東急は地下鉄副都心線や南北線、三田線などへ直通し、都心アクセスを実現しています。その実現までは紆余曲折があり、最初は「東急が自前の都心路線を持つ」野望を持っていたのです。

東急の「都心直結」野望を阻むものは

 東京メトロ副都心線と東急東横線の相互直通運転開始から2023年で10周年となります。副都心線と入れ替えに直通運転を中止した日比谷線、2000(平成12)年9月に目黒線と直通運転を開始した南北線、都営三田線をあわせれば、東急は実に4路線に乗り入れていたことになります。

 地下鉄に乗り入れることで都心への直通を実現した東急ですが、その実現にはまさに“茨の道”とも言うべき紆余曲折がありました。


東急東横線を走っていた1000系電車(大藤碩哉撮影)。

 東京の私鉄は、地図を見れば分かるように、ほとんどが山手線の駅をターミナルとして、その先は地下鉄に乗り入れることで都心乗り入れを果たしています。

 これは長らく都心(旧東京15区、おおむね西は山手線の内側、東は横十間川まで)の鉄軌道は国有鉄道と路面電車(市電)が担うこととして、私鉄の乗り入れをほぼ認めなかった当時の鉄道行政の名残です。

 ほぼというのは、日暮里から上野公園の地下を通って上野駅に乗り入れた京成電鉄や、実現しなかったものの五反田から白金方面への免許を取得した池上電気鉄道(東急池上線の前身)などの例外があるからです。1920(大正9)年に目黒〜有楽町間の地下延長線が免許された「武蔵電気鉄道」も例外的な事業者のひとつでした。

 後に東急グループを創設する五島慶太はもともと鉄道省の役人でしたが、武蔵電気鉄道が免許を取得した直後に退官して、同社の常務取締役へ就任します。数ある鉄道事業者の中から、まだ何も形になっていない武蔵電気鉄道を選んだのは、同社が地下鉄免許を保有していたからでした。彼は「都心乗り入れの私鉄」実現に向けて意欲的に動きはじめたのです。

私鉄がやる?国がやる?時代でブレブレの「地下鉄建設」主導権

 ところが武蔵電気鉄道は資金難で着工できず、さらに1923(大正12)年に関東大震災が発生すると、地下鉄整備は東京市を主体として行うことになり、せっかく例外的に与えられていた武蔵電気鉄道の免許は失効してしまいます。同社は「東京横浜電鉄」に改称し、同系の目黒蒲田電鉄とともに残存免許を活用した東横線渋谷〜桜木町間の建設を進めることとなります。

 五島はその後もあきらめず、都心乗り入れ免許を何度も申請しますが、全て却下されました。最終的に1934(昭和9)年、東京市が免許を保有する地下鉄路線を“代行建設”する鉄道事業者「東京高速鉄道」(現在の銀座線渋谷〜新橋間)に参加。渋谷乗り換えではあったものの、同社を介した都心乗り入れの実現に漕ぎつけました。


銀座線の新橋〜渋谷間を運営していた東京高速鉄道の電車(2018年6月、草町義和撮影)。

 しかし再び五島は地下線を奪われます。東京高速鉄道は1941(昭和16)年、国主導で新設された「帝都高速度交通営団」に統合されてしまったのです。主導権を巡り激しく対立し、遅々として進んでいなかった当時の「私鉄による地下鉄建設」体制に業を煮やした政府の方針転換によるものでした。

 それでも五島は「経営効率に優れる私鉄が地下鉄整備を担うべき」と考えており、交通営団に対して否定的な考えを抱いていました。営団が新線を建設できないまま戦争が終わると、東京都や私鉄はこぞって「戦時体制で設立された営団は無効」と主張。1947(昭和22)年から1955(昭和30)年頃にかけて私鉄は次々に都心乗り入れ線の免許を申請しています。

 このうち東急は1947(昭和22)年6月に東横線「中目黒〜広尾〜東京駅」(8.2km)と目蒲線「目黒〜広尾」(2.2km)を、1950(昭和25)年5月に東横線「渋谷〜新宿」(3.4km)と池上線「五反田〜品川」(1.8km)を免許申請。東武、小田急、京急、京王、京成の出願線と合わせて、都心の鉄道計画は一転してカオスな状況に陥りました。

決着は「自前でなくとも…」

 これらの動きに対し、営団は組織改正を条件に存続が認められることになり、また戦後初かつ営団初の新線として丸ノ内線の建設に着手します。営団廃止論は下火になっていきますが、そのままでは地下鉄に参入したい東京都、自社線から直接都心に乗り入れたい私鉄、これらを納得させることはできません。

 こうした各方面の利害を調整すべく、運輸大臣の諮問機関として設置された都市交通審議会は1956(昭和31)年8月の答申第1号で、新たに整備する地下鉄路線は「郊外私鉄または国鉄との相互直通運転を実施」、また整備を促進するため「営団以外にも地下鉄建設への参加を認める」という方針を打ち出します。

 答申を踏まえ運輸省は1957(昭和32)年6月、地下鉄1号線(現在の浅草線)が京急線・京成線と、地下鉄2号線(現在の日比谷線)は東急東横線・東武伊勢崎線とそれぞれ相互直通運転を行うこととします。営団は都と京急に1号線の免許を譲渡。都は「都営地下鉄」として、また京急は1号線支線とされた「品川〜泉岳寺」を、それぞれ自前で建設していきます。

 この決定をを受けて運輸省は、都と私鉄各社に免許申請を取り下げさせ、手打ちとしました。

 1964(昭和39)年8月、東急東横線は日比谷線への直通運転を開始。40年以上の月日を経て、ついに都心乗り入れを実現したのです。また東横線の新宿延伸、目蒲線の都心延伸も地下鉄直通として実現しました。

 鉄道事業者が創立にあたって掲げた壮大な構想がそのまま実現することは稀ですが、その精神を失わない限り、長い時間をかけ、形を変えて実現することがあります。まさに「私鉄の一念、トンネルをも通す」と言えるでしょう。