53歳にして、異業種への転身をとげた元NHKアナウンサーの内多勝康さん(写真提供:新潮社)

誰もが羨む大手企業に入社し、仕事は多忙ながらも充実感があった。愚痴を言い合う仲間にも恵まれた。そのまま定年まで働く予定だった。しかし、年齢を重ねていくにつれ、自分のポジションも変わってくる。やりがいなのか、安定なのか。このまま自分は粛々と定年まで働き続けてもいいのだろうか。もしくは違う道へ進むべきか――。

今回ご紹介するのは、元NHKアナウンサーの内多勝康さん(59)。内多さんは、NHKの看板アナとして活躍した後、53歳でまったくの異業種に転職した人物だ。NHKでは「クローズアップ現代」の代理キャスターをはじめ、さまざまな番組に出演。スポットライトを浴びて、華やかなステージに立っていた内多さんが、53歳にして転職をしたのはなぜか。そして、飛び込んだ先で待ち受けていた現実とは――。

アナウンサーからの転職

内多さんは、東大を卒業後、NHKのアナウンサーとして入局。内多さんの子どもの頃の夢は、「一生懸命勉強して、いい大学に入って、絶対潰れないような安定した会社に入る。結婚して子どもを3人持って、家を買って、安定した生活を送ること」だった。子どもにしては、一見地味な夢に見えるかもしれないが、「子どもの頃は貧乏だった」と語る内多さん。誰よりも安定を望み、定年までひとつの会社で働くことを疑わなかったという。

内多さんの初任地は高松からスタート。その後、大阪、名古屋、東京と転勤しながら着実に実力も上げていった。内多さんが担当した番組は、「生活ほっとモーニング」といったソフトな生活情報番組から、「首都圏ネットワーク」や「首都圏ニュース845」など硬めのニュース番組まで幅広い。また、単に原稿を読むだけにとどまらず、自ら企画提案し、積極的に取材現場にも足を運んだ。それが功を奏したのか、後にNHK内でもステータスが高いとされる「クローズアップ現代」の代行キャスターをすることにも繋がった。

20代、30代とキャリアを重ね、どんどん脂が乗っていく。40代中盤で、名古屋局に異動。ここで初めての単身赴任を経験する。もともと話好きな内多さんは、「一人で生活するよりも、家族と一緒に暮らしたい」というタイプ。多少、無理難題と感じる仕事にも全力で取り組んで、次の異動を迎えるまでの数年間、ひたすらに職務を全うした。

しかし転勤のタイミングである3年が過ぎても異動の内示は出なかった。「正直、ふてくされた」という。そこで、気持ちを切り替えた先が、資格の勉強だった。

「社会福祉士の資格を取ろうと思いました。取材を通して障がい福祉に興味を持っていたんです」

もちろん、NHKを退職するつもりなど毛頭ない。ただ、定年後は放送業界から身を引いて「福祉のおじさん」として働くのもいいかな、と漠然と思ったそうだ。仕事のスケジュールを調整しながら、通信制の学校に2年通った。47歳で入学。社会福祉士の資格を取得したのは50歳を迎える春だった。

「外される」世代になってきた

2012年念願叶って東京へ異動。福祉の学校の後半1年は東京から学んだ。

しかし、東京で内多さんを待っていた番組は、「きょうの料理」だった。

NHKの看板番組のひとつだが、今も昔も料理をしないという内多さんが、エプロンをつけて台所のセットの前に立つことになったわけだ。「なぜ自分なのか?」と心の中でガッカリしながら、慣れない料理と格闘する日々だったという。


「クローズアップ現代」時代の内多さん(写真提供:内多さん)

内多さんの本来の希望は、障がい福祉のテーマをはじめ、自ら企画立案をし、取材をすることだ。しかし、「きょうの料理」では残念ながらその希望は断たれてしまった。

それでも、内多さんが仕事へのモチベーションを維持できたのは「クローズアップ現代」の代行キャスターという役割があったためだ。代行のため、年数回、しかもいつ呼ばれるかわからない不安定な立場ではあった。それでも、ここでは自分がやりたいことができる可能性がある。首の皮一枚つながっているような気持ちでありつつ、大きな支えにもなっていた。

しかし内多さんが50歳になっていた頃。「クローズアップ現代」の代行キャスターから外されてしまう。内多さんから若いキャスターに変わってしまったのだ。そこで、内多さんが新しく用意された仕事はラジオのディスクジョッキーだった。一見自由に好きなことが話せるように感じるかもしれないが、概ね構成は決まっており、内多さんがやりたいことを自由に提案する余地はほとんどなかった。

それまで、仕事に生きがいを見出し、やりたいことが実現できる喜びを感じながら生きてきた。しかし、いよいよそうではなくなった。「これはダメだ、と観念した」という。職業人生の中で「外される」という年代にさしかかってきたと実感した。

その後は、「仕事」と「生きがい」を分けた。仕事以外のボランティアとして、フードバンク(フードロスを引き取り、必要とする人々へ届ける活動)の活動をしたり、自分の居場所を求めて転職活動をしたこともあった。しかし、あっけなく不採用。「NHKのアナウンサーでござい!」だけでは通用しなかった。そこに、仙台転勤の辞令が出た。51歳になっていた。

NHKでは60歳の定年前になると、故郷人事といって、住まいのある場所に戻してくれるパターンがあった。つまり、仙台で3〜4年仕事をしたのち、東京勤務に戻って、おとなしく定年を迎える。そんな人生が見えてしまったという。

仙台の転勤が決まった頃。もともと誰かとお酒を飲むことが好きな内多さんは、取材を通して縁ができた医療や福祉関係者の気が合う人たちと、時々お酒を飲んでいた。その日もいつもどおり楽しく会話をし、ときには「NHKなんて辞めてやる!」と仕事への不平不満を言いつつも、ビールを美味しく飲んでいた……はずだった。そこで、ある福祉関係者がこう言ったという。

「今度、国立成育医療研究センターで、新しく医療的ケア児と家族を支援する“もみじの家”という施設ができる。そこでハウスマネジャー(=事業に関わる計画立案やマネージメント、広報、寄付や補助金の呼びかけをする事務の窓口)になる人を外部から探しているらしい」と。

しかも、黙って話を聞いていたつもりが「内多さん、どうですか?」と突然言われ、一気に酔いが醒めたという。

確かに、NHKにこのままいてどうなるか、行く末は想像がついてしまった。しかし、このまま先細りの人生を過ごし、定年して悠々と暮らす過ごす人生も望んでいない。

では、転職してネックになることは何か?家のローンは完済。3人いる子どものうち、末っ子はまだ学生だったが、学費の見通しは経っている。家族の反対もない。確かに給料は減るが、そうは言っても成育医療研究センターの正社員として固定給がもらえるのだ。NHKのアナウンサーを辞めるなんてもったいない!と言われても、テレビで十分仕事はできた。アナウンサーとしても未練はない。魅力的な話に心が揺れたと振り返る。

まだ、答えは決まっていないとしながらも、建設中であるもみじの家を見学させてもらった。すると、担当者がある部屋で「ここが、内多さんの席ですよ」と案内してくれたという。「ちょっと待ってくださいよ(笑)と言いつつも、自分を必要としてくれる人がいるんだと思ったら、すごくうれしかったんですね」。こうして内多さんは転職を決めた。

会議資料ひとつ、誰かを頼らないと作れない

53歳を迎える春、内多さんの第二の人生が始まった。もみじの家のオープニングセレモニーでは、ハウスマネジャーとして挨拶も担当した。元アナウンサーとしては、これくらいなんてことはない。しかし調子が良かったのはそこまで。そこからまさかの急降下がはじまる。

まず、もみじの家の利用者さんが集まらず、試行錯誤するところから始まった。

そして、内多さんはパソコンが使えなかった。事務作業をするには致命的だった。NHKではすべてWordで済ませており、やや強引ながらも何とかなっていたという。しかし、Excel、パワーポイントとイチから覚えることに。会議資料を作るにも、誰かの手を借りないと作れない情けなさに苛まれた。そもそも皆忙しそうだし、質問をするにも気がひける。「Yahoo!知恵袋」で夜な夜な検索することも多かった。


パソコンと格闘する内多さん。数年たち大分慣れてきた(写真提供:新潮社)

また、組織の中でも数えるくらいしか人脈がなかった。何かの案件で他部署に相談しようにも、誰に聞いていいのかわからない。その都度、建物の中を右往左往、歩き回る。自分は正真正銘の新人なんだと呆然とした。そんな状態で必要な情報が入ってくるはずもなく、内多さんが作った資料はスカスカ。しまいには、「ハウスマネジャーとしての自覚を持ってください!」と怒られた。ショックだった。

さらに試練は続く。カンファレンスと呼ばれる会議では、医療用語が頻繁に飛び交うが、その用語がわからない。その都度、パソコンでわからない言葉を調べるが、次から次へと新しい用語が飛び交い、ついていけない。連日夜遅くまで残業をして睡眠不足だった内多さんには、専門用語が子守唄のように聞こえてきて、ある日ついに会議中にウトウトしてしまった。

「内多さん、なんで会議で寝てるんですか?」ガッツリ怒られた。この歳になって、居眠りで怒られるなんて……。情けないし、恥ずかしい。とにかく上からも下からも怒られたが、至らない自分が原因だからしょうがない。すみません、と頭を下げ、ただひたすら謝ることしかできなかったという。

転職して、初心に戻って頑張ります!と口では言っていたものの、骨の髄までそうは思っていなかったのかもしれないです。NHKという華やかな場所で仕事をしていくうちに、無意識に優越感が生まれちゃったのかもしれないですね」と語る。

ただ、残念な話だけではなかった。全国の講演会から声がかかり、自身の転職はもちろん、医療的ケア児の実情について話をしたり、もみじの家について発信することができた。コロナ禍に入ったが、施設の寄付も試行錯誤しながら募ることができた。運営も安定してきた。さらに、厚生労働省に対して、保育活動やリハビリテーションを評価する日中活動支援加算が新設された。これは、目に見える結果としてわかりやすく、内多さんも大きな達成感を味わったという。さらに、全国で家族会を発足するなど活動は多岐にわたった。

ダッシュできる体力が残っているか

53歳で転職して現在59歳となった内多さん。「転職して良かったか」と聞かれたら、今は自信を持って「良かった」と言えるという。

転職を勧められたときに、「年齢的にチャレンジできる最後のチャンス」「これを断ったら一生後悔することになる」――。そんな自分の声に素直に従えてよかったと内多さんはかみしめる。

もちろん転職して最初から上手くいっていたわけではない。ただ、転職前は、自分の立場や役割のしんどさを知る由もなかった。実際に足を踏み入れてみないとわからない誤算や困難はそこらじゅうにあった。でも知らないからこそ思いっきりダッシュできるし、ダッシュできる体力が残っているうちに動けたことも良かったという。無謀とも思える決断を下せたと語る。

また、転職して医療や福祉の分野で熱心な人たちと関われている充実感。さらに、自分がやるべきことがまだまだたくさんあって、この先の人生が閉じていくのではなく、開いていく景色が想像できる希望があるという。

自分の想いを100%出せることも魅力だそうだ。NHKではチームプレイだったが、ハウスマネジャーの仕事は、対外的な発信や交渉事は基本的にハウスマネジャーの一人プロジェクト。大いにやりがいを感じているという。


(写真提供:新潮社)

内多さんの転職が成功した理由


内多さんの転職がうまくいったのは、もしかしたら運が味方をしたのかもれない。また、内多さん自身もみんなに転職を勧めているわけではない。ただ、普段から酒の場も含めて気の許せる仲間とコミュケーションを取りながら、自分の気持ち・現在地と向き合っていたこと。家族や、医療・福祉の関係者に仕事上の本音を言い、仕事に対する思いを“匂わせ”ていたことも大きかったという。

家族は、普段から内多さんの愚痴を聞いていたので受け入れもスムーズだった。気の置けない医療・福祉関係者からも、「NHK愛にあふれているわけではないんだな」と知られていたからこそ、今の仕事につながる新たな情報が入って来た。

そう考えると、周りの情報にアンテナを張ることに加えて、自分からもわかりやすく意思表示をしておくこと。自分の考えや大事にしている思いを声に出して伝えておくことが大切なのだと考えさせられる。つねに動きながら考える。私たちは先を恐れ、深読みし、リスクを恐れて動けなくなりがちだ。しかし、動きながら考え続けて今の生活にたどりついた内多さんから、学ぶことは多いのではないだろうか。

(松永 怜 : ライター)