「国鉄復活」すべきなのか 「インフラは国で維持」の声多い令和時代 カギは国益にかなうか
JR北海道や四国に加え、コロナ禍を経て地方ローカル線を抱えるJR上場4社も厳しい経営を強いられています。するとしばしば聞かれるのが「JRの再国有化」です。国が面倒を見れば、この窮地を脱することができるのでしょうか。
コロナ禍でますます厳しい地方ローカル線
新型コロナの影響で、かつてない苦境に陥った鉄道事業者。コロナ禍前から厳しい状況にあったローカル線問題はさらに際立つことになり、既に経営危機に陥っていたJR北海道やJR四国だけでなく、JR東日本やJR西日本でもローカル線区の在り方を見直そうという動きが顕在化しました。
国鉄時代の三鷹電車区(1982年、伊藤真悟撮影)。
特に完全民営化を果たしたJR本州3社とJR九州は、公共交通を担う公的な存在でありながらも、株主価値の最大化を目指した経営が求められます。極端に利用の少ない「鉄道としての役割を終えた路線」に、巨額の資金を投じて維持し続けることはできないわけです。
とはいえ公共交通機関を収支採算性だけで語ることはできません。「廃線やむなし」といった動きに対し、ローカル線は国の重要なインフラであるとして、JRの再国有化を検討してはという声が一部で聞かれます。再国有化は可能なのでしょうか。
元も子もない話でいえば、JR上場4社の3月下旬時点の時価総額は計約7.6兆円、仮に30%のプレミアムを付けて買収するなら約10兆円が必要です。東日本大震災の復興予算に10年で約32兆円が費やされたように、必要であれば捻出できない額ではありませんが、株主が応じるはずもなく、政府が株式を全て手放した時点で再国有化は現実的には不可能です。
しかし「再国有化」を唱える人の真意は、JRの買収そのものが目的なのではなく、鉄道政策の視点を変えることにあるはずです。そもそも鉄道国有化の目的、メリットとは何だったのでしょうか。その精神から学べることはあるのでしょうか。
国有鉄道=採算度外視ではない!
日本の鉄道は1872(明治5)年に開業した官設鉄道、つまり国が建設・運営した国有鉄道に始まりますが、明治10〜30年代の路線建設は民間資本の私設鉄道が中心となって進められました。
鉄道が生み出す利益は多岐にわたり、運賃収入だけで事業を評価することはできません。鉄道の運行により鉄道の外に発生する利益(不利益)を専門用語で「外部性」といいます。たとえば新線が開業すれば周辺の地価が上がり、人口が増えれば消費が拡大しますが、鉄道を走らせているだけでは、この利益は鉄道事業者には入ってきません。
そこで私鉄は自ら沿線に住宅地を開発したり、ターミナルデパートを建設したりして、外部性を取り込もうとします。これが阪急や東急に代表される私鉄ビジネスモデルです。さらに視点を広げれば、地方自治体あるいは国のレベルで発生する、より大きな利益もあります。
ひとつ事例を挙げれば、地方都市の鉄道路線は路線単体だと赤字ですが、これを自動車で代替すれば大渋滞となり、多額の費用をかけて道路を拡幅、新設しなければなりません。鉄道の赤字が自治体のより大きな赤字を食い止めている構図ですが、鉄道事業者が倒れてしまっては元も子もありません。そこで近年は、自治体が中小私鉄に公的支援する例も増えています。
話を戻すと、明治ではまだ私鉄ビジネスモデルは登場していませんが、事業者と国の関係は同じです。加えて当時は日清・日露戦争で軍事輸送の重要性が高まっており、株主の意向や景気など短期的な利害に左右されがちな私鉄ではなく、国が俯瞰的・長期的視点から鉄道を整備・運営すべきとの考えが強くなりました。
そうして1906(明治39)年に鉄道国有法が成立し、国が私鉄の大部分を買収して鉄道国有化を達成しますが、国有鉄道と採算度外視は同義ではありません。鉄道は万人に開かれた公共財である道路などとは異なり、上下水道や公営病院などと同様、受益者と負担者の関係が明確であることから独立採算の公営企業として運営が可能です。
財政難でも設備投資… それがもたらした“恩恵”とは
あまり知られていませんが、戦前の国有鉄道も帝国鉄道会計法が定める鉄道会計に基づいた独立会計で運営されていました。戦後の「日本国有鉄道(国鉄)」についても毎年、政府から多額の補助金を受け取っていた印象がありますが、それは経営が行き詰った1980年代の話であり、元々は独立採算で新線建設および改良を行っていました。
鉄道建設公団は主として新線建設を担った(画像:写真AC)。
では独立採算の枠を守っていたら問題は起きなかったのでしょうか。国鉄は1964(昭和39)年に初めて赤字に転落した後も、幹線、通勤路線の輸送力増強など莫大な設備投資を継続し、これが財政悪化の原因となりました。
しかし、これらの投資がなかったら鉄道は斜陽産業となり、公共的な役割を果たせなくなっていたことでしょう。国鉄に様々な問題があったのは事実ですが、現代の私たちの生活の礎を築いたことは間違いありません。
先述の例では、国鉄の赤字より国全体の利益が大きければ差し引きプラスになるはずです。田中角栄は「国鉄が赤字であったとしても、国鉄は採算とは別に大きな使命を持っている」として、赤字ローカル線の廃止は赤字額以上の国家的損失につながると主張しました。
結果的に赤字路線を多々生み出した彼の業績については賛否が分かれますが、鉄道国有論としては筋の通った主張だったといえるでしょう。しかし彼の主導で設立した鉄道建設公団は新線建設を担うのみであり、政府や自治体も独立採算を口実に、国鉄へ十分な支援をしませんでした。単に国鉄を復活させるだけでは当時の二の舞となってしまうでしょう。
赤字路線は国が維持すべきか
では鉄道国有論の立場から現代を見て「赤字路線は国が維持すべき」でしょうか。個別の路線の評価には立ち入りませんが、突き詰めれば鉄道の生み出す赤字が地域にもたらす外部性を上回るかどうかという判断になります。ただ外部性の範囲を広げていくと「風が吹けば桶屋が儲かる」のように数値化が困難になるため、明確に数字で線を引けるものではないことも留意が必要です。
1943年に鉄道総局が発行した「鉄道旅客手小荷物運賃算出表」にある、普通運賃への通行税額(画像:国立国会図書館)。
もうひとつの問題は民営化に際して行われた「分割」です。それまで首都圏の通勤路線や新幹線の利益が地方をカバーする「内部補助」がありましたが、地域分割により東海道新幹線の生み出す巨額の利益が北海道や四国の赤字を埋めることはなくなりました。
厳密にいえば経営安定基金がその役割を担っているのですが、低金利の影響で十分に機能していません。しかし今更、新たな枠組みを創設し、上場済みの4社の利益から赤字を補填することは困難でしょう。
そうであれば国民に広く薄く「交通税」を課し、それを財源に地方ローカル線を補助する仕組みなども考えられますが、単なる赤字補填になってしまっては意味がありません。ローカル線が地域にとって必要であること、それにより地域が活性化すること、ひいては国民全体の利益につながることを示さなければ、鉄道利用者以外に負担を求めることなどできません。それこそが「鉄道国有論」の最大のハードルのように思います。