昨年は54歳にしてステップ・アップ・ツアーにも出場(撮影:上山敬太)

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歳月が流れても、語り継がれる戦いがある。役者や舞台、筋書きはもちろんのこと、芝や空の色、風の音に至るまで鮮やかな記憶。かたずをのんで見守る人々の息づかいや、その後の喝采まで含めた名勝負の数々の舞台裏が、関わった人の証言で、よみがえる。
女子ツアーでは、20歳の岩井千怜の活躍で『初優勝から2週連続優勝』という記録がクローズアップされている。「初優勝よりも難しい」と言われる2勝目を、1988年にツアー制施行後初めて手にしたのは、西田智恵子(当時。現在の登録名は智慧子)だ。その西田が明かした当時の記憶は、新人ならではの破天荒なものに満ちていた。
「私、今週も優勝しちゃうかも」。2週連続優勝がかかった1990年「富士通レディス」最終日。スタート前に、西田は同期の友人、前田すず子(当時。現在は真希)に電話でそう言って高らかに笑ったことを覚えている。まさかの優勝宣言。プロ2年目、前週初めて優勝したばかりのプロとは思えない大胆な行動だが、本人にその自覚はまったくなかった。
場所は富士通レディス開催コースである浜野ゴルフクラブ(千葉県)のクラブハウス。「(2階レストランに上がる)階段の下に電話ボックスがあったんです。練習場に行ってパターもやって、全部準備できたのに、スタートまではまだ時間がある。やることなくなっちゃったな〜と思って前田に電話したんです。前の日にすごく調子が良かったからかな」。そんな何気ない行動だった。
携帯電話などまだ普及していない時代のこと。公衆電話出かけた先は、前田が所属していた矢板CC(栃木県)だった。電話を受けた側ものんびりしたもの。「『勝っちゃえば』とか言われた気がします」と、2人は先輩プロたちが聞いたら目をむきそうな会話をのんびりとかわしていた。
数時間後。西田は、言葉通りに初優勝の翌週も勝つというとんでもないことをやってのけた。驚くべきニューヒロインの誕生だったが、それでもまだ本人にはピンと来ていなかった。
前週の宝インビテーショナルで、西田はツアー初優勝を飾っている。高校卒業後、実業団で2年間、ソフトボールをプレーした後、研修生として入った葛城GC(静岡県)で初めてクラブを握った。約2年でプロテストに合格したのが、1989年春(当時、プロテストは年2回)のこと。ソフトボール経験を生かした飛距離を武器に、時折、上位に入る西田には、注目が集まりつつあった。
本人はまったくそんなことを考えてもいないまま、プレーを続けていた。ツアーには、QTどころか年間を通した予選会もまだない。月例競技(指定された試合でのラウンドがその振替になることもあるの順位で出場権が与えられ、スポンサー推薦も試合数に限度がない時代。初優勝した宝インビテーショナルと翌週の富士通には、スポンサー推薦で出場が決まっていた。
優勝すれば当然、注目度はさらに上がる。だが、情報量が今ほどないため、西田はそれすらも考えていなかった。富士通練習日のエピソードが、それを顕著に表している。
「(東海クラシックで先に優勝していた)柴田(規久子)と練習ラウンドに行こうとしたら、記者とカメラマンの人に言われたんです。『練習ラウンドついて行かせてください』って。あの頃、練習日にメディアの人が来ることもあまりなかったし、びっくりして『何でですか』って聞いたのを覚えています。柴田に『優勝したからだよ』って言われて『あ、そっかそっか』と思ったくらい」というから驚くばかりだ。
メディア側から見れば、西田は紛れもない旬の選手。飛距離のある大型プレーヤーで、練習ラウンドで連続写真を撮って専門誌が特集するのは当然の流れだった。だが、知らないということはある意味強い。だから、2週連続優勝の重圧もまったくなかった。
引き続き好調で、初日は3アンダー69でプレー。山崎千佳代と並んでト阿玉に1打差2位タイ。2日目はト、山崎とプレーした。「距離的に千佳代さんのプレーを見ながら、同じ方向に打って行った気がします」と、2日目も2つスコアを伸ばしてトータル4アンダー。山崎、具玉姫に1打差3位タイで最終日を迎えた。
「ショットが曲がらないしグリーンも自分のタッチに合っていた。ラインさえ読めれば入る感じて調子が良かったから(前田に)電話したんだと思います。緊張感もあまりなくて」と22年前を思い出しながら笑う。
最終日も優勝争いの重圧とは無縁でプレーを続け、トータル7アンダーで最終18番パー5を迎えた。「(第3打は)残り100ヤードだけど、ピンは池を越えてすぐのところに立っている。ボードを見てトップだったから『さすがに池に入れたらアウトだな』と思って(グリーンの)真ん中に乗ればいいと思って打ったら、奥まで行っちゃって3パットボギー。18番はロングだから、バーディ獲ってくるだろうな。やっちゃったかな」と、勝てなかったと思って帰る準備をした。それを見ていた当時の二瓶綾子会長が言った。「ここで何もしないで待っていなさい」と。結局、後続も西田をとらえられず、米ツアーからの招待選手、エミー・ベンツ、ト、具、高須愛子らそうそうたるメンバーに2打差をつけて優勝した。
ツアー史上初の偉業を成し遂げたが、それでも状況がわかっていないことに変わりはなかった。その証拠が、3週連続優勝の記録がかかる翌週のベンホーガン&五木クラシック欠場だ。信じられない行為だが、そんなことも考えていなかった。
シード選手としてシーズンに入ったわけではないから、元々試合の予定がなかった週には、すでに予定を入れていたから、というのがその理由。宝インビテーショナルで初優勝した時に「これから全部出られますよ、って言われたのかもしれないけどあまり聞いてなかった。それに、先に人と約束していたらそれは守らなくちゃいけないと思ってたんです。優先順位がその頃はそこにあった」と苦笑する。
初の大記録は、何とも無欲な22歳だからこそ達成され、3週連続には挑戦すらしなかったという何とももったいない話も、無欲でツアーについてよくわかっていなかったからこそだろう。(文・小川淳子)
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