「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解せぬ日本の欠点
ゴッホの「ひまわり」にトマトスープをかけた環境活動家(提供:Just Stop Oil/ロイター/アフロ)
10月14日、イギリス・ロンドンの美術館で環境活動家が、ゴッホの代表作「ひまわり」にトマトスープをかけるという事件が起こりました。「エコテロリズム」という批判がある一方で、「当事者の抱える困難を想像し、『学ぶ力』が日本には欠けている」と指摘するのが、経済思想家で東京大学大学院准教授の斎藤幸平氏です。いったい、どういうことなのか。自身の学びの過程を描いた新刊『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』を上梓した斎藤氏が解説します。
「礼節のない人たちですねえ。主張があるなら訴える方法はいくらでもあるのに、すぐ直接行動に出る。精神の「浅さ」を感じさせます」
2人の若者たちは、ロンドン・ナショナル・ギャラリーに展示されているゴッホの名作「ひまわり」に近づくと、作品にトマトスープをかけ、自らの手を接着剤で壁に貼り付けた。彼らは「ジャスト・ストップ・オイル(とにかく石油を止めろ)」という団体の環境活動家で、気候変動対策が進まないことへの抗議活動として、トマトスープをかけたのだ。
この事件は日本でも大きな注目を浴びたので、ご存じの人も多いはずだ。120億円以上するゴッホの代表作を傷付けるような行為に衝撃が走り、SNSでは圧倒的な非難の声があがった。「エコテロリズム」と呼ぶ識者もいたほどである。
日本でもあった「モナ・リザ」にスプレー事件
今回の事件で私が思い浮かべたのは、1974年4月に東京国立博物館で、米津知子があの「モナ・リザ」にスプレーをかけた事件であった。
この騒動については、荒井裕樹著『凛として灯る』(現代書館)に詳しいが、米津は、混雑を理由に障害者(ならびに子連れ)の入場が制限されたことに抗議するため、フランス政府から貸し出されていた歴史的名作にスプレーをかけたのだ。
なぜなら、彼女自身が、障害がある当事者だったから。博物館での障害者排除は、彼女自身の尊厳の問題であり、人間の尊厳の問題だったのだ。もちろん、米津は即座に逮捕され、メディアを賑わすことになる。
実は、冒頭で引用した発言は、今回のゴッホの一件についてのものではない。米津の行為に対して、当時の神奈川県立美術館館長・土方定一が新聞へ寄せたコメントである。だが、これを今回のゴッホの事件についての発言と読んでもまったく違和感がないことに驚くだろう。
逆を言えば、それくらい日本社会の価値観は、この半世紀でまったく変わっていないのである。
一方、イギリスでの事件の受け止められ方は大きく異なっている。世論調査では、なんと66%もの人が今回のような非暴力の直接行動に理解を示している(The Guardian『Huge UK public support for direct action to protect environment - poll』)。もちろん、イギリス人にとっても、一連の抗議活動は、自分の常識からかけ離れた行動に違いない。けれども、抗議活動に対する反応は、日本とイギリスで大きく異なっている。この違いを生むのが、日本に蔓延する「想像力欠乏」状態である。
そもそも、米津や環境活動家は「礼節のない人」で、「精神の『浅さ』」ゆえに、「すぐ直接行動に」出たのだろうか。
実は、SNS上で今回の事件の張本人が語っているように、彼女らはすでにデモも、署名も、政治家への嘆願も、何年間も地道に行ってきた。けれども、二酸化炭素の排出量は減っていない。今後、もし各国が現在掲げる温室効果ガス排出削減目標が達成できたとしても、今世紀末までの気温上昇は2.6度になるという。これは、科学者たちが警告する1.5度という数字を大きく上回ってしまう(そして目標が達成される保証ももちろんない)。
要するに、今までのやり方では、まったくもって不十分なのだ。にもかかわらず、私たちの大半は気候危機について気にせずに普段どおりの暮らしをしている。みんなが、もっと真剣に、この危機にどう対処すべきかを考えなければならないのに。そんな状況での苦肉の策が今回の行為というわけだ。もちろん、作品本体に傷がつかないことは知っていたという。
若者たちの問いはこうだ。地球と「ひまわり」、どちらが美しいのか。そんなもの比べる対象でないといいたくなるかもしれない。だが、この広大な宇宙で唯一、これほど多くの生命体が存在している地球のほうが美しいと、ジャスト・ストップ・オイルの若者は考える。その地球を守るべきときになにもせず、資本主義社会はたった1枚の絵画に120億円という何人もの命や環境改善をできるバカみたいな価格をつけて、崇めている。
日本に欠けている「学ぶ力」
イギリス人はこのばかばかしさを目下、痛感している。戦争に起因するインフレのせいで、トマトスープを温めるための電気代も払えない人たちがイギリスにはいる。ジャスト・ストップ・オイルは、自分たちの個人的な願望を要求しているのではなく、多くの弱い、声を上げられない人たちに代わって、自らをリスクにさらす行為に出たのだ。
だからこそ、この格差も環境破壊も放置し、弱者へツケを回す社会への怒りや将来への不安を、多くのイギリス人は共有し、支持したのである。
それでも、やはり7割近くが理解を示すという数字は驚きだろう。『人新世の「資本論」』(集英社新書)の末尾で、私は、3.5%の人々による非暴力の直接行動が社会を変えると書いた。ジャスト・ストップ・オイルの抗議活動は3.5%につながりうるものだ。
だが、ここで重要なのは、3.5%による「常識破り」の抗議活動が大きな力を持つのは、社会のマジョリティーが、その一見すると「メチャクチャな」訴えかけに耳を傾け、支持するときだということである。
そのためには、私たちマジョリティーも、当事者の抱える困難を想像し、「学ぶ力」を日ごろから醸成しておく必要がある。ところが、そのような「学ぶ力」が、日本には欠けている。
例えば、辺野古で何年も座り込みを続ける高齢の方がいても、私たちはまったくの無関心状態で暮らしている。別に、毎日気にしろといいたいわけではない。けれども、SNSでの「座り込みは24時間やってないと座り込みじゃありません」という投稿に、何十万もの「いいね」がついて、当事者の声を本土のマジョリティーが一瞬で吹き飛ばしてしまった。これも、本当に立場が弱い人たち、その人たちのささやかな頑張りや、普段の苦痛を考えることができない想像力欠乏状態が蔓延しているからである。
だから、『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』(KADOKAWA)で、私はマジョリティーの「学び直し」「学び捨て」の重要性を強調した。それは、最近、流行っている「ファスト教養」のような学びではもちろんない。
学びとは、自分が抑圧や搾取に加担し、苦しみを生んでいる責任があるということを認め、そのことへの告発や抗議に真摯に耳を傾けることだ。そして、自分が変わらなければならない。まさに、今回のジャスト・ストップ・オイルの抗議活動を前にしたイギリス人たちの反応が、「学び捨て」の一例である。
日本はマジョリティーが学ぶことをやめている
だが、日本にそのような経験は少ない。マジョリティーは学ぶことをやめている。そして、そのことが声を上げることへの負荷を高め、「沈黙する社会」を作り出している。だから、声を上げる際にも、社会運動の訴えはできるだけ対立を避け、マジョリティーの気分を害さないものにあらかじめトーンダウンしてしまっている。
これは、既得権益を手放したくないマジョリティーには都合がいい。切り取られたダイバーシティーやSDGs、エシカルのような言葉が「アヘン」として蔓延しているのは偶然ではないのだ。マジョリティーが自らの地位に安住しながら、「弱者」に対する理解があるフリができる最善の手段なのである。
とはいえ、私たちだって、つねに踏みつける側に安住していられるわけではない。例えば、日本国内では外国人に差別的であっても傷つくことなく暮らしていけるが、諸外国で自分がアジア人差別にあうこともあるだろう。また、今は健康な青年・壮年でも年齢を重ねれば身体機能が弱るし、何等かのきっかけで財産を失い明日の生活に不安を抱えるかもしれない。そのときに、気がつくはずだ。弱い立場に転じれば、自分も声を上げることもできず、苦しむということに。
それに、ひどい現実から目をそらすツケはあまりにも大きい。気候危機対策は進まない。格差や低賃金労働は放置される。人権や差別問題は蔑ろにされる。そうやってごく一部の既得権益が温存されるだけなので、イノベーションは起きにくい。
世界では大きな転換が起き、その動きは今後Z世代が社会の担い手になるなかで加速していく。大変革の動きから取り残されれば、もはや日本は先進国とはいえなくなる。いま国内で多少マジョリティーとして安心した生活をしていたとしても、このままでは、その生活の維持すら危うい。
ここまでの話を、私というマジョリティーによる上から目線に感じたら申し訳ない。実際には、私だって想像力がまだまだ全然足りないのだ。そのことを痛感する出来事があったので、懺悔的に記しておきたい。
今月6日の日曜日にエジプトで開幕したのが、気候変動対策について世界の首脳級が集まる重要な国際会議、COP27だ。京都議定書やパリ協定も、このCOPで締結されている。また、近年では、スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリを中心に若者たちが声を上げる抗議活動も、COPで盛り上がりを見せている。
「気候正義」という考え方
今回も、日本から10代から20代の若者たちのグループ「Fridays For Future Japan」がCOPに参加するために、クラウドファンディングを実施した。私は彼らの掲げる「気候正義」の理念に賛同して、応援のコメントを寄せ、自分でもお金を出して支援した。
「気候正義」という考えは、気候変動問題に取り組む際に、最も被害を受けてきた人たちに適切な補償や賠償を行いつつ、彼らがさらなる不利益を被らないように対策を行おうというものである。
例えば、先進国が電気自動車や蓄電池を作るために、南米やアフリカのリチウムやコバルトの資源を独占したり、富裕層に有利な環境助成金を出したりことは、経済的観点からは「効率的」だとしても、気候正義の観点からは問題含みである。なぜなら、これまでさまざまな被害を受けてきた途上国や国内の社会的弱者の苦しみを学び、共に考えることが不可欠だからである。
さて、「気候正義」という観点からすると、多くが未成年でまだ選挙権がなく、政治の意思決定にかかわれないが、今後気候変動の影響を大いに受ける日本の若者たちも「弱者」である。だから、私は彼らと連帯したいと思った。
だが、弱者は、身近な付き合いのある若者たちだけではない。私はエジプトで暮らす、ずっと厳しい状況に置かれている人々のことをもっと考えるべきだったのだ。
エジプトでも2011年に起きた「アラブの春」で、30年間続いたムバラク政権は崩壊した。だが、その後、他の国々と同じように、エジプトの民主化革命は敗北し、軍事独裁政権が復活してしまう。現在のシシ政権のもとで、人々の言論の自由は奪われており、民主化運動を求める活動家たちで拘束されたのは、約6万人にものぼるという。
その1人がイギリス国籍を持つエジプト人のアラー・アブデル・ファタハ氏である。Facebookで人権侵害についての投稿を理由に投獄されて以来、拷問を受けるような非人道的な環境に、もう10年近く置かれている。
アラーはそれでも諦めず、人権侵害に抗議して、100キロカロリー以下の液体を摂取するだけのハンストを、もう200日以上にわたって行っている。それどころか、今回のCOPに合わせて、ゼロカロリーでのハンストを始めており、最悪の場合COPの開催中にも餓死してしまうかもしれない。まさに命がけの抗議を今この瞬間に、たった1人で行っているのだ。
気候正義を掲げるなら、私たちは、アラーと連帯しなければならない。なぜなら、民主主義がなく、人権がない世界で、気候正義などありえないからだ。けれども、日本の若者がCOPに参加するのを応援したとき、私はアラーたちの苦しみを想像することができていなかった。そのことがアラーや他の活動家の命を奪ってしまうことになるにもかかわらず。
人権問題を無視して「地球の未来」を語る空虚
今回のCOPでは、現地での報道や抗議活動に、政府による厳しい制限がかかっている。アラーの解放や軍事政権批判を公の場で唱えるようなことがあれば、公安警察によって逮捕される可能性もある。だから、先進国から飛行機に乗ってやってきたメディアや環境団体はそのような「危険」を前に尻込みし、人権問題を無視して、「地球の未来」「持続可能な世界」を語っている。だが、それは空虚である。
その姿を民主主義のない国で暮らす多くの人々はどのように見るだろうか。気候変動は「意識の高い」裕福な人々の問題で、自分たちは見捨てられているとますます感じるに違いない。
さらに、エジプト政府を批判しない環境運動は、気候変動に取り組む政府としてのお墨付きを、結果的にシシ政権に与えることになる。気候正義を掲げる先進国の環境団体が軍事政権のみせかけの環境対策に加担するという残酷さは、筆舌に尽くしがたいものがある。
例年どおり、環境団体やメディアはCOPで発表される各国の削減目標の数字に一喜一憂し、合意到達を一定成果と評して終わるのだろう。だが、そのような協定や条約、目標などに踊らされても、現実は何も変わらない。
別に絵にトマトスープをかけても直接的には気候変動は止まらないと私も思う。けれども、私と同じようにドイツでヘーゲルを学んだ土方定一がいくら優秀な美術史家であったとしても、米津知子や障碍者へ思いを馳せることなく冒頭の冷笑的な言葉を吐いたような、マジョリティーの優位に安住する人間にはなりたくない。
気候正義の理念にのっとった選択肢は「ボイコット」
結局、気候正義の理念にのっとった選択肢は、アラーたちと連帯してCOP27をボイコットし、大失敗させることだったはずである。だが、そうはならなかった。それほど、想像力欠乏状態の根は深い。
必要なのは、学び続け、間違っていたら訂正すること。だから、アラーの苦しみを知った今、私はアラーたちのために必死に声を上げたい。
それでもまだ、そんな遠い国のことはその国で解決すればいい、国際社会より自分たちの身の回りを、という人たちも少なくないかもしれない。
しかし、身近なところでも、ウクライナの戦争で小麦や化石燃料が値上がりし、インフレが経済的弱者を襲っている。私たちの生活は国際社会と切り離して考えることはできない、ということを、私たちはすでに身をもって体験しているはずだ。
学ばない社会の代償は、これからの気候危機の時代、日本でももっと大きなものになるに違いない。(文中敬称略)
(斎藤 幸平 : 東京大学大学院准教授)