時代に梅ヶ丘に人工的な運河が開削され、博多湾と有明海で外洋船が通行できたことは否定はできまい。この奇妙な謎を解かずに、邪馬台国の行程を論じても、埒があかない。
(地図作成は、国土地理院+Web等高線メーカー(埼玉大学谷研究室)による。)