「超サッカー選手なのに実は野球経験者だったレジェンドたち」
野球世界一を決めるワールド・ベースボール・クラシックで見事に優勝を果たした侍ジャパン。
大谷翔平選手がマイク・トラウト選手を三振に斬ってとった優勝シーンは圧巻だった。
That was the most ELECTRIC ending we could have dreamt of! #WorldBaseballClassic pic.twitter.com/s1WIImh3eq
— World Baseball Classic (@WBCBaseball) March 22, 2023
ここでは、実は野球経験者だったサッカー選手たちをあらためて取り上げてみる。
ヨハン・クライフ
バロンドールを3度も受賞したサッカー史上に残る天才。
トータル・フットボールで世界を席巻したオランダ代表のエースだったスーパーレジェンドだ。
オランダは欧州では比較的野球が盛んな国。クライフは10歳でアヤックスのアカデミーに入ると、5年ほどは野球のほうを好んでいたとされている。ポジションは、なんとピッチャーとキャッチャーの二刀流!
後年、「野球から多くを学んだし、フットボールにも応用した。野球では予測をしなければならないからね。一歩先んじることを学んだのさ」と語っていたとかいないとか。
ヨハン・ニースケンス
あのペレが選んだ『偉大な100人』にも名を連ねたオランダのレジェンド。
アヤックスとバルセロナ、そしてオランダ代表でクライフとともにプレーした彼もまた野球経験者だ。
『Baseball in Europe』という書籍が英紙『Guardian』からの情報としてこう伝えている。
「ニースケンスは野球のオランダユース代表の一員だった。
1960年代にローマで行われた欧州ユース野球大会では『最高の打者』に選ばれた」
野球選手のほうがより成功したかもしれないとも言われるほどの才能があったようだ。
ハビエル・アギーレ
2014年W杯後から翌年2月まで日本代表監督を指揮したメキシコ人監督。現役時代はメキシコ代表として1986年のW杯に出場した経験を持つ。
『EL PAÍS』のインタビューで野球についてこう語っている。
「自宅の近くに野球場があったんだ。メキシコでは、アメリカ文化の影響がかなりあるからね。子供の頃はバットを持って道端や育った近くの小さな球場でプレーしていたよ」
その後、用具や場所を問わないサッカーを選んだようだが、野球以上に騙す要素があった(自分には向いていた?)とも述べている。
なんでもメキシコにも比較的近い、MLBオークランド・アスレチックスを応援していたとか。
トニー・メオラ
元アメリカ代表の守護神。1990、1994、2002年とW杯3大会に出場したレジェンドだ。
父親はイタリアからの移民で、祖国ではサッカー選手としてプレーしていた。その父からサッカーを教わったというメオラだが、高校時代はバスケと野球でも大活躍。
185cmと決して大柄ではなかったが、MLBニューヨーク・ヤンキースからドラフト指名されるほどのズバ抜けた運動能力を持っていた。
ただ、大学進学を希望したために入団はならず。それでもバージニア大学では野球を4年間プレーした。
3年間はセンター、1年間はキャッチャーとして活躍し、最終学年では打率.455、HR8本、打点36をマーク。強肩でもあったらしく、当時のコーチは「州でも最高の野手だった」と絶賛している。
GPAで3.4を記録するなど学業のほうでも優秀だったほか、NFLニューヨーク・ジェッツのキッカーになろうとしたこともあったそう。本当にスポーツ万能だったようだ。
MLBで活躍したイタリア系選手といえば、今WBCでイタリア代表監督として侍ジャパンと対戦したマイク・ピアッツァらが有名であるが、もしかしたらメオラも彼のようになっていたかも?
フランク・ボルギ
元アメリカ代表GK。1950年W杯で起きた『サッカー史上最大の番狂わせ』に貢献した守護神。
グループステージ第2戦でイングランドと激突した当時のアメリカはプロ選手が一人もいないアマチュア集団だった。
一方のイングランドは全員プロの優勝候補筆頭だったのだが、0-1で勝ったのはアメリカ。この試合で相手のシュートを止めまくったのが、ボルギだった。
そんな彼はプロ野球選手になった後にサッカー選手へ転向した変わり種。
同僚だったウォルター・バーも「多くの人が彼の野球の才能について称賛していた」と語っている。ポジションはキャッチャーだったそう。
サッカー転向後は前線でプレーするフットワークがなかったことから、GKになることに決めたとのこと。
足元の技術はゴールキックも蹴らないほどだったというが、キャッチャー時代の経験がGKとしてのセーブに生かされたようだ。
2015年に89歳で亡くなっている。
最後は野球との関係がある日本のサッカー選手たちにも触れおこう。
まずは、セルティックで活躍する旗手怜央。
彼の父、浩二さんは名門として知られたPL学園の野球部出身で、1980年代に1学年後輩である清原和博・桑田真澄のKKコンビらとともに甲子園で活躍した高校球児だった。
PL野球部でキャプテンとコーチを務めた清水孝悦さんによれば、PLで見てきたなかで高一時点で一番守備がすごかったのはショートは浩二さんだとか。ずば抜けた強肩だったそう。
また、横浜F・マリノスの宮市亮も父親が社会人野球でプレーしたバリバリの元野球選手。宮市は昨年末に横浜DeNAベイスターズの山粼康晃投手、伊藤光選手と野球談議もしている。
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そして、かつて日本代表のエースFWとして活躍した柳沢敦さんも野球とのエピソードがある。
父親が大の野球好きだったそうで、本人も野球をするはずだったが、小学校4年からしか野球チームに入れなかったので、小学1年からチームに入れたサッカーをすることになったとか。
鹿島アントラーズの名スカウトが「(高校時代のすごさでは)今でもヤナギが一番」と唸るほどのサッカーセンスを誇った柳沢さんが野球少年になっていた可能性があったのは意外だ。