※この記事は2020年10月12日にBLOGOSで公開されたものです

日本は性暴力の被害者が声をあげにくい社会である。被害を受けた女性を攻撃し、非があるかのように扱う風潮は根強い。一例として、最近であれば国会議員の問題発言が挙げられるだろう。「自民党の杉田水脈衆院議員が『女性はいくらでもウソをつける』と発言したとされる問題で、杉田氏は1日、自身のブログに『ご指摘の発言があったことを確認した』と投稿した。

当初、発言を否定していたが一転して認めた。自民はこれ以上の対応をしない構えだが、抗議の声は収まっていない」（朝日新聞10月2日29面）。この発言があったのが「女性の性暴力に関する相談事業」を議論する党会議だったというのだから、絶望感は深まるばかりだ。彼らが会議室でいったい何を話し合っていたのか、著者には想像がつかない。

周囲の黙認で続く虐待行為

被害を受けた女性が声をあげにくい状況は、日本に限った話ではない。2017年に大きく報道された、アメリカの映画プロデューサー（ハーヴェイ・ワインスタイン）の性的虐待事件を記憶している方も多いだろう。

アカデミー賞の受賞作品を連発した敏腕プロデューサーが、女性俳優や、みずからが経営する映画会社の女性従業員に対して、20年以上にわたって性的虐待をくわえていた犯罪事件は社会に衝撃を与えた。さらには、多くの関係者が事実を察知しながら黙認していた、誰にも止められないまま虐待行為が長期間継続していたという点に、女性が性的被害に声をあげることの難しさが見て取れるだろう。

米ジャーナリスト、ジョディ・カンターとミーガン・トゥーイーによるルポルタージュ『その名を暴け #MeToo に火をつけたジャーナリストたちの闘い』（新潮社）は、ニューヨーク・タイムズ社が報道したハーヴェイ・ワインスタインの性的虐待事件に関する取材記録である。

アメリカ本国では2018年にピューリッツァー賞を受賞した本書だが、2020年7月末に日本で翻訳が発売されると、こちらも一時は入手が困難になるほど話題となった。ワインスタイン事件は、後の#Metoo運動へつながるきっかけでもあり、記憶に残っている方は多いだろう。取材を担当したふたりの調査報道記者が事件の告発に踏み切るまでにはどのような経緯があったのか、また被害にあった女性がどのような苦しみを抱いていたかが具体的に書かれており、できるだけ多くの方に知ってほしい充実した内容となっている。

リスクが大きい性的虐待の実名告発

ふたりの記者はかねてから、ワインスタインにまつわる業界内の悪評や、有名女性俳優がSNS上で実名を挙げずにほのめかした映画プロデューサーからの性的虐待について疑念を抱いていた。本書は、被害を受けたと思われる女性にひとりずつコンタクトし、慎重に情報を収集していくところから始まる。調査を進めるなかで、どうやらワインスタインは数多くの女性に性的虐待をくわえ、騒ぎが大きくなりそうな場合は示談へ持ち込んで沈黙を強いるという行為を繰り返していたことが判明する。

告発記事の準備が進められるが、実際に記事にするには性的虐待の証拠（示談書の写し等）を入手し、実名で情報提供してくれる複数の女性を見つけなくてはならない。これは非常に難しい条件である。性的虐待の実名告発にはリスクがあり、身の危険を感じた女性は表立っての発言を避ける傾向があるためだ。

さらには、ニューヨーク・タイムズが記事を準備していると知ったワインスタイン側は、潤沢な資金と強い影響力を使って、記事を差し止めようと妨害してくる。ワインスタインはやがてイスラエルの諜報機関まで雇い入れ、あの手この手で記事の公表を止めさせようと画策するのだ。幾多の困難を乗り越え、果たして告発記事は発表できるのか……というのが本書の大まかな展開である。

『その名を暴け』のすばらしさは、それまで誰も耳を傾けてこなかった被害者女性の声を丹念に集めていく記者の取材過程と、声をあげることを決意した女性たちの精神的変化にある。被害を受けた女性は、ワインスタインの強大な権力、財力の前になす術がなかった。

周囲の人間も彼の性的虐待を黙認するばかりか、時には積極的に状況へ加担し、事実の隠蔽に協力していた。女性が被害に悩んだとしても、入社時の契約書や示談書に記載された「秘密保持契約」に縛られているため、他人にいっさいの情報を漏らすことを禁じられ、誰にも相談できないまま秘密を抱え込んでいることが多い。被害にあった女性のなかには、夫にすら過去の体験を説明できず長らく苦しんでいた人もいたという。こうして権力によって孤立させられていた女性たちをひとりひとり探し当て、話を聞いていくふたりの記者は、取材という行為を通じて失われた連帯を取り戻していくかのようである。

告発を決意できたのは「ほかの女性を守るために」

こうした取材は、相手の女性にとって負担が大きい場合もある。調査の過程で、かつてワインスタインの会社を突然退職した女性がいることに気づいた記者は、彼女の家を訪ねようと決める。記事を完成させるためにはどうしても必要な訪問だが、事件があったのは20年以上前。記者にとっては、過去のできごとをいまさら蒸し返し、取材対象者の静かな生活を乱してしまうのではないかという不安もあった。

しかし相手の女性は、過去に性的虐待があったかどうかを取材したいという記者の姿を目にした途端、腑に落ちたという表情で「この27年間、玄関扉を叩く人が現れるのをずっと待っていました」と述べるのだ。本書でもっとも驚きに満ちた場面のひとつである。この両者が出会うことの必然性をどう表現すればいいだろうか。

女性は「いつか誰かが、本当は何があったのかを聞きに来てくれるはずだ」と願い続けていたのである。誰にも聞かれることなく、抑圧されていた声に耳を傾ける相手がついに現れた瞬間にただ圧倒される。こうした出会いが積み重なっていくなかで、次第に記事の準備も整っていく。告発記事の公開が迫り、ついにはニューヨーク・タイムズの記者・弁護士とワインスタイン本人とが激しく衝突する後半もまた迫真である。

被害を受けた女性たちはなぜ、多大なリスクを負いながら告発記事に協力することを決意したのだろうか。記者は、記事の必要性について女性たちをこのように説得していた。

過去にあなたに起きたことを変えることはわたしにはできない。でもね、わたしたちが力を合わせれば、あなたの体験をほかの人を守るために使うことができるかもしれない。

重要なのはほかの女性たちを救うことであり、それが報道の目的でもあるのだ。

画期的な報道は「変化のきざし」

こうした説得の言葉を読みながら、日本で同じく性的虐待を訴えるべく行動したジャーナリストの伊藤詩織さんが、実名での会見に臨む際の心境を連想した。伊藤さんの著書『Black Box』（文芸春秋）では、なぜ彼女が周囲に反対されながらも、人前に立って実名で会見することを決めたかの理由が説明されている。

「私が会見をしたのは、今後彼女（注：伊藤さんの妹）や私の大事な人たちを、私と同じような目に遭わせたくないという気持ちに尽きる」。著書で語られる伊藤さんの決意は、ワインスタインの告発記事に取り組む記者とまったく同じものだ。

まずは何よりも、被害を訴え出ることにこれだけの重圧がかかる社会の仕組みそのものを変える必要があるが、ワインスタイン事件の画期的な報道は「変化のきざし」と呼べるものではないだろうか。

そして最後に、これは筆者自身への戒めとして書くが、ステレオタイプで古いジェンダー観をあらためていく必要がある。長年に渡ってしみついた価値観を変えるのは容易ではないと痛感している。筆者と同年代のテレビタレントやお笑い芸人の男性が古いジェンダー観から脱却できておらず、メディア上で不適切な発言をおこなって批判されるケースも数多くあった。そうした状況を苦々しい思いで見てきたが、問題は決して他人事ではない。筆者自身が陥りかねない失敗でもあり、つねに注意を払っていかなくてはならないものだ。『その名を暴け』は、古い価値観をあらためることは必要であり、可能であると教えてくれる本である。

【推薦図書】『その名を暴け』と合わせて読みたい3冊

◆デヴィッド・E・マクロー『ニューヨーク・タイムズを守った男』（毎日新聞出版）

『その名を暴け』にも登場する、ニューヨーク・タイムズの弁護士による著書。ワインスタインに「本物のカウンターパンチを繰り出した」と紹介されるデヴィッド・E・マクローは、トランプ大統領の性的暴行に関するニューヨーク・タイムズの報道で、トランプ側の弁護士から撤回を求められてもはっきりと拒否した骨太の弁護士であった。報道機関における弁護士の役割がよく理解できる1冊。弁護士の視点から見た、ワインスタイン報道に関する記述も記載されている。


◆レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば 危機の時代と言葉の力』（岩波書店）

『災害ユートピア──なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』（亜紀書房）、『説教したがる男たち』（左右社）などの著書で知られるアメリカ人著者による最新刊。米政治批評が中心となるが、わけてもヒラリー・クリントンが大統領選に落選した経緯を分析した「ミソジニーの標石（マイルストーン）」が明晰だ。本書より引用すれば「女性の沈黙を求める特定の男性文化的欲求」についての論考である。


◆藤本和子『塩を食う女たち 聞書・北米の黒人女性』（岩波現代文庫）

リチャード・ブローティガンの文学翻訳で知られる著者が、さまざまな黒人女性と会って話を聞き、彼女らの人生経験をまとめたもの。貧困や差別、暴力にさらされながら生きてきた黒人女性の「聞かれることのなかった声に耳を傾ける」という手法において、本書は『その名を暴け』と共鳴しており、著者が取材の過程で黒人女性たちから掬い上げていく言葉もまた、ニューヨーク・タイムズ記者が被害を受けた女性から聞き取った内容に重なっている。