50代でわかった豊かに生きるヒント。「できなくなる」ことを受け入れるためには
若い頃には気づかなかったけれど、年齢を重ねることで「そういうことだったのか!」と、「はたとわかる」ことはたくさんあります。そんな内容を綴った編集者・ライターの一田憲子さんのエッセイ『もっと早く言ってよ。50代の私から20代の私に伝えたいこと』は、若い人だけではなくESSE読者世代も共感できるお話が満載。ここでは、一田さんが年を重ねて気づいた、これからの人生を豊かにするヒントをご紹介します。
「何かができなくなる」という体験は、新たな幸せを構築するチャンス
「歳をとることって怖い」と考えていた、20代の一田さん。50代の今、当時の自分に伝えたいのは「年をとり『何かができなくなる』という体験は、新たな幸せネットワークを構築するチャンスだよ」ということだそうです。詳しく語っていただきました。
●「老い」はあっという間にやってくる
できればいつまでも若々しくいたい。老いていくのって怖い。そう思っていませんか?
でもね「老いる」なんてず〜っと先のことと思っているけれど、あっという間にすぐそこにやってくるものなんだよ。私はそれを両親のプチ介護で思い知りました。
昨年、母が肩に人工関節を入れる手術を受けて1か月入院。私は90歳の父のご飯を作るために、東京と関西の実家を行ったり来たりしたんだよね。今まで、仕事で関西を訪れる時や年末年始に帰ったりはしていたけれど、初めて1か月、べったりと父と一緒に暮らして、ああこんなにも老いたのかと愕然としました。
ベッドから「よっこいしょ」と起き上がる姿。すぐにソファに横になって眠ってしまう姿。ご飯を作ってもそんなにたくさんは食べられず「おいしいんだけど、お腹いっぱいや」と笑う姿。
●苦しいのは、「老い」に抗っているから
90歳という年齢は知ってはいたけれど、その実態がこういうものなんだと毎日目にすると胸が押しつぶされるような思いで、苦しかったなあ。やっと母が退院して、自宅に帰ってからも、「今頃ふたりでどうやって暮らしているのかなあ」と心配でたまらず、私自身の体調まで悪くなるほど。
そんな中でわかってきたことがあります。私がこれほどまでに苦しいのは、「老い」に抗っているからなんだって。老いてほしくない。死に向かってほしくない。いつまでもいてほしい。じたばたした挙げ句にやっとたどり着いたのは、「両親の老いを受け入れよう」っていうことだったんだよね。できなくなることが増えていっても、それは仕方がない。老いるって当たり前の営みだって…。
●人生後半は自分のネットワークを組み替える
そして両親の「老い」の姿は、そのまま私のこれからの姿でもあったんだよね。私もいずれ思うように動けなくなり、日常生活さえままならなくなるかもしれない。そんな経過に抗うことはできず、ただただ受け入れるしかない。今までも頭では理解していたけれど、やっと「自分のこと」としてリアルに実感できた気がします。
私たちの脳は新しいことを知ると、既存のネットワークが組み替えを行い、新しい脳内ネットワークを作り続けると何かの本で読んだことがあります。若い頃は自分のネットワークに「老い」とか「死」って存在しないよね。でも、人生後半になると組み込まざると得なくなります。そうすると、「仕事って何?」「夢って何?」「幸せって何?」という今までのネットワークを組み替える必要が出てくるってわけ。
●何かができなくなっても、ハッピーにご機嫌に生きていきたい
これって、人間のとてもよくできたメカニズムだなあって思うんだよね。若い頃は、いろんな新しいことを知って、もっともっとと成長し、上り続けようとするよね。それは私たちの可能性を広げ、未知の扉を開ける大きな力となります。
でも、人生後半に差しかかった時、どこかで足を踏み替えなくちゃいけなくなる。それが「何かができなくなる」という体験なのだと思います。成長=「何かができるようになる」ように頑張ってきたのに、人生のエスカレーターが逆に動き始めた時、「あ〜あ」と失望するのではなく、ハッピーに、ご機嫌に生きていけたらいいなあと思うんだよね。
両親の「老い」は、私にその練習をすることを教えてくれたのだと思っています。ふたりは最近、近所のスーパーに握り寿司の詰め合わせを買いに行くのを楽しみにしています。夕方タイムセールになって、半額になっていたらすかさずゲット。そして、家でお味噌汁だけ作って「おいしいの〜」「得したね〜」とニコニコしながら食べる。
高度経済成長期を走り抜け、2人の娘を育て、最後にたどり着いた両親の幸せのささやかさが、私たちに教えてくれるものは大きいなあと感じるこの頃です。
シアワセは「ささやかさ」を感じることで生まれる
●何と何がそろったらシアワセになれるの?
シアワセになるためには、どうしたらいいんだろうって考えませんか? 何と何がそろったらシアワセになれるんだろうって…。
最近ね、私は年老いた両親の姿からひとつのヒントをもらいました。私がものごとを悪い方へ悪い方へと考えるペシミストになったのは、母に似たからです。体調が悪くて落ち込みがちな母。病院に行って治療をしてもらったり、薬をもらってちょっとはマシになったとしても、「また具合が悪くなったらどうしよう」と絶えず心配しています。
それに対して付き添いの父はいたって能天気。「いい先生に診てもらえてよかったな〜」とか「帰ってきたら、しゃんと歩けていて素晴らしい!」と、ひとりでニコニコしています。
そんな正反対のふたりの話を聞きながら、自分と同じようにくよくよと考える母の様子に、「それって、ソンじゃない?」と思ったんだよね〜。同じことをいい方へいい方へと捉える父の方がずっと楽しそう。
●シアワセは手に入れるものじゃなく、感じるもの
現実という土台の上に、ポジティブという花とネガティブという落とし穴があったとしたら、落とし穴の手前で怖がって立ち止まったままよりも、ポジティブの花だけを摘んで集めればいいんじゃない? そう考えるようになりました。
人って、「手に入らないもの」を手に入れられることができたなら、シアワセになれると考えがちじゃない? ここじゃないどこかにシアワセがあって、努力したり、頑張ってようやく手に入れる…。そんなイメージ。
でも、同じ現実の中にいるのに、父はいい先生に診てもらえたことや、昨日より今日の方が体調がちょっとマシになったことを「お〜、よかったなあ〜」と言い、母はまだこない未来を心配し不安がる…。
そんなふたりの姿を見ていて、父は何かを手に入れなくても、「今この時」の中にちゃんとシアワセを見つけているんだと知ったんです。つまりシアワセって、手に入れるものじゃなく、感じるものなんだね。
たとえ細切れでも、ポジティブとポジティブを足し算していけば、人生の中でのかなりの時間を占めるはず。もし、明日イヤなことがあったとしても、前日から「イヤな気分」を味わう練習なんてしなくていい。ギリギリまで、ヒャッホ〜! と楽しんじゃえばいいんじゃない? と思ったんだよね。
●大切なのは、今ここにある喜びを笑って受け取ること
私は若い頃からギラギラした向上心の持ち主だったので、「いい仕事をしよう!」「いいライターになろう!」と一生懸命でした。だから、仕事が最優先で、遊びも習い事も「余裕があったら」と後回しにしてきたんだよね。当時追い求めていたシアワセは、「仕事で成功する」というビッグなものだったと思います。
でも…。先日、大学の後輩が手作りのマーマレードを送ってくれました。彼女は仕事をしながらも多趣味で、最近柑橘ソムリエの資格を取り、世界マーマレード大会に参加するための試作を送ってくれたのだとか。わあ、楽しそうだなあ〜とうらやましくなりました。
そしてふと、シアワセって何かを成し遂げなくても、おいしいマーマレードを作るだけでいいのかも…って思ったんです。あのポジティブの花の足し算のように暮らしの中で、朝起きてカーテンを開けて空を見上げたり、昼間においしいスープを作ってランチにしたり、夫とテレビを見ながらゲラゲラ笑ったり。シアワセって、そんなささやかな足し算なのかも。
大切なのは、そんな「小ささ」「ささやかさ」を感じることができるかどうかなんだよ。ビッグな夢が叶わないとシアワセじゃない、そんな「どこか」にある不確定なものに翻弄されていたら、シアワセになりそこねちゃう。今ここにある喜びを、ワハハ〜と笑って受け取れる毎日を送りたいなあと思っています。