空襲と聞くと、太平洋戦争末期の東京大空襲などが想起されますが、アメリカ軍による初の日本本土空襲は、実は1942年の今日です。空母に双発爆撃機を搭載し、爆撃後はそのまま西進し中華民国に不時着する、無謀ともいえる作戦でした。

無謀とも思われた日本本土空襲

 1942(昭和17)年の4月18日は、日本本土がアメリカ軍の爆撃機によって初めて空襲された日です。東京や横須賀、神戸などの都市だけでなく、飛行経路にあった町も機銃掃射を受けるなどしました。一連の空襲は作戦を指揮したジミー・ドーリットル中佐にちなみ「ドーリットル空襲」や「ドゥーリトル空襲」と呼ばれます。


ノース・アメリカン社が開発したB-25双発爆撃機。アメリカ軍機として初めて日本本土を空襲した(画像:アメリカ海軍)。

 太平洋戦争が始まって間もない当時、アメリカ軍はまだ日本近海の制海権・制空権ともに掌握しておらず、それどころか日本本土への侵攻は不可能とすら考えていました。それは開戦以来、日本の潜水艦などがアメリカ西海岸をたびたび攻撃しており、太平洋における日本の戦力は強力だと恐れていたからでした。

 ではなぜ、それでもアメリカ軍は空襲を敢行したのでしょうか。それはアメリカ国民の厭戦気分を払拭するためです。日本と不利な条件で講和を結ぶのを何としても避けるべく、国民の士気を上げる勝利が必要だったからでした。

 生還できないかもしれず、まさに火中に飛び込むような作戦。4月1日、B-25双発爆撃機を16機搭載した航空母艦「ホーネット」はサンフランシスコを出港します。ちなみにB-25は艦載機ではないため、空襲後に母艦へ帰投しても着艦することはできません。よって作戦では、日本本土を空襲した後はそのまま西へ抜け、中華民国へ不時着するという“片道きっぷ”でした。

「ホーネット」は駆逐艦などを率い日本近海を目指しますが、18日早朝、日本の特設監視艇(漁船)に発見されてしまいます。これにより、アメリカ軍は日本軍が迎撃してくるのではないかと警戒し、「ホーネット」は直ちにB-25を発進。そして発艦が終わるや否や艦隊は反転し、アメリカ本土へ帰投していきました。

索敵を誤った日本軍

 一方の日本側にも、先述の哨戒艇や哨戒機から「敵部隊発見」の情報が入っていました。しかし日本軍は、アメリカ軍は空母でさらに日本近海へと到達した後、艦載機を発進させて侵入してくると判断し、攻撃予定は翌日、また爆撃も高高度から行うのではないかと考えます。そこで、空母など艦隊を攻撃できるよう爆撃機を発進させたほか、巡洋艦や駆逐艦にはアメリカ艦隊との海戦に備えるよう命令を出しました。

 ただ先述の通り、「ホーネット」などアメリカ艦隊はすでに退避していたため、当然ながら会敵できるはずがありません。B-25の飛行経路も正確に把握できなかったなど不遇も重なり、結果的に1機も迎撃できずに爆撃機の侵入を許してしまいます。しかも日本側の推測とは異なり低空飛行でした。


日本へ向かう空母「ホーネット」艦上にて、ドゥーリトル中佐(左正面)と「ホーネット」艦長のマークA.ミッチャー大尉(画像:アメリカ海軍)。

 午前8時過ぎ、ドーリットル中佐が搭乗する隊長機などが東京に侵入、爆撃を開始します。事態をよく把握できずにいた市民の中には、B-25を日本軍機と勘違いし手を振った者もいたそうです。

 結果的に、16機のうち15機が本土爆撃に成功(1機は相模湾で爆弾を洋上投棄)。なお当初の目標は東京、横浜、横須賀、名古屋、神戸、大阪だったものの、本土到達後の日本軍機による迎撃などで進路が狂い、埼玉県や栃木県、川崎市も爆撃されています。

 また照準も正確さを欠き、目標であった軍需工場以外にも被害が出ています。民間人を巻き込み日本側の死者は80人以上、全壊家屋は180戸以上とされています。アメリカ側は1人の戦死が確実なうえ、不時着した中華民国で捕虜となった者もいました。B-25は日本側に撃墜された機体はなかったものの、全機が投棄されています。

「アメリカ太平洋艦隊を撃滅します」しかし…

 こうして行われた乾坤一擲の奇襲作戦は、アメリカで大々的に宣伝されました。一方の日本側は、直接的な被害は軽微とはいえ、軍部や国民に与えたショックは大きいものでした。真珠湾攻撃以降、連戦連勝を重ね浮足立っていたところで、本土防衛体制の杜撰さが明らかになったからです。

 特に陸軍は海軍へ向け、日本近海の制海権把握を疑問視するような意見を投げかけます。これに対し海軍は、近く総力を挙げてアメリカ太平洋艦隊を撃滅すると回答しました。こうして日本は2か月後の6月、ミッドウェー海戦へと進むことになりますが、この海戦で海軍が大敗を喫したことで、以降 戦局が徐々に不利へ傾くのは周知の通りです。


富士山はマリアナ諸島から北上してくるB-29にとって絶好の目標だった(画像:アメリカ空軍)。

 その後、太平洋の島々がアメリカ軍に占領されると、それらを拠点に飛来する爆撃機によって日本本土は連日空襲を受けるようになります。目標も軍需工場や飛行場などに限らず、絨毯爆撃で都市を焼き尽くし戦意喪失を狙う戦略爆撃となり、日に日に激しさを増していきました。

 空襲と聞くと、1945(昭和20)年3月の東京大空襲や大阪大空襲、軍港のあった呉空襲など太平洋戦争末期の出来事が想起されますが、実は開戦わずか4か月後、戦争の初期に早くも東京や横浜、名古屋などの各都市は初空襲を受けていたのです。