秋葉原駅から万世橋を渡ってすぐにある、JR神田万世橋ビルの正面玄関前には謎の白いポールが立っています。実はこれ、とある銅像と旧万世橋駅の歴史を示すものでした。

旧万世橋駅→いまはビル 正面に謎のポールが…

 秋葉原駅から万世橋を渡ってすぐにある、JR神田万世橋ビル。その正面玄関前の広場に、謎の白いポールのようなものが建っています。ガラス張りのビル1階は天井が高くつくられていることがわかりますが、白いポールはそのガラスの高さくらいまであるものです。

 実はこれ、ポールではなく鉄道のレールを使ったオブジェで、高さにも意味があるとわかります。オブジェは、かつてここに存在し、高い台座の上から人々を見下ろすように立っていた「広瀬武夫中佐の銅像」の場所を示しています。


JR神田万世橋ビル前の謎のポール(斎藤雅道撮影)。

 広瀬武夫中佐とは、1904(明治37)年3月27日、日露戦争の第2回旅順口閉塞作戦で自らの危険を顧みず部下の命を案じ、助けにいき戦死した人物です。同地にあった銅像は、広瀬中佐と、その部下で、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行き共に戦死した杉野孫七兵曹長の勇気ある行動を称えるため、「広瀬武夫および杉野孫七銅像」という群像として1910年(明治43年)5月に建てられました。

 万世橋は、いまでこそ秋葉原駅と御茶ノ水駅の中間にある橋、との認識かもしれませんが、かつてはさいたま市の鉄道博物館に移転する前の交通博物館が、それ以前には、万世橋駅がありました。

 1912年(明治45)年に開業した万世橋駅は当時、新宿方面から都心へ延伸してきた中央本線のターミナル駅として計画されたため、鮮やかな2階建ての赤レンガ造りの駅舎で、新橋駅と並ぶ東京を代表する駅だったそうです。同駅開業と共に広瀬中佐の銅像は駅前広場に立つ目印となりました。

しかし駅は廃止 銅像も“受難”

 しかし、1919(大正8)年に、中央本線が東京駅まで延伸すると徐々に寂れ、1923(大正12)年に関東大震災で駅舎が焼失。さらに、近隣の秋葉原駅が1925(大正14)年に旅客営業を始めたため、再建には力が注がれず、簡素な駅舎となりました。

 1936(昭和11)年には、東京駅から鉄道博物館(後の交通博物館)が移転し、駅舎はさらに縮小、1943(昭和18)年には駅として役目も終え、休止駅に。その後駅舎は解体となりました。

 広瀬中佐の銅像はその後も同地にしばらく残りますが、敗戦後、GHQ民間情報教育局が「軍国的、超国家的イデオロギー像、記念碑の廃棄」を指示する覚書を交付します。これにリストアップされた広瀬中佐の銅像は審査委員会で「国民の戦意高揚を強調し、敵がい心をそそるものと考えられる」として戦犯銅像扱いとなり、1947(昭和22)年に撤去されました。ちなみに、この審査委員会では上野公園の西郷隆盛像も議題になっていましたが、美術的価値ありとして難を逃れています。


万世橋駅があった場所は現在mAAch(マーチ エキュート)という商業施設になっている(斎藤雅道撮影)。

 その前年に博物館が日本交通文化博物館の名で再開(2年後に交通博物館へ改称)していましたが、広瀬中佐像の撤去後、そのスペースは同博物館の屋外展示場に。2006(平成16)年に同博物館が閉鎖され、JR神田万世橋ビルとなり現在に至ります。正面玄関前の広場には広瀬中佐の銅像を示すオブジェ以外にも万世橋駅の歴史を示した写真のプレートが置かれています。