「新横浜の私鉄」誕生まで60年もかかったワケ【後編】 ラブホ街に交錯した市と3私鉄の思惑
相鉄・東急新横浜線の開業により、新幹線を含め5社局5路線が乗り入れるようになった新横浜駅。後編では長らく私鉄が通らなかった理由について、バブル経済の頃から見ていきます。
バブル経済とともに新横浜開発も進む
『「新横浜の私鉄」誕生まで60年もかかったワケ【前編】』では、東海道新幹線が開業し、新横浜駅が設置されてから新横浜の開発が始まるまでの約20年間を辿りました。後編では、新横浜の開発が本格化してから相鉄・東急新横浜線が開業するまでの約40年間を見ていきましょう。
とうとう私鉄の電車も新横浜へ到達するようになった(2023年4月、大藤碩哉撮影)。
この時代を見るうえで重要なのは日本経済に大きな変化が相次いだことです。1985(昭和60)年のプラザ合意で、ドル円レートは1年で250円台から150円台へ急激な円高となり、輸出産業が中心の日本では円高不況が発生しました。
内需主導型の経済成長を目指す政府と日本銀行が、公共投資の拡大や公定歩合引き下げなどを進めた結果、不動産や株式への投資が過熱しバブル経済へ突入します。新横浜の開発が本格化するのは、ちょうどバブルを迎えた頃でした。
その頃の新横浜は「ラブホテル街」と呼ばれていたそうです。1990(平成2)年4月の『日経地域情報』(日経産業消費研究所)によれば、オイルショック後に区画整理が完了したため土地需要が少なく、目先の利益を求めて地主が条件のよいホテル業者に土地を貸したからといいます。しかし1986(昭和61)年以降、横浜市、キリンビール、プリンスホテルが出資する第三セクター横浜アリーナが設立されるなど、大規模開発が本格化しました。
バブル期の新横浜を語るうえで欠かせないのが西武グループ(日本国土計画、西武鉄道、プリンスホテルなど)の存在です。西武は新幹線開業時に新横浜周辺の土地を買い占め、一部を国鉄に売却し、一部を自社の事業用用地として確保してきました。
実は西武の持ち物がたくさんあった
こうして横浜アリーナが1987(昭和62)年に着工し1989(平成元)年4月に開業、新横浜プリンスホテルが1988(昭和63)に着工し1992(平成4)年に開業。このほか、1990年代始めにかけて新横浜西武ビル、新横浜プリンスペペ、新横浜スケートセンターなどが相次いで開業しました。
西武グループの一大根拠地となった新横浜でしたが、皮肉にも大規模投資が形になる頃にはバブル経済は崩壊しており、目論見通りには行きませんでした。
画面中ほどが日産スタジアム。新横浜駅は写っていないが、位置は画面左下あたり(画像:写真AC)。
1990年代後半の新横浜といえばスポーツの街というイメージではないでしょうか。テニス、バスケットボール、バレーボール、格闘技などの会場となる横浜アリーナに加え、1992年には障害者スポーツ文化センター「横浜ラポール」、1998(平成10)年には2002(平成14)年のワールドカップ決勝の舞台となった横浜国際総合競技場(現在の日産スタジアム)、横浜市スポーツ医科学センターがオープンしました。
遠方からの来訪者が増えるにつれ、東海道新幹線でも新横浜の地位は向上していきます。1992年3月に運行開始した「のぞみ」は、下り一番列車のみとはいえ新横浜に停車し、その後も増便とともに停車する列車が増えていきます。最終的には2008(平成20)年のダイヤ改正で、「のぞみ」「ひかり」の全列車が停車するようになりました。
さてその頃、1985年の運輸政策審議会答申第7号に登場した、二俣川から新横浜、大倉山経由の東急東横線直通と、川崎経由で羽田空港方面に向かう「神奈川東部方面線」は新たな局面を迎えていました。
なぜ相鉄はJR直通線を計画したか
最大のネックは建設資金の調達です。当時は国や自治体の補助金制度が不十分で、自ら調達しようとすれば金利負担が重すぎて、採算が取れないため事業主体が決まりません。相鉄からすれば、莫大な建設費を負担しながらターミナル横浜の地位低下をもたらす東部方面線計画は、決して歓迎できるものではありませんでした。
また大倉山で接続を想定していた東横線の複々線化工事は、日吉までに短縮され一体的な整備は実現せず、川崎ルート側も連携先の川崎市営地下鉄構想が難航。そのうえ、京急の羽田空港ターミナルビル乗り入れが決まったことで、その意義を失ってしまったのです。
2000(平成12)年の運輸政策審議会答申第18号では川崎ルートが削除され、東急ルートのみが「2015年度までに開業することが適当である路線(A1路線)」に位置づけられましたが、相鉄が検討していたのはJR東海道貨物線への乗入れ計画でした。これは莫大な建設費を要する東部方面線と比べ、最小限の設備投資で都心乗り入れできる現実的な計画だったからです。
しかし答申から5年後の2005(平成17)年に、事業費の3分の2を国と自治体が補助する都市鉄道等利便増進法が制定され、最大の懸念であった資金調達が容易になると、神奈川県、横浜市を始めとする地元自治体の熱意が原動力となって東部方面線計画が具体化していきます。
結局、JR直通線と東急直通線の両方が法律に基づき事業認定され、前者は2010(平成22)年、後者は2013(平成25)年に着工。2023年3月の相鉄・東急新横浜線の開業で、ようやく新横浜に私鉄が乗り入れました。
そういえば西武はいずこへ…?
この間、新横浜への投資を積極的に進めてきたはずの西武グループが登場しないのは、2004(平成16)年に西武鉄道株の名義偽装事件が発覚し上場廃止となり、グループが再編される大騒動の最中だったからです。
西武グループは2006(平成18)年にプリンスホテルと西武鉄道を中核とする西武ホールディングスを設立。2014(平成26)年に再上場を果たし、10年を費やしてようやく経営が正常化します。
西武鉄道の座席指定列車「S-TRAIN」。西武線直通電車は新横浜へは行かないが、横浜・みなとみらいへの需要を見据える(画像:西武鉄道)。
2013年に地下鉄副都心線を介した西武池袋線と東横線との相互直通運転が始まると、土休日に座席指定列車「Sトレイン」を設定、西武横浜ベイサイドきっぷの発売など、横浜・みなとみらいを重視した営業施策を推進。ただ東急新横浜線との直通運転は「横浜駅方面と比べて利用が少ない」として見送りました。
新横浜事業にも変化が見られます。コロナ禍でホテル・レジャー事業の経営が悪化したため、資産を保有せず運営に特化して機動的な経営を目指すアセットライト化を進めることになり、新横浜西武ビルを売却し、新横浜スクエアビルは証券化。一方で新横浜プリンスホテルは売却対象から外れ、2017(平成29)年に子会社化した横浜アリーナとともに新横浜事業の中核を担い続けることになりました。
横浜市と相鉄、東急、西武の思惑が交錯しつつ、40年をかけて実現した新横浜線ですが、コロナ禍と沿線人口減少の影響で需要予測が3割引き下げられるなど先行きは不透明です。またリニア中央新幹線開通後は、横浜から名古屋、大阪方面は品川乗り換えが最速となるなどの変化が生じます。新たな時代に向けて、街と路線がどのように変わっていくか楽しみです。