患者の望んでいる医療とは何か 透析中止を提案したある医師の独白 - 高山義浩 - BLOGOS編集部
※この記事は2019年03月20日にBLOGOSで公開されたものです
はじめて、患者さんに透析中止の提案をしたのは、私が研修医のときのことでした。患者さんは中止を希望され、そして5日後に亡くなりました。病院で内科医をやっていれば、誰しも、そういう経験は重なっていきます。
高齢社会の医療現場では、治療の差し控え(尊厳死)を提案することは、もはや日常的なことです。むしろ、ここで紹介する患者さんでは、当初、その選択肢を「僕」が示さなかったことが問題ですらありました。治療のメリットとデメリットを理解していくためにも、治療しないことの説明は必要なのです。
大切なことはプロセスです。帰結は同じでも、患者さんはもちろん、家族も、医師も納得する必要があります。その意味で、当時の「僕」には、これが精一杯でした。いまの私なら、もっと上手く対話できるか?それは分からないけれど・・・。
以下、研修医時代に書いた文章です。個人情報保護の観点から、患者背景等は一部加工しています。
「診断して治療する」ことだけが、医療の使命だと信じていた
♪ わたしゃ久留米の機織り娘 化粧ほんのり 花ならつぼみ
わたしゃサイノ 久留米のひばた織りでございますモンノ
私がっサイ ひばたば織りよりますとサイノ 村の若い衆が来て
遊ばんのじゃん 遊ばんのじゃんと 言いますモンノ
一緒に遊びたいよかばってん ひばたがいっちょん織れまっせんモンノ
惚れちゃおれども まだ気が付かんかね
507号室のヒサノさん。機嫌のよい午後は、この民謡を歌いながら、その日の点滴を提げてくる僕を待っている。ヒサノさんは福岡県南部の直方の機織り娘だった。そして、戦争が終わった15歳から、嫁いだ20歳までの、その機織り娘時代が、ヒサノさんにとって一番幸せなときだったという。
「戦争も辛いですノ、でも嫁入りも辛いもんですノ。いまの若い人は幸せですノ」
戦時下は小倉の兵器工場に動員され、朝から晩まで鉄砲の弾を磨いたり、運んだりする毎日を過ごしていた。食事は三食とも、おから御飯に大根と漬物。夜は宿舎に戻るが、50畳ぐらいの広間に一学年の40人が押し込められ、落ち着いた時間などどこにもなかった。
「小倉大空襲の夜は忘れられまっせん。宿舎の防空壕に逃げ込もうとしたら、前日までの雨が腰まで溜まっていて、虫がいっぱい湧いとりました。それでも、後ろから押されて、放り込まれるようにバシャバシャと・・・ 人がはいってくるに連れて水嵩(みずかさ)がまして、頭の上ではドガーンドガーン、でも自分は溺れて死ぬるんと思いましたノ」
戦争は15歳の夏に終わった。
帰ってきた直方の村は戦後の大混乱にあったという。当時、直方は炭鉱で栄えており、終戦時には大勢の連合軍捕虜がそこで働かされていた。しかし、玉音放送の直後、捕虜を監視していた日本軍兵士たちが逃走してしまったため、捕虜たちが金網を倒して、村へとなだれ出てきたのだ。
「ガリガリに痩せとりましたが、大きな図体の白いのやら、黒いのやらが出てきましたモン。村人はみんな震えあがっておりました。若い娘はみんな土蔵に隠せとのことで、私も何日間かは真っ暗な土蔵に隠れとりました。そりゃあ、怖ろしいことでした」
戦争が終わった数日後、艦載機がゆうゆうと直方の空に舞い、沢山のビラをまいて飛び去っていった。ビラにはこう書かれていた。
「明日、落下傘にて連合軍兵士への補給物資を投下する。日本人のいかなる手出しも無用。横領せし者には、厳しい懲罰を科す」
翌日、爆撃機が直方の空に現れた。
「小倉で見たんと同じでしたノ。でも、竹槍投げたら届きそうなほど低空でした。見上げていたら。機体の腹がパカーと割れて、七色の落下傘が落ちてきました。綺麗でしたノー。沢山のドラム缶がゆらゆら、ゆらゆら」
それから、直方の村は平静を取り戻しはじめた。元捕虜たちにも規律が戻り、礼儀正しく農家を訪ねてきて、チョコレートと卵を交換してほしい等、村人との交流がはじまった。しかし、ある日、忽然と彼らはいなくなった。そして、ようやく直方にも戦後がやってきたのだった。
「戦争が終わったんは、嬉しかったですノ。お国が勝った負けたは、関係ござんません。故郷に帰れる。私にとってはそれだけの意味でしたノ」
そして、ヒサノさんは機織り娘として働きはじめた。
「楽しく幸せでした。妹と弟の面倒をみながら、熱心に働きました。でも、それが今から考えれば、いけんかったんでしょうね。急がしか家に嫁がされたんですモン」
村でも働き者の娘として有名になったヒサノさんのもとへ、縁談がもちあがった。隣村の地主の長男の嫁にということで、これは名誉なことではあったが、でも現実は「不満も言えん、逃げもでけん人手が増えただけ」だったと。
毎朝5時に起きて、一家の朝食を作り、野良に出て、昼食を作り、また野良に出て、夕食を準備する。その合間に家の片付けと洗濯。食事を取るのは、働きながらの台所。そうしたなか息子と娘を育てあげた。
「おしんのごたぁ 生活でした。毎日毎日がおしんでしたノ」
娘は博多に嫁いでいった。幸せそうだったが、ヒサノさんは寂しかった。結婚式では、とにかく寂しさを悟られまいとしていたという。息子は家に留まったが、農業を継がずに会社勤めとなった。やがて嫁が来たが、学校の先生だった。
「大学出のお嬢さんには、野良はさせられませんですノ。一度、どーしても手伝いたいと申しますけん、田んぼに入れたことがありますモン。でも、その夜から熱を出して、往診先生に来てもろうたり、そりゃあ大騒ぎでした」
ヒサノさんにとっては愉快な思い出なのだそうだ。いつしか夫も持病を抱えるようになり、ヒサノさんだけが農業をつづけることになっていた。
そして20年の月日が流れた。家族が気がついたとき、すでにヒサノさんの足は太くむくんでいた。
◇ ◇ ◇
「こうやって街の病院に連れてきてもらっただけで、私は十分ですノ。こんな親孝行をしてもろうて、私は幸せです。私の両親が亡くなったときも、お医者は一度きり往診に来てもろうただけでしたノ」
血液検査の結果では、腎臓に何らかの障害が起きていることが明らかだった。しかし、CT検査や大腸カメラを含めた詳しい検索では、原因となるような異常がみあたらない。ヒサノさんの腎臓は、別の用事に気をとられたかのように、ふっつりと仕事をやめてしまったままである。
それでも僕は、まだ「診断をつける」ということに固執していた。診断をつけなければ治療はできない。治療しなければ患者は助からない。そして、医師は患者を助けなければならない。視野の狭窄した医師が陥りがちな3段論法である。しかし、患者はそれだけを医療に期待しているとは限らないのだ。それが僕には見えていなかった。だから、ご家族にも集まっていただいて、こう僕は説明した。
「ヒサノさんの腎臓自体に何らかの異常があると考えています。診断をつけるためには、腎生検という検査こそが一番早く、そして正確に知ることができるでしょう。ヒサノさんの腰から長めの針を刺して、腎臓の一部分を削ってくるのです。痛みはあまりありません。麻酔をしますので、その麻酔の針を刺すときにチクリとするぐらいです」
ヒサノさんの夫をはじめ、家族の皆がこの提案に賛成した。ところが思いがけないことに、ヒサノさんが「うん」と言わなかったのだ。
「先生、わたしはもういいよ。先生にはようしてくれました。感謝しとります。こんなに私の体を真剣に考えてくれて・・・。でも、わたしゃ、もう疲れたノ。十分に長生きさせてもろうたノ。わたしゃ、これ以上に長生きせんでいいんです」
ヒサノさんは、時折咳き込みながら、力をふりしぼるようにしてこう言った。それまで何でも「うん、うん」と同意してきたヒサノさんの反対だけに、これは重みのある言葉だった。僕は一瞬たじろいだが、しかし家族の手前もあって、つづけて定型的な説得を試みた。
「ヒサノさん。まだまだ元気に過ごせるようになると思いますよ。そのためにも、きちんと診断して、一番いい治療をしましょうよ」
しかし、ヒサノさんの意思は固かった。「元気になっても、またじきに死ぬるでしょう。ねえ先生。私はいまとっても苦しいノ。こんな苦しい思いは一度で十分。何度も治って、何度も苦しんで、結局死ぬるなら、今回の一回だけにしてほしかとですよ」
さすがに僕は何も言えなかった。ヒサノさんが、ここまで断固と腎生検を拒否するとは思っていなかった。僕はじっとりと冷や汗を浮かべていたに違いない。僕はヒサノさんの腎臓をあきらめて、いのちを助ける提案をすることにした。
「ヒサノさん。わかりました。では、ヒサノさんの体を楽にすることを考えてみましょう。透析って、知ってます?」
「ああ、ヤスユキさんとこの息子がやってるやつだノ」と、ヒサノさんは長男に確認した。
「そうそう、母さん。トシハルくんがしてるだろ。トシハルくんは透析しながら元気に仕事までしてるからね」と長男が調子を合わせてくれた。
「ヒサノさんの体がつらいのは、ヒサノさんの腎臓が仕事しなくなって、体の悪いものが溜まってきてるからなんですよ。透析をすれば、そういう悪いものを体の外に出してしまえるし、足のむくみも少しずつとれて楽になれますよ」と無理に笑顔を作りながら僕は言った。
このときばかりは家族総出で説得が繰り広げられ、結局、ヒサノさんは透析導入に合意してくれたのだった。もっとも、その時の僕には、多少彼女の体調を戻してから、改めて腎生検の説得を試みるという下心もあったのだが・・・。
2日後、初回の腎透析を実施。透析が終わったヒサノさんの手を僕は握って、「なんにも辛くなかったでしょう」と聞いた。
「先生・・・、辛くないさ。でもね、わたしの人生は幸せだったから、辛くなければよいってわけではないですノ。わたしゃ幸せやったと思ってます。だから、いつ死んでもいいですノ。幸せだから・・・」
この言葉で、ヒサノさんと話し合えていなかったことが、ようやく僕にも分かりはじめたのだった。たしかに世間話はたくさんしていた。しかし、肝心の話を僕は避けてきたのだ。そして、僕はボタンを掛け違えてしまったのかもしれない。
「積極的治療の拒否」にはじめて同意するも、不思議と敗北感はなかった
ベッドサイドに丸イスを運んで、僕はヒサノさんと話をすることにした。ヒサノさんの声はすでにかれていたが、精一杯の笑顔を彼女は作りながら話をしてくれた。夕焼けがシーツをほのかに赤く染めてゆき、つづいて夕暮れがフワリと降りてきた。対話の終盤にさしかかって、僕にもようやく「ヒサノさんが人生に満足している」ことが理解できるような気になっていた。
「ヒサノさんは幸せだったんですね。これまでずっと・・・?」
「幸せだったよ。先生」
「なにが、一番幸せだったんでしょう?」と僕は聞いてみた。ヒサノさんは少し考えこんでいたが、意を決したようにこう言った。「やっぱり、子供たちに恵まれたことだねぇ」
今度は僕が考え込んだ。子供のいない僕には、それをどのように受け止めればよいのか分からなかった。ただ、それは死を覚悟した人らしい答えのようにも思われた。最後に、僕は準備してきた質問をヒサノさんに投げかけた。
「ヒサノさん、透析やめますか?」
この言葉と同時に僕たちは深い沈黙につつまれた。それは長い沈黙だった。しかし、やがてヒサノさんが沈黙を破ってこう言ったのだった。
「先生、透析はいやだ。私は幸せなまま死にたいノ」
◇ ◇ ◇
こうして、僕はヒサノさんが積極的治療を拒否していることを理解した。医療の撤退に同意したはじめての経験だった。ただ、不思議なことに敗北感はなかった。
長男にヒサノさんの意思を伝えると、あっさりと長男も了承した。当然のことだが、ヒサノさんは長男にも意思を伝えていたのだ。すぐに僕は病棟看護師と臨時ミーティングを開いて、鎮痛剤を除いて医療的介入を行なわないことを確認した。
翌朝、僕が病室に入ると、管をすべて抜き去られたヒサノさんがベッドの端に座っていた。再びむくみはじめた足をさすっている。僕が入ってきたことに気がつくと、ヒサノさんはすっきりした表情で僕を見上げた。
「ああ、先生、よく来てくれましたノ。もう来てくれんのじゃないかと思っとりました」
「そんなことはないでしょう」と僕は言った。ヒサノさんは、息苦しそうな咳を何度かした。しかし、笑顔をとりもどして、僕に昔話を聞かせてくれた。
小倉での勤労動員と大空襲、その戦火をかいくぐって彼女は生き延びた。ようやく戦争が終わり、彼女は故郷の直方へと帰ってきた。そして苦労の多い結婚。しかし、子供の存在が彼女を支えた・・・。
「戦争は辛かったノ。でも、それで幸せを教えられたノ」
僕はロバート・キャパの写真を思い出した。戦場となった街の人々が見せる「生活くささ」と「笑顔」・・・。人間性というものは驚くべき回復力をもっているのだ。それは、生死とは次元の異なる人間の強さである。
◇ ◇ ◇
さらに4日が経過した。ヒサノさんのむくみは再び全身に広がりはじめ、息苦しさの訴えが強くなってきた。そこで僕は、意識が失われない程度にそっと麻薬を増量した。僕が病室に入っても、横たわったヒサノさんはもはや目を開けることはしなくなった。ただ、声をかけると「ああ、先生・・・」と言って、手のひらを広げてくれた。その手を握り返して、僕はこう言った。
「苦しくないですか?」
すると、ヒサノさんは絶え絶えな声で、ゆっくりとこう言った。
「苦しいノ、先生。でも、私は幸せだからよかよ。心配せんで・・・」
「素敵なお子さんに恵まれたからね」と僕は言った。
「いいやぁ 先生。子供たちじゃなかったノ。子供たちは遠くへ行った。いまは、子供たちは遠くにいる」
「どういうこと?」
「いまはね。先生。おかあちゃんが傍にいるんだノ。おかあちゃんと一緒にいたときのことが、まるで昨日のごたある・・・」
そう言うと、ヒサノさんは微かな笑みを浮かべた。
「おかあちゃんって、ヒサノさんのお母さん?」
「そうだノ、先生。わたしがね、幸せだったのは、子供たちなんかより、もっともっと、おかあちゃん。おかあちゃんだったノ」
「ヒサノさんのおかあちゃんって、どんな人だったんです?」と僕は聞いた。
「しっかり者だったノ。慌てない人だった。騒がない人だった。でも、あったくて、優しい人だったノ」
「おとうちゃんは?」
「おとうちゃんは・・・、暴君だった」
「そうなんだ」
「でも、そんなおとうちゃんと一緒にいるけんが、おかあちゃんやった」
「へー」と僕は真剣にうなずいた。
「わたしはね、今になって気がついたんだノ。先生。おかあちゃんとこうして一緒にいるのが一番幸せ。とらわれがない。あれこれ考えなくていい。あの頃んごつして死ねたら、それが一番幸せ・・・」
そう言うと、ヒサノさんは寝息を立てはじめた。僕は静かに病室を出た。ヒサノさんが言いたかったことは何だろう。そのことを反芻しながら、僕は階段を歩いていた。ただ、確かなことは、ヒサノさんが彼岸へと渡りはじめたということだ。そして僕に与えられた役割は、それを静かに見送ることだけだ。もはや僕にも迷いはなかった。
その翌朝、ヒサノさんは永眠した。まさに妣(はは)の国へと帰られたのだろう。彼女が遺したものは、とらわれのない穏やかな顔だった。
患者との対話を重ねることでのみ、私たちは”正解”へと近づける
これで物語は終わりです。最後に少しだけ・・・、いまでは研修医を指導する側となった立場から追記いたします。
まず、この文章を紹介することで、私は決して、安楽死を推奨しようとしているわけではありません。そもそも、ここで紹介している事例は、実は「安楽死」ではなく「尊厳死」に該当します。以下、死に帰結する医療の分類です。
安楽死: 患者が死ぬことになる行為を医師が直接遂行すること
自殺幇助: 患者が死ぬことになる薬剤等を患者の希望により処方すること
尊厳死: 生命維持に必要な治療を差し控えること
これは行為の様態に基づく分類ですが、さらに、患者さんの意向に基づいて分類することができます。
自発的安楽死/自殺幇助/尊厳死: 判断能力のある患者の要求に基づく場合
非自発的安楽死/尊厳死: 患者に意向を表明する能力がない場合
反自発的安楽死/尊厳死: 判断能力のある患者の要求に反する場合
このうち、「反自発的安楽死/尊厳死」は優生思想のもとに障がい者などへ行われた暗い歴史はありますが、これは殺人にも等しく、もちろん現代では認められません。そして、同様に「非自発的安楽死」も認められるべきではありませんが、「非自発的尊厳死」についてはグレーゾーンながら、実際には家族の同意のもとに医療現場で実施されることがあります(議論が必要な領域)。「自発的安楽死/自殺幇助」については認める国も増えているようですが、いまの日本では認められていません。
残された「自発的尊厳死」のみ、日本では(法整備は遅れているものの)慣習的に認められてきました。今回紹介した事例もまた、この尊厳死に該当すると振り返ります。もちろん、十分な対話と合意、そして撤回の保証をもって、患者さんの権利として認められるものだと私は考えています。
ただし、「自発的尊厳死」であっても、次の事項について、主治医は十分に吟味しなければなりません(現在の私のチェックリスト)。
(1)誤診の可能性はないか。取返しのつかないことをすべきではない。
(2)「死にたい」のではなく、「死にたいほど苦しい」のではないか。
(3)うつ病などの精神疾患を治療すれば、死を望まなくなるのではないか。
(4)経済的な問題など、疾患以外の問題で死を望んでいるのではないか。
(5)死を望んでいる本人だけでなく、家族などへの配慮ができているか。
つまり、そう容易には尊厳死も選択できないということです。倫理的な正解はありませんが、不断に患者さんと対話を重ねることによってのみ、私たちはそこへと近づけるのかもしれません。
著者プロフィール高山義浩(たかやまよしひろ)
福岡県生まれ。東京大学医学部保健学科、山口大学医学部医学科卒。佐久総合病院、厚生労働省などを経て、2010年より沖縄県立中部病院において感染症診療に従事。また同院に地域ケア科を立ち上げ、主として悪性腫瘍患者の在宅緩和ケアに取り組んでいる。日本医師会総合政策研究機構非常勤研究員、沖縄県在宅医療介護連携推進事業統括アドバイザー、沖縄県地域包括ケアシステム推進会議部会長。著書に『アジアスケッチ 目撃される文明・宗教・民族』(白馬社、2001年)、『ホワイトボックス 病院医療の現場から』(産経新聞出版、2008年)、『地域医療と暮らしのゆくえ 超高齢社会をともに生きる』(医学書院、2016年)など多数。