※この記事は2021年04月14日にBLOGOSで公開されたものです

イギリスのエリザベス女王(94歳)に70数年連れ添ってきたエディンバラ公フィリップ殿下(99歳)が9日、ロンドン郊外の公邸ウィンザー城で亡くなった。

軍人としてのキャリア追求を断念し、「君主の配偶者」として女王を公私両面で支えてきたフィリップ殿下は、今年2月、不調を訴えてロンドン市内の病院に入院。3月に別の病院で心臓関連の既往症の治療を終えて退院し、新型コロナウイルスの感染防止のために滞在していたウィンザー城に2週間ほど前に戻ってきたばかりだった。

市民からは「エリザベス女王のことが心配」の声も

王室が殿下の死去を発表するや否や、イギリスのテレビ、ラジオ、ニュースサイトは追悼のニュース報道でいっぱいとなった。筆者がBBCニュースのウェブサイトを開くと、死去についてのニュース記事で満載になっており、つい先ほどまでトップニュースだったコロナやワクチンの情報は下方に移動されていた。

夕方、自宅前の中庭で隣人たちの会話に参加してみると、ここでも殿下の話でもちきりだった。日本人の筆者以外は、トルコ人、スロバキア人、イギリス人という顔ぶれだ。

「自分のキャリアを捨てるなんて、すごい。特に昔は『男性が一家を支えるもの』という考え方が強かったから」とイギリス人の女性が口にする。トルコ人女性は「女王のことが心配。あれだけ長く一緒にいた人が亡くなったなんて。どんなに悲しいことか」と顔を曇らせた。

家に戻ってテレビを付けて、驚いた。BBCのニュース専門チャンネル、主力チャンネルBBC1とBBC2が特別追悼番組を放送し、いずれもまったく同じ番組だったからだ。予定していた番組スケジュールを午後10時までキャンセルし、代わりに特番を放送。ウィンザー城、バッキンガム宮殿前からの生中継ととともに、スタジオではゲストが殿下にまつわる逸話を語る。事前に制作された殿下の人生にスポットライトをあてた番組を挟みこみながら進行させていた。

司会者を含めた出演者全員が黒装束に身を包んでいた。

イギリス中に"喪のカーテン"が下りた日

民放最大手でBBCのライバル的存在となるITVも同様の構成の番組を放送し、別のニュース専門チャンネル、スカイニュースも同様だった。教養番組を放送するチャンネルBBC4は番組予定をキャンセルし、BBC1の視聴を勧める通知を出すほどであった。

この日、イギリスにいる人はどの主要チャンネルに行っても殿下に関する番組を目にした。一斉に「喪のカーテン」が下りたかのようだった。

イギリスでは放送の多様性が重視されているものの、この日ばかりは一色に染まったと言える。

ロックダウンのなか、ウィンザー城とバッキンガム宮殿へ献花に訪れる人々の姿

多くの国民にとって、フィリップ殿下の死去は非常に大きな出来事だった。

死去の日以降、ウィンザー城やバッキンガム宮殿に少しずつ人々が訪れ、献花を行っている。イギリス全体がロックダウン状態で大人数は集まってはいけないとの行動規制が続くなかでの行動だ(12日から、一部解除)。

王室は国民に対し、ウィンザー城やバッキンガム宮殿に追悼のために集わないようメッセージを出した。追悼の意はオンラインで受け付け、追悼の花束を置くよりも、これを慈善団体への寄付に変えてほしいと呼びかけている。それでも、人の波は小規模ながら今も続いている。

ロンドンの中心街ピカデリー・サーカスにある大型広告スクリーンには殿下の生前の笑顔の姿が映し出された。

女王と殿下が結婚式を挙げたウェストミンスター寺院では、この日の夜、99歳で亡くなった殿下にちなみ、鐘を99回鳴らした。

10日正午からはフィリップ殿下を追悼する41回の礼砲が、ロンドン、エディンバラ、ほか各地で、また洋上の海軍艦から放たれた。この模様はテレビで生中継された。

イギリスは17日まで8日間の喪に服し、王室の居宅などでは半旗の掲揚となる。政府庁舎は葬儀翌日の午前8時まで、半旗を掲げる予定となっている。

2人で1つだったエリザベス女王・フィリップ殿下夫妻

死去翌日10日の新聞各紙のトップ記事は、フィリップ殿下の死去に関するニュースで埋まっていた。「トップ」だけではなく、1ページ目から10ページ以上続けた新聞も少なくない。また、それぞれ別冊にした訃報や写真集を綴じこんだ。

日曜日となった11日も、各紙、数ページ続くトップニュースとしての扱いに加え、新たな別冊が発行された。殿下の葬式は17日に予定されているが、その様子を伝える特集冊子が翌18日付の新聞に入ることが予想され、死去から10日ほど、イギリス国民には殿下にまつわる情報が伝え続けられる。 このことからも、君主・エリザベス女王の長年の伴侶であったフィリップ殿下死去の事実が国民にとってどれほど大きなものかがうかがえる。

殿下の死は女王個人や王室の悲しみや痛みであるとともに、国民にとっての悲しみ、痛みである。国民は自分の家族に女王あるいは殿下の姿を投影させる。王家であっても、イギリスに暮らす1つの家族であることに変わりはない。

フィリップ殿下は女王の公務の際には必ずと言ってよいほど女王の隣にいた。2人はセットだった。殿下は高齢のため、2017年に公務からの引退を決めたが、それでも何十年にもわたり、女王の隣には殿下が、殿下の隣には女王がいた。今後は、2人一緒の姿を見ることはできない。「いるのが当たり前だった人」を失い、その存在感の大きさにしみじみと思いを馳せている。

「世界でもっとも偉大な、君主の配偶者」

エリザベス女王に勝るとも劣らず、イギリス国民はフィリップ殿下自身にも強い敬意と愛情を持ってきた。 歴史家マックス・ヘイスティングス氏はサンデー・タイムズ紙にフィリップ殿下について、「アウトサイダーの勝利」という見出しで寄稿した(4月10日付)。

同氏は、殿下の人生をこう要約する。

ギリシャ北西部ケルキラ島の「台所のテーブルの上で生まれた少年は、愛情も家も家族もないままに育った。しかし、将来女王になる女性の心を魅了したことで、フィリップ殿下は宮廷で仕える人々の憎しみや自分自身の失言に打ち勝ち、世界でもっとも偉大な、君主の配偶者となった」。

ギリシャ王族の1人として生まれたフィリップ殿下 クーデターでイギリスへ

フィリップ殿下の人生を短く振り返ってみよう。

殿下は1921年、ギリシャの王族の1人として生まれた。父はギリシャ王子アンドレアス、母はアリキ妃。しかし、翌年ギリシャがク―デターに見舞われ、当時の国王コンスタンティノス1世は退位し、国王の弟だったフィリップの父は革命政府から死刑宣告を受けてしまう。

親戚関係にあったイギリスのジョージ5世が派遣した海軍の軍艦で、父アンドレアスは一家でギリシャを出た。フィリップ殿下は果物が入った箱に入れられて、軍艦まで運ばれたという。ギリシャは後に王政が廃止され、共和制に移行する。

ギリシャを脱出した一家はフランス・パリに住み、1928年、7歳のフィリップ殿下はイギリスに渡った。

祖母にあたるビクトリア女王や叔父らと一緒に生活し、ドイツ南部での学校生活をへて、英スコットランド・ハイランド地方の規律が厳格な寄宿制私立校「ゴードンストウン・スクール」に通った。

帰る「家」もなく、実の家族とも一緒に暮らすことができない殿下は、まさに「愛情も家も家族もないままに育った」と言えよう。

海軍学校時代の"案内"が2人の出会い

1939年7月、フィリップ殿下は当時13歳のエリザベス女王(当時は王女)に出会う。ジョージ6世がダートマス海軍学校を視察に訪れた時、ここで勉強していた殿下は案内役としてエリザベス王女とその妹マーガレットに学校内を紹介した。この時、エリザベス王女は長身でハンサムなフィリップ殿下に一目ぼれしたというのが通説だ。

同年9月、第2次大戦が勃発する。海軍学校を卒業したフィリップ殿下は、士官候補生として大戦に参加した。

海軍学校での出会いをきっかけに文通を開始した2人は、1947年に結婚。フィリップ殿下26歳、エリザベス王女21歳の時である。

王女の父、国王ジョージ6世が亡くなれば、彼女がイギリスの君主になることはわかっていたが、結婚当時、それはまだまだ先と2人は考えていたという。イギリスの上流家庭を絵にかいたような生活を2人は送るようになる。1948年に長男チャールズ王子、その2年後には長女アン王女が生まれた。

1950年代に入り、ジョージ6世の健康は衰えを見せ、外国訪問を断念せざるを得なくなった。1952年初頭、国王夫妻の代わりにケニア経由でオーストラリア、ニュージーランドに向かう公務に出発したのはフィリップ殿下とエリザベス王女夫妻だった。

しかし、同年2月、ケニアに滞在中の2人のもとに、「国王、急死」の一報が入った。2人は急きょ、帰国することに。イギリスの飛行場に着いた飛行機のタラップから降りるエリザベス王女は今度、「女王」として、自国の土を踏むことになった

「アウトサイダー」とみられるなかで「開かれた英国王室」進言

フィリップ殿下はエリザベス女王との結婚後も、海軍でキャリアを積むことを想定していた。しかし、妻が20代半ばで即位してしまったことで、海軍を退役。自分の役割を模索することになる。

「女王の配偶者」という肩書しかない自分は、いったい何をしたらいいのだろう? 後に、フィリップ殿下は「自分は女王の単なるアメーバだ」と自嘲気味に親しい人に語っていたという。

殿下は「外国人」、「アウトサイダー」、と王室内で見なされ、時には宮廷関係者や義母エリザベス王太后との確執に悩まされた。しかし、これにめげず、使用人のかつら着用廃止やインターフォン導入など王室内の近代化や、長編ドキュメンタリー「ロイヤル・ファミリー」の撮影を女王に進言するなど「開かれた王室」を進めた。

科学技術や自然保護の振興にも力を入れ、世界自然保護基金(WWF)の総裁となった。1956年には「エディンバラ公賞」を設立し、優れた技能を持った世界各国の若者を表彰している。

一方、殿下は冗談を頻繁に発することでも知られ、そのなかのいくつかは外交問題にも発展しかねない失言として報じられた。

エリザベス女王が金婚式で語った殿下への感謝

その人生で女王を支え続けた殿下。9日に放送された特別番組のなかで、子供たちはこう語る。「殿下がいなかったら、女王はその任務を十分に遂行できなかっただろう」と。父の急死によって突然、君主の座に就いたエリザベス女王。側にいて支える存在が必要だったと関係者らは口をそろえる。

女王自身はどう思っているのだろう?

1997年、金婚式のレセプションで、女王は演説のなかで次のように語った。「お世辞を容易には受け取らない人です。でも、率直に言うと、長年私の力であり、支えでした。そして、私にとって、そして私たち家族全員にとって」、「多くのことが彼のおかげなのです」。

10日、報道陣の前に姿を見せたチャールズ皇太子は、殿下が「女王と私の家族、国と英連邦に実に見ごとに献身した」と述べた。「大切な父親」が亡くなり、家族が「非常に寂しく思っている」。

ウィリアム王子は12日、発表した声明文のなかで、殿下は「他にはいない人だった。祖父の人生は奉仕という言葉に尽きる」、妻キャサリン妃と自分は「祖父がそうしたいと思っていたように女王を支えていくでしょう」と語った。

同日、ヘンリー王子は別の声明文で、殿下は「ありのままに生きた人」、「とても鋭いウイットの持ち主だった」と振り返り、「祖父に感謝したい」と述べた。最後は海兵隊のモットーである「海にいても、陸にいても」のラテン語で締めくくった。

「国葬にしないでほしい」と生前に語っていたとされるフィリップ殿下。「大騒ぎはやめてくれ」とも。しかし、イギリスに与えた衝撃は大きく、国民の追悼はまだまだ続きそうだ。