旧日本海軍の空母「加賀」が1928年の今日、竣工しました。戦艦として進水するも、後に空母に改装された経緯があります。その証拠が名称。ただ空母になった後も、艦載機の運用を巡り試行錯誤が続けられました。

なぜ三段式の飛行甲板をやめたのか

 1928(昭和3)年の3月31日は、旧日本海軍の航空母艦「加賀」が竣工した日です。ただ旧海軍では原則として、旧国名を艦名としたのは戦艦に限られます。加賀国は現在の石川県。なぜ、空母なのに「加賀」という艦名になったのでしょうか。

 それは同艦が当初、戦艦として建造されたから。進水は1921(大正10)年11月ですが、同じころに発効されたワシントン海軍軍縮条約により軍艦の保有数が制限されると、一旦は未完成のまま廃艦になることが決定します。


旧日本海軍の航空母艦「加賀」(画像:Flickr/public domain)。

 しかし転機が訪れます。それは1923(大正12)年9月1日の関東大震災でした。空母化に向けて改装中だった別の戦艦が被災すると、これに代わり「加賀」を空母とすることが決まったのです。

「加賀」はまず、三段式(ひな壇式)の飛行甲板を搭載します。先述の通り1928年3月末に竣工すると、上段を離着艦用、中段を小型機の発艦用、下段を戦闘機などの発艦用として運用しました。現代の視点では何とも手狭に見えますが、当時は航空機が海戦の主力になるとは想定されておらず、航続距離も短く小型な機体は、勝敗を左右するような戦闘はできないと考えられていたのです。

 しかし、航空機の性能が想定を上回る早さで向上し機体も大型化すると、三段式の空母は飛行甲板の短さなどから使い勝手が悪くなりました。「加賀」は再度大掛かりな改装を受け、艦橋を右舷に、大きな飛行甲板を1枚にした一段全通式の空母に生まれ変わりました。1935(昭和10)年6月のことでした。

 改装により艦の重量を大幅に軽減できたほか、中段と下段の飛行甲板だったスペースを格納庫に転用でき、艦載機も100機へ増大しました。

最期はミッドウェーの海

 太平洋戦争が始まる前の戦歴としては、中華民国軍と戦った1932(昭和7)年の第1次上海事変、1937(昭和12)年の第2次上海事変にそれぞれ出撃しています。偵察機や攻撃機を発進させ、杭州などを爆撃しました。

 1941(昭和16)年12月、太平洋戦争開戦の契機となった真珠湾攻撃に参加。ほかの日本空母5隻とともに、作戦を成功させます。その後は、西太平洋のトラック島へ進出し、ラバウルやポートダーウィン攻略など、南方作戦に従事しました。


「加賀」を攻撃し損傷したアメリカ軍の急降下爆撃機。空母「ヨークタウン」の艦上とされる1枚(画像:アメリカ海軍)。

 しかし1942(昭和17)年6月、太平洋戦争における勝敗の分岐点ともいわれるミッドウェー海戦が運命の一戦となります。5日朝、ミッドウェー島の攻撃へ向かった味方機から相次いで「敵艦隊発見」が報告されると、「加賀」の飛行甲板では艦載機に対し、陸上攻撃用の爆弾から艦船攻撃用の魚雷へ転換が行われました。続く攻撃隊の発進は大きく遅れます。

 慌ただしい「加賀」に、アメリカ軍の急降下爆撃機が襲来します。発進準備中の飛行甲板に爆弾が命中し、兵器や機体に次々と誘爆。さらには航空機用の燃料タンクにも爆弾が命中し、「加賀」はあっという間に炎に包まれます。

 消火活動もままならず、およそ9時間後に大爆発を起こしながら沈没。この海戦に参加した4隻の空母の中で、「加賀」は最も大きな人的被害を出しました。なお結果的に、参戦した日本の全空母が撃沈されています。

 戦艦として生まれ、一度は廃艦が決定するも空母として再出発を果たした「加賀」は、今もミッドウェー島沖の海面下5200mという深海に眠っています。