1958年3月28日から30日にかけて、日本のモータリゼーションの火付け役となったクルマが初お披露目されました。車両の名前は「スバル360」。「てんとう虫」の愛称でも親しまれた名車です。

スバルはなぜ軽自動車に? 「てんとう虫」スバル360誕生

 1958年3月28日から30日にかけて、日本のモータリゼーションの火付け役となったクルマが東京のデパートで初お披露目されました。クルマの名前は「スバル360」、スバルブランドの起源ともなった車両でした。


「スバル360」はエンジンがリアにあるためフロントは収納スペースになっている(画像:スバル)。

「てんとう虫」の愛称でも親しまれた「スバル360」は、まだクルマといえば商用車がほとんどだった時代の日本に登場しました。同車の開発は、1955年12月9日、富士重工業(現・スバル)の伊勢崎製作所で「4輪車計画懇談会」が開かれ、軽自動車の生産を公式のテーマとして検討することになった際に始まります。

 試作段階の名称はK-10、開発当初から車体の軽量化、生産の簡易さ、大人4人の充分な車体スペースの確保、快適な乗り心地の実現という目標が掲げられていました。

 ただ、富士重工があえて軽自動車の開発を目指したのには、ウラ話があります。当時開発を担当した百瀬晋六が自動車技術会のインタビューで話した経緯によると、小型車量産での融資を銀行に断られたため、ほかの大手自動車メーカーと融資内容が被らない軽自動車ならば、という考えがあったのだとか。方向性が決まったのは1955年4〜5月頃だったといいます。

 後年、スバル360をめぐっては、1955年に通産省が提示した乗用車の「普及促進政策」に呼応する形で開発したとしばしば書かれます。しかし、この構想は、富士重工が軽自動車を開発する方針が決まった後に発表され、特に関係はなかったと百瀬はインタビューで明かしています。

小さな排気量で4人乗車をどう実現?

 現在の軽自動車は排気量660cc以下の車両を指します。しかし当時は360cc以下と定められており、「スバル360」は356ccという小排気量のエンジンで、4人乗りと安定した走行を実現させなければなりませんでした。


リア部分に収められているエンジン(画像:スバル)。

 そのとき活きたのが、富士重工業の前身である中島飛行機で、航空機を研究していた百瀬らの技術でした。軽量で高速、そして剛性の高さも同時に実現するためにフルモノコック・ボディを採用しました。モノコック・ボディとは、フレームを使わないで、卵の殻のように外板だけでボディの強度を保つ構造です。現在のクルマでは定番の技術になっていますが、当時ではまだ珍しく、薄板をまげて強度を出す飛行機の技術があったからこそ、こうした技術が実現できたといわれています。

 また、エンジンをリアに配置したのも大胆な設計構造といわれていますが、これは限られたスペースに4人をゆったり乗せるにはどうすればいいかと百瀬らが考えた結果、リアエンジンで後輪駆動という結論になったそうです。さらに、小さい車体に合った足回りにするために、トーションバースプリングを採用し、十分なスペースを取ることに成功しました。

「スバル360」の発売当時の価格は42万5000円。1958年当時の一般的なサラリーマンの月収が1万6000円といわれており、大衆車とはまだ呼べず高値の花ではありました。しかし、日本国民の給料は急速に上がっていき、1970年に生産終了するまでに、累計で約39万台を売り上げ、その後の自動車産業に大きな影響を与えました。