原子力事故から8年 福島第一原発の現場取材で見えた廃炉の進展と山積する課題 - BLOGOS編集部
※この記事は2019年03月05日にBLOGOSで公開されたものです
地元のテレビ局が撮影した1号機の爆発の瞬間の映像や、東京消防庁の職員による決死の注水活動、さらには劣悪な作業員の労働環境――。2011年3月の東京電力福島第一原発事故当時の混乱ぶりは、多くの人の記憶に残っているだろう。
原発事故では大気中に大量の放射性物質が拡散し、現在も4万人以上が避難生活を余儀なくされている。事故が起きた第一原発では、原発を解体する廃炉が完了するまで、原発事故の発生から数えて30年以上がかかる見通しだ。
史上最悪レベルの事故が起きた現場では、廃炉作業がどのように進められているのか。事故当初と比較して、何がどう変わったのか。
第一原発構内を訪れてみると、労働環境は格段に改善が進んだ一方、原子炉内で溶け落ちた核燃料(デブリ)の取り出しなど廃炉に向けた課題が山積する現状が浮かび上がった。原発事故から丸8年を迎えるのを前に、世界から注目が集まる廃炉作業の現場をレポートする。
立ち入りが制限された帰還困難区域内を走る国道6号
第一原発の取材当日。東電から指定された集合場所は、第1原発から南に約9.5キロ離れた東京電力廃炉資料館(福島県富岡町)だった。東電が用意したバンに乗り込み、「浜通り」と呼ばれる県沿岸部を南北に走る国道6号線を北上した。
資料館を離れて間もなく、放射線量が高く現在も立ち入りが厳しく制限されている「帰還困難区域」に入った。ガラスが崩れ落ちた自動車販売店やゲームセンターが車窓に映り、沿道の民家への入り口はバリケードで封鎖されていた。事故から8年近くが過ぎた今も、こんな光景が続く。途中、他府県警察から警備活動の応援に来ているパトカーとすれ違った。
第一原発敷地内に到着したのはバンに乗ってから20分ほど。思いのほかに軽装の作業服姿の東電や協力企業の社員らばかりが行き交い、世界が注目する廃炉作業の現場とは思えず、活気のようなものすら感じた。
体内の放射性物質を事前確認 テロ対策に緊張感
第一原発構内をアテンドしてくれる東電社員と合流して案内されたのは、構内への立ち入り者の管理を行う「入退域管理施設」だ。担当の男性から名前を呼ばれ、東電側へ事前に伝えていた氏名や住所、生年月日と、持参した身分証明書を照合して違いが無いかのチェックを受ける。
取材の前日には東電の社員から「身分証明書を絶対に忘れないように」と、念押しの連絡をもらっていた。万が一、身分証明書を忘れると、入構は許可されないそうだ。持ち込む取材用カメラもあらかじめ機種を申告し、1台のみに限られていた。そんなセキュリティーの厳格さで、不審者の進入を防いでいる。
無事に入構を済ませると、ホールボディ・カウンタ(WBC)による検査を受けることになる。1分間椅子に座って、特殊な機材で体内の放射性物質の種類や量を体外から測定する。WBCは構内を退出する際にも受検し、滞在前後の被ばく量を比較する。
「遠い存在であってほしい放射性物質が身近なものになる。そんな空間に踏み入れるのだ」。じっと座っているうちに、そんな実感がわいてくる。
目の前の小型スクリーンには、構内で不審物や上空を飛び交うドローンなどを発見した際の通報を呼び掛けるスライドが映し出されていた。フェンスや監視カメラ、警察による警備状況が写る構図の撮影が禁止されていることも示され、並々ならないテロ対策の様子に緊張感が込み上げてきた。
「お疲れ様です」。作業員とすれ違うたびに、東電社員が大声で挨拶する。作業員の年代は様々だ。20代とみられる人もいたが、ほとんどが40~50代のように感じた。こわもてな感じの人もいたが、ほとんどの人は街中にいそうな中年男性だ。東電社員に挨拶を返す作業員の姿を見ると、一人一人の奮闘が廃炉という一大プロジェクトの成否を握っていることを実感させられる。
さらに建物内を進むと、原発事故から時間が経って作業員を取り巻く環境が大きく改善されたことを実感できた。歩いているのはどこにでもある工事現場にいそうな格好の人ばかりだ。事故直後は構内全域で防護服の着用が義務付けられていた。一方で、除染作業や、地表面をモルタルで覆って放射性物質の拡散を防ぐ「フェーシング」と呼ばれる作業が徐々に進んだ結果、現在は、簡素な作業服で作業できる「G zone(一般服エリア)」が構内の96%を占めるようになった。
ただ、被ばく線量が高いエリアは「Y zone(カバーオールエリア)」、「R zone(アノラックエリア)」と指定され、防護服の着用など今も厳しい装備が定められている。
上限は0.1ミリシーベルト 被ばく線量を徹底管理
15年6月に完成した大型休憩所内の食堂で休憩を終えると、東電社員から建物外の原子炉建屋の取材について説明を受け、取材中に身に付ける衣服を渡された。薄い白色のベストに、防塵マスク、さらにヘルメット、軍手に二重履きの靴下と、簡素そのものだ。ベストの左胸のポケットには、ピンク色の個人線量計を入れた。
取材や視察の場合の被ばく線量の上限値は1日当たり0.1ミリシーベルト(=100マイクロシーベルト)だ。東京からニューヨークに飛行機で向かった場合の片道分にあたる。東電側は毎回、被ばく線量が確実に上限値を下回るような視察工程を組み、0.02ミリシーベルトごとに警報音が鳴る仕組みになっているという。
いよいよ建物外に出て、案内されたのは「さくら通り」。事故前は1000本以上のソメイヨシノが植わり、住民を招いた花見も催されてきた。
ところが、原発事故後は、廃炉作業を進めるために大半が伐採され、現在は400本まで減ってしまった。それでも、春には花を咲かせるという。
原子炉建屋までわずか100メートル それでもマスクとヘルメットは不要
マイクロバスに乗り込んで、構内をゆっくりと進んだ。作業用の車などが整然と並ぶ光景が車窓に映り、事故当時の混乱ぶりを思うと時間が経過したことを実感した。
早速向かった先は1~4号機の西側に設けられた高台。わずか100メートル先にあの原発事故を起こした原子炉建屋が並ぶ。巨大な建屋の下では、大型クレーン車を使った作業が着々と行われ、防護服姿の作業員が小さく目に映った。
高台は事故直後、決して立ち入ることができなかった場所だったが、昨年11月からはマスクやヘルメットを着けずに建屋を見渡せるようになった。フェーシング作業に加え、空間放射線量の自然減衰もあって、線量が低下していったためという。「あの事故を起こした原子炉が間近に存在する」。廃炉作業がわずかながらも着実に進展していることを感じられた時間だった。
第一原発には大熊と双葉両町にまたがって6基の原子炉建屋がある。原発事故では、大熊町側にある1~4号機のうち、1~3号機が全交流電源を喪失して原子炉を冷却できなくなり、炉心溶融(メルトダウン)が発生した。
1、3号機が11年3月12、14日にそれぞれ水素爆発を起こしたのに続き、定期検査中だった4号機も3号機から放出された水素が流れ込んで爆発。2号機もメルトダウンによって使用不能となった。
4号機は、燃料の溶け出しがなかったため、1535体の燃料がすでに取り出されている。一方、1~3号機は使用済み燃料プールの中に残る燃料、溶け落ちたデブリの取り出しなど課題が山積し、放射線量は非常に高い状況が続く。廃炉完了の目標は2040~50年ごろとしている。
膨大な量の汚染水の発生 保管と処理が難題
第一原発構内では、高さ10メートルほどの白や水色の巨大なタンクがやたらと目に入る。その数は約940個。地下水や原子炉内部に注いだ水が燃料に触れて、セシウムやストロンチウムなど放射性物質を含んだ汚染水が発生する。トリチウム以外の放射性物質は取り除くことができ、一つのタンクに約1200トンを貯めることができる。
汚染水は日々増え続けている。汚染水から放射性物質を取り除く作業を行いつつ、新たな汚染水の発生を見越してタンクを用意する“自転車操業”的な対応を繰り返しているのが現状だ。
加えて、タンクに入った水の処分方法は定まっていない。20年までに構内で保管する水の量は137万トンに及ぶ計算という。廃炉作業のスペースの確保ができなくなることすら懸念されていて、直接的な廃炉の作業以外にも解決すべき問題の根深さを感じた。
2、3号機の間に降り立つ 感じる廃炉の進展と事故の深刻さ
廃炉作業の最前線は、海に沿って並ぶ4基の原発だ。事故から7年2カ月が過ぎた18年5月、ともに高線量の状態が続く2、3号機の原子炉建屋の間にある通路(幅約12メートル)には、全身を包む防護服を着用しないまま降り立てるようになった。
メルトダウンを起こし、内部にデブリが残る二つの原子炉建屋が、わずか数十メートル先にそびえる。3号機に目を向けると、あの事故の爪痕が生々しい。津波による損壊に加え、外壁は爆発の威力で大きく損壊していた。手元の線量計は毎時250マイクロシーベルトを示し、ここでの滞在は3分ほどに限られた。
事故から8年を費やし、建屋のそばまで立ち入ることができるようになったことからは、第一原発の状況が大きく変わったことを感じられる。一方、壁を隔てたコンクリートの内部には高放射線量の燃料が残り、完全な廃炉にはまだ膨大な時間がかかる。「何をもって原発事故の収束を意味して、それはいつになるのだろうか」。廃炉作業の進展の一方で、事故の深刻さを感じる不思議な時間だった。
第一原発で、私たちが身に付けた軍手やマスク、靴下は、1日当たり4000人に及ぶという作業員のものも含めて使い捨てだ。通常は焼却して減容・減量化したうえでドラム缶に詰め、青森県六ヶ所村の埋設施設へ低レベル放射性廃棄物として搬送する。
ところが、福島第一原発の場合、事故の影響でそうした方法による汚染廃棄物の処理が行えない。わずかでも放射性物質が付着する可能性があるためだ。約5万個のコンテナに保管された廃棄物が焼却処理を待っている状況で、構内では焼却施設の増設工事が進められていた。
全身を包む防護服の着用が必要な多核種除去設備
取材も終盤を迎えた頃、全身を覆う防護服、全面マスクを着用するよう東電社員に言われた。向かう先は、多核種除去設備(ALPS)。トリチウム(三重水素)を除くほとんどの放射性物質を汚染水から取り除くことができる施設で、万が一タンクなどから水が漏れた際のリスクを低減する役割を担っている。G zoneよりさらに放射性物質への注意が必要とされ、Y zoneに含まれている。
不織布製の防護服を身に付けると、しばらくしてもわっとした熱気が全身を包んだ。東電社員のサポートで全面マスクを装着し、ALPS内部へ入る。防護服は動きづらく、全面マスクは特に息苦しい。「ふーふー」と音が漏れ、メガネはすぐに白く曇ってしまった。
薄暗い施設内に入る。「63ある核種のほとんどを取り除きます」。そんな風に東電社員が説明してくれるが、防護服を着用しているとなかなか聞き取れない。そばでは、作業中の数人の男性が私たちに気づいて会釈をしてくれた。視界も限られ会話も難しい環境の中で、コミュニケーションをとる難しさを実感した。
約2時間に及んだ第一原発構内の取材。個人線量計を見ると、0.04ミリシーベルトの被ばくで、上限値を大きく下回った。入構前にも受検したWBCの結果も異常はなかった。
事故から8年近くが過ぎる。第一原発構内の96%が簡素な作業服で活動できるようになり、メルトダウンを起こした2、3号機の真横まで近づけるようにもなった。事故の全容がはっきりとしないまま、劣悪な環境下で多くの作業員が高濃度の被ばくを余儀なくされた事故直後のことが、不思議と遠い昔のことの様にすら感じた。
福島の復興に直結する第一原発の廃炉作業
廃炉作業が進んで第一原発の状況が安定するかどうかは、福島の復興に直結している。第一原発周辺で原発事故に伴う避難指示が解除された地域は、事故前に住んでいた場所に戻る住民が少なく、コミュニティーの再生が極めて難しい状況だ。
避難指示が出た自治体の住民を対象に、復興庁などが地元へ戻る意向などを尋ねた調査結果がある。例えば浪江町では本年度、帰還を決めかねている人のうち38.3%が「原子力発電所の安全性に不安があるから」を要因の一つと回答。帰還しないことを決断した人のうち37.9%が同じ回答を選んだ。病院や町内の生活インフラが整うことに続いて、第一原発の安全性の確保が帰還を検討する際に重視されていることが分かる。
東日本大震災から8年近くがたった今も、4万人以上が福島県内外への避難生活を続けている。そんな中、来年には「復興五輪」と銘打った東京五輪が開催される。海外へ震災時の支援に対する感謝を伝える大切な場ではあるが、復興が進んだ面ばかりがアピールされないだろうか。
五輪期間中も、あの原発事故の現場では黙々と廃炉に向けた作業が進む。そして、膨大な人数の方がなおも避難生活を強いられているだろう。そんな状況が果たして「復興」と呼べるのか。そんな疑問を忘れずに、今後も福島と第一原発のいまに関心をもっていたい。