※この記事は2019年03月25日にBLOGOSで公開されたものです

 東日本大震災で、宮城県石巻市の私立日和幼稚園(震災当時:園児103人、休園中)の園児5人が亡くなった。遺族有志は、石巻市門脇町の被災現場近くに慰霊碑を建立した。慰霊碑には建立に賛同した遺族が、亡くなった園児の名前を入れた詩が書かれている。震災から8年目を迎える前日の3月10日、除幕式が行われた。遺族は、語り部活動はしているものの、「自分たちだけで伝えるのは限界がある」として慰霊碑を作った。後日、伝承看板も設置する予定となっている。風化が危惧される中で、悲劇を伝えようとする遺族の試みの一つでもある。

 慰霊碑は、門脇町内に設置され、園児らが発見された場所より、50メートルほど海側だ。2020年度に完成が予定されている「石巻南浜津波復興記念公園」近くでもある。土地は市有地で、無料で借り受けた。亡くなった園児のうち4人の遺族が賛同した。碑文は御影石で作られており、「あなたの笑顔にまた会いたい」という言葉も刻まれた。4人の園児の名前は裏側に刻まれている。

園児を乗せたバスは、津波警報が出ているなかで、海側に向かった

 日和幼稚園の園児たちの犠牲は裁判になり、和解となった。判決や遺族の説明によると、日和幼稚園は日和山(61.3メートル)の中腹にある。地震があったとき、園内に待機するか、避難するとしても、日和山の山頂へ向かえば事故は防げた。

 しかし、園では園児をバスに乗せ、津波警報が出ているなかで、海側に向かった。途中で引き取りにきた保護者もいた。そんな中で、避難のため「バスを上げろ」と園長から指示を受けた幼稚園教諭2人が、門脇小学校で停車していたバスに追いついた。指示は伝えたものの、バスは園児を乗せままま、動いた。

 そして津波がくる中、運転手は園児5人と添乗員を残して、園に戻った。その後、運転手は園に戻ったものの、園長との間で、添乗員や園児の話にはなってない。春音ちゃん(当時6)の母、西城江津子さんは園に行くものの、バスの運転手は「あっちのほう」と被災地域を指差した。実際に運転手ばバスから逃げた場所とは違っていた。

 園児たちの死因ははっきりしないが、当日の夜、子どもたちの「助けて!」という声が聞こえたという証言もある。声の主は不明だが、園児たちの声という場合は、津波にのまれて死亡したのではなく、火災による焼死という可能性もある。そのため、遺族としては、園が早く捜索活動をしていれば、生きていたかもしれないとやりきれない思いだ。

遺族は「安全配慮義務を怠った」などとして園側を訴え。和解となる

 3月14日、再度、靖之さんと江津子さんは園に向かった。この日、ようやく、津波が引いて、捜索できる状況になったが、園側が園児や添乗員を探した形跡はなかった。火がくすぶる中で、靖之さんらは園児たちを捜索した。園長が指差した車内には遺体はなかった。

 近くの別の車を探していると、「幼稚園」と書いてあるワゴン車を見つけ、た。そこで、焼け焦げた子どもたちの遺体と対面した。そして重なるようにしていた大人の遺体を発見した。この大人の遺体は、昨年、身元が判明し、添乗員ということがわかった。園児の遺族は、園側に説明を求めていたが、納得しない。

 園児4人の遺族は「安全配慮義務を怠った」などとして園側を訴えた。仙台地裁の斉木教朗裁判長は13年9月17日、「巨大な津波に襲われるかもしれないと容易に予測できた」「園児は危険を予見する能力が未発達。園長らは自然災害を具体的に予見し、園児を保護する注意義務があった」とした上で、その注意義務を怠り、高台から海側にバスを出発させたことで被災を招いたとした。

 その後、園側が控訴し、仙台高裁(中西茂裁判長)で和解となった。和解には異例の「前文」がつけられた。

 「当裁判所は、私立日和幼稚園側が被災園児らの死亡について、地裁判決で認められた内容の法的責任を負うことは免れ難いと考える。被災園児らの尊い命が失われ、両親や家族に筆舌に尽くし難い深い悲しみを与えたことに思いを致し、この重大な結果を風化させてはならない。今後このような悲劇が二度と繰り返されることのないよう、被災園児らの犠牲が教訓として長く記憶にとどめられ、後世の防災対策に生かされるべきだと考える」

「ここまで来るのに8年」「今改めて伝えていこうと思い直すことができた」

 遺族たちはこれまでも、語り部活動を続けてきた。除幕式で司会を務めた江津子さんは報道陣の取材にこう答えた。

 「胸がいっぱいです。基礎工事から始まって、きょうが除幕式。上手に言葉にできないが、子どもたちのため、私のたちのためでもあります。慰霊碑によって、今後も伝えていくことができ、うれしく思います。道のりは長かったです。決まってしまえば早かったですが、ここまで来るのに8年かかったのは子どもたちには申し訳ない。これから伝承看板がたちます。一人でも多くの人に見て欲しい。ここで何があったのかを考えて帰って欲しいです」

 靖之さんは筆者の取材に「8年かかったが、逆によかったかもしれない。というのも、みんな、記憶から消されようとしています。今改めて伝えていこうと思い直すことができました。門脇地区では、記念公園の計画があったからか、慰霊碑が経つのは初めて。以前、お地蔵さんが立っていたが、復興作業の途中でよけられてしまっています。このあたりは街並みが街らしくなってきていますが、あの日にあったことが忘れ去られていくように感じます。私たちが伝えていくのも限界があります。だからこそ、形で残ればいいと思っています」と答えた。

「私たちの子どもは、大人の誤った判断で行動したために、命を落とした」

 除幕式では遺族有志の代表として、愛梨ちゃん(当時6)を亡くした佐藤美香さんが挨拶した。取材陣にはこう答えている。

 「本当にこのような形でようやく8年を前に(慰霊碑が)完成し、除幕ができました。作ってよかったなと思います。作ってよかったと思っています。ようやく子どもたちの生きた証を少しでも残すことができました。子どもたちもきっと喜んでいると思っています。2020年度には記念公園ができ、たくさんの人が訪れます。その中には幼稚園で起きたことを知らない人もいると思います。(慰霊碑が)そんな人たちが知るきっかけになってくれるといいです。そして、いろんなことを考えて、自分ごととして持ち帰ってほしいと思います。私たちの子どもは、大人の誤った判断で行動したために、命を落としました。大人の人たち、特に教育者には知っていただき、子どもの命を一番い守っていただければ幸いです。『あなたの笑顔にまた会いたい』と記しましたが、あの日から私たちは、我が子の笑顔を守ることも、抱きしめることもできません。今は防災のあり方が問われています」

 美香さんは、愛梨ちゃんの生きた証を残すために、慰霊碑建立以外にも取り組みをしている。愛梨ちゃんを題材にした絵本(『あなたをママと呼びたくて』)に協力したり、妹の珠莉(じゅり)ちゃんと2人を人形にし、旅する人たちに託して、「2人」が世界中を旅する企画もした。映画も作った。また、南浜町の震災伝承施設「南浜つなぐ館」に、愛梨ちゃんの遺品(上履きとクレヨン)を常設展示している。