江戸幕府はなぜ260年間も続いたのか。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「徳川家康の存在は大きいだろう。織田信長や豊臣秀吉に比べれば、才能に秀でた人物とは思えない。だが、生涯を通して、飽くことなく勉強を続けることで、政権の基礎を確立した」という――。

※本稿は、本郷和人『「将軍」の日本史』(中公新書ラクレ)の第6章「江戸幕府はなぜ二六〇年続いたのか」の一部を再編集したものです。

徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(図版=大阪城天守閣/PD-Japan/Wikimedia Commons)

■「譜代大名は政治だけする」は本当か

譜代大名が政治を、外様大名には領地を、と振り分けることで、徳川家康は、家臣たちが強固な勢力を作る可能性を潰したわけですが、譜代大名のなかでも政治には一切関わらない者もいました。それが関東地方や東海地方の守りの要となる譜代大名たちでした。彼らは譜代大名ながら幕府の政治に関わらず、軍事・防衛を担うことになります。

江戸時代は二六〇年もの長きにわたり平和な時代が続いたので戦いはなく、軍事よりも政治が大事で、大名たちの役割は政治を執り仕切ることだった――私たちはそのように考えがちです。譜代大名が幕府の政治を行い、外様大名はそこに関わることができない。つまり譜代大名にとって重要なのは政治を行うことで、譜代大名のなかでも優秀な者が政治の中枢を担ったと考えがちです。

■井伊家は本来、政治より軍事を任されていた

この譜代大名の代表的な存在として、「徳川四天王」という呼び方があります。もともとそのような呼び方は存在しなかったのですが、おそらくその原型となったと考えられるのが、新井白石の『藩翰譜(はんかんぷ)』という書物です。

同書の譜代大名の紹介の部分で最初に記されているのが、酒井家、本多家、榊原家、井伊家の四家なのです。この四つの家を譜代大名のトップ、「武功の家」として描いており、おそらくこれが、徳川四天王のような呼び方になったのではないかと思われます。この四家は、酒井は庄内、井伊は彦根、また本多や榊原は姫路に置かれています。つまり、いずれも関東・東海地方を守り、外敵の侵入を迎え撃つ重要な軍事拠点に置かれているのです。

この事実を考えると、実は譜代大名にとっても、政治よりも軍事が上ということになるでしょう。有事の際には城に立てこもり、敵の攻撃を食い止めて、関東・東海地方に敵が侵入してくるのを防ぐ。そして、味方が援軍を出す時間を稼ぎながら、いざとなれば城を枕に討ち死にする。そのような軍事的行動を担う譜代大名のほうが、日本全国の政治を執り仕切った老中よりも上なのです。

ですから酒井、本多、榊原は原則として老中など政治の役職に就かず、幕府政治には関わりませんでした。井伊の場合は大老になっていますが、これは言うなれば名誉職のようなものです。幕末の頃の大老・井伊直弼だけが実際に権力を行使しましたが、これは例外的なことでした。

■なぜ家康は江戸を拠点としたのか

このように、家康は軍事的にさまざまな備えをしていることがよくわかります。つまり家康にとって、関東・東海地方を徳川の譜代大名で固め、江戸を攻められないようにすることが重要な課題だったわけです。関東を治め、東北を討伐するという意味を持つ「征夷大将軍」を家康が選んだのには、こういう理由もあるのかもしれません。

家康は信長、秀吉とは異なり、京都・大坂といった畿内には近づきませんでした。家康は三河に生まれ、幼少期に育ったのは、今川氏に人質として連れて行かれた駿府です。その後は岡崎に戻り、武田家との戦いに備えて浜松に入るなど、江戸に移るまでは東海地方を本拠としていました。その意味では、京都や大坂には馴染めなかったということもあるのかもしれません。

そうであるならば、もし家康が信長のように「三職推任」で、太政大臣、関白、征夷大将軍のなかから選ぶことになったとすれば、やはり征夷大将軍を選んだでしょう。このようにみてくると、家康が江戸を自分の政権の拠点として選んだ理由は、西や北の敵から守りやすかったからではないかと思えてきます。

家康は一六〇五年、征夷大将軍の職を秀忠に譲り、江戸を離れて駿府に移ります。江戸の秀忠、駿府の家康という二頭政治的体制を取りましたが、大御所として政治の実権を握り続けました。天下人は家康であり、そのまま江戸に残ってもおかしくないわけですから、逆に将軍の秀忠が駿府に移って駿府幕府となる可能性もあり得たかもしれません。けれどもその後も将軍が代々、江戸に居住したことで、江戸が徳川政権の根拠地として確立されることになります。

■織田信長、豊臣秀吉よりも優れているところとは

徳川家康という人物は、私の評価にすぎませんが、織田信長のような天才と比較すると、やはりそこまで才能に秀でていなかったと思います。あるいはアイデアマンの豊臣秀吉のような、天才的なひらめきというものもなかったかもしれない。しかしそれだからこそ、生涯を通して、飽くことなく勉強を続けた人物だったのです。私はそこが家康の優れているところだったと考えています。

家康は自分の足りないところを補うために、学者や学僧、あるいはヨーロッパ人からも学んでいます。儒学者の藤原惺窩(せいか)の講義を受け、彼の弟子の林羅山を家臣としました。また、僧侶の天海や金地院崇伝、ヨーロッパ人のヤン・ヨーステン(耶揚子)やウィリアム・アダムズ(三浦按針)らをブレーンとしました。

また、先述したように征夷大将軍と名乗っている点や、『吾妻鏡』の収集といったエピソードを考えると、彼はよく歴史を学び、参考にして、熟慮しながら自分の行動を正していったのだろうと考えられます。

写真=iStock.com/SeanPavonePhoto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SeanPavonePhoto

■縁起を気にする家康が「江戸」を変えなかった理由

もうひとつ考えたいのは、家康が江戸を本拠にした際に、なぜ江戸という名前を変えなかったのかという点です。

若い頃の家康は岡崎から浜松へと拠点を移し、この浜松を長期にわたって本拠地としていました。武田信玄と対峙(たいじ)したのも、浜松城にいた頃です。

もともと浜松城は引馬(ひくま)城という名前でした。馬を引くという字面が、馬を連れて逃げるという意味ともとれることから、縁起が悪いと考えた家康は、周辺の地名である浜松という名前に改名させたという逸話があります。ちなみに、当時の武士が好んだ植物は、桜ではなく松でした。桜はすぐに散ってしまいますが、松は常緑でずっと続いていくという点が好まれたとされています。

それでは江戸の場合はどうか。家康は戦いに臨むとき、「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」という旗印を立てていました。これは帰依していた浄土宗に基づくもので、穢土、つまり汚れたこの世を嫌い、浄土を求めるという意味です。となると、「江戸」は穢土を連想させるわけですから、若い頃の家康であれば、引馬から浜松に改名させたように、江戸を改名させたのではないかと思うのです。

ところが、中年の家康はそうはしなかった。ここには学び続けた家康の精神性、メンタリティを見ることができるのではないでしょうか。

■無茶をせず、とても慎重に幕府を築いていった

基本的にこの世は穢土です。汚れたこと、悪いことに満ちている。そのなかで自分は浄土を追い求めるのだ、つまり「穢土のなかで浄土を求める」という意味で、江戸のままでもいいではないかと考えて、家康は改名しなかったのではないか。私はそのように想像しているのです。その意味で、江戸に本拠を置き、江戸幕府を作るというのは、思想的にも意味のあることだったと言えます。

本郷和人『「将軍」の日本史』(中公新書ラクレ)

家康は関ヶ原の戦い以降は、大きな波乱を生じさせないで政権を確立しようとしました。だから、島津家や上杉家、毛利家も潰しませんでした。豊臣秀頼に関しても関ヶ原の戦いから大坂の陣で滅びに追いやるまで一五年もかけています。信長のようにドラスティックに物事を進めると当然、反発も大きくなります。一方、家康は石橋を叩いて渡る、大変に慎重なタイプだと言えます。

天皇と朝廷に対しても、すでにこの当時、政治や軍事に口を出せるほどの実力が備わっていないわけですから、あえて大きな改変を加えなかった。そのままの関係を維持しながら、征夷大将軍という官職をただ任命させるための存在として付き合っていくことになります。

家康による江戸幕府の統治は、家康個人の精神的な成熟もあって、あまり無茶をせず、抑えるところは抑えながら現状を追認していくかたちで行われていったと考えられるでしょう。例えば、福島正則や加藤清正の子の忠広らを処罰したのは、家康の代ではなく、子の秀忠や孫の家光だったことからも、よくわかると言えます。

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本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所 教授
1960年、東京都生まれ。文学博士。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本史料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)、『「将軍」の日本史』(中公新書ラクレ)。監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。
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(東京大学史料編纂所 教授 本郷 和人)