宮崎県南部を走るJR日南線が2023年5月に開業60周年を迎えました。同線は国鉄の地方路線として開業したものの、その一部区間は全国的にも珍しい経緯を持つ路線だといいます。改めて誕生の経緯を追ってみました。

もともとは軽便鉄道として開通

 宮崎県の南宮崎駅と、鹿児島県の志布志駅を結んでいるJR日南線は、2023年5月に開業60年の節目を迎えました。元々は1963(昭和38)年に全線開業した国鉄日南線ですが、ルーツは大正時代の軽便鉄道。通常なら国有化して組み入れるところ、一部区間ではいったん路線を廃止し、あらためて国鉄が線路を敷設し直すという、全国でも珍しい経緯を持った路線です。


日南線特別仕様のキハ40形気動車(咲村珠樹撮影)。

 JR日南線の原型は、1913(大正2)年10月に赤江(現在の南宮崎)駅と内海駅の間に開業した宮崎軽便鉄道です。旧飫肥藩の主要な港であった内海と、上方(関西地方)と交易する港町として栄えていた赤江城ヶ崎を結ぶのが目的でした。

 ただ、将来的に官営鉄道(現在の日豊本線)へ接続することを見越して、軽便鉄道ながらレールの幅(軌間)は官営鉄道と同じ1067mmを採用していました。その一方で、路盤や鉄橋、使用するレールの規格などは、軽便鉄道に見あった簡素なものだったといいます。

 なお、これにやや先立つ1913(大正2)年8月、やはり旧飫肥藩の城下にある油津港と飫肥の城下町を結ぶ軽便鉄道が、宮崎県によって開業しています(宮崎県営鉄道飫肥線)。こちらは他路線と接続しない独立した路線だったこともあり、レールの幅は軽便鉄道に多い762mmを採用しました。

 日南線の南半分にあたる志布志側は、1922(大正11)年に公布・施行された改正鉄道敷設法にもとづく国有鉄道の予定線となる、別表126「鹿児島県国分より高須、志布志、宮崎県福島を経て内海付近に至る鉄道及び高須より分岐して鹿児島県川北付近に至る鉄道」の一部に含まれます。昭和に入ると、志布志から福島を経由して内海に向けて北上する、国鉄志布志線の建設が始まりました。

日本初! 蓄電池仕様の電車を運行

 この予定線と同じ区間を走る宮崎県営鉄道の飫肥〜油津は1935(昭和10)年、762mmのレール幅をそのままに「油津線」として、ひと足先に国有化されます。志布志から建設されてきた路線が1941(昭和16)年に油津へ到達すると、レール幅を1067mmに変更した上で、志布志線(志布志〜北郷)に統合される形で油津線は廃止。残る北郷〜内海間は「内海線」の名称で、太平洋戦争による中断を挟みながら建設が続けられました。

 これに対し、宮崎軽便鉄道が開業させた南宮崎〜内海の区間は、1943(昭和18)年に戦時企業統合政策で路線の競合相手でもある宮崎バスらと合併し、宮崎交通(社長は宮崎バスの岩切章太郎が就任)へと経営母体が変わりながらも、戦後まで私鉄として存続していました。

 宮崎交通は1939(昭和14)年、沿線の青島温泉駅前に遊園地(現在の「こどものくに」)を開設。これを受け駅名も「子供の国」駅と改称するなど、私鉄らしい利用促進策を実施していました。

 また変わった施策としては、蒸気機関車の燃料である石炭の価格が高騰したため、1950(昭和25)年から蓄電池で走る「電車」や「電気機関車」の運行を始めたことが挙げられます。もちろん、今の電気自動車が積むようなリチウムイオン電池ではなく、古くからある鉛蓄電池を搭載し、終点で充電済みの電池と交換する方式を採用。この形での「電化」は、遊戯施設として開業した西武山口線の「おとぎ電車」と同じ年で、法律にもとづく鉄道路線としては初のケースでした。

「こんな線路じゃダメ!」国有化でなく新線として建設

 太平洋戦争後は、主に宮崎市街地の南宮崎と観光地である青島を結ぶ路線となっていた宮崎交通線ですが、同じ社内に競合するバス路線を抱え、むしろ本数はそちらの方が多かったため乗客を奪われ、赤字が続いていました。その運命が変わったのは、1962(昭和37)年のことです。

 同年3月に政府の鉄道建設審議会が、南宮崎〜内海間を国鉄線にすべしと建議したのです。この部分を国鉄線として通せば、すでに開通している国鉄志布志線、建設が進む内海線とつながり、宮崎県南部の外郭環状線を形成することができます。ほかにも、こうすることで宮崎地方と日南地方の経済圏を短絡させるのを目指していました。

 これを受けて2か月後の5月12日に鉄道敷設法は改正され、同じ区間を走る宮崎交通線は国へ譲渡されることが決まります。しかし国鉄線にするには、もともと軽便鉄道として建設された線路や施設が問題となりました。戦後に国鉄から列車が乗り入れ可能なようにレールを強化してはいたのですが、あくまでも「走れなくはない」程度。国鉄の路線とするには貧弱だったのです。

 鉄道敷設法の改正案を審議した国会でも、政府委員から「現状のままでは一貫輸送は事実上不可能」で「譲り受けた後なお相当の改良工事が必要」との発言が議事録に見られます。そこで、現在建設中の内海線(北郷〜内海)とともに、新線建設として一貫工事を実施したいと政府は提案し、承認されたのでした。


木花駅に停車中の日南線普通列車(咲村珠樹撮影)。

 宮崎交通線は、法改正から約1か月半後の1962(昭和37)年7月1日に早くも全線廃止。譲り渡す側の宮崎交通からすると、赤字路線を手放せる “渡りに船”なハナシとはいえ、あっという間の出来事でした。廃線跡は大部分が再利用されましたが、鉄橋などの構造物は新たに作られ、廃止前年の1961(昭和36年)年に発生した土砂崩れで不通となっていた山間部の青島〜内海は、新ルートへ変更されています。

 志布志線の志布志〜北郷を併合し、南宮崎〜志布志を「日南線」として全線開業したのは1963(昭和38)年5月8日でした。

 ちなみに、予定線にある既存の私鉄路線を直接国有化することなく、廃線後に新規で国鉄が路線を建設し直す方式は、日南線開業の約10年後、1974(昭和49)年に開通した湖西線でも用いられています。

 こちらは1967(昭和42)年に建設が始まり、1969(昭和44)年に廃止となった江若鉄道線を吸収する形で全線開通となりましたが、日南線の前例があったからこそ取られた敷設方法だと言えるのかもしれません。