純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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まただよ。それも、シロウトがちょこっとネットで稼いだ程度ならともかく、恥ずかしげも無く国内外で個展まで開いて、作品集まで出版していやがる。パクラー本人は論外ながら、審美眼という意味で、この出版社も「芸術」を名乗る資格を疑う。

とにかくソフトが、おそろしく良くなった。CLIP STUDIO を使えば、補正が効いて、初心者でもベテランのような流麗な線が画ける。それどころか、トレスなどしなくても、写真からマンガタッチの線画も一発自動で起こしてくれ、トーン張りまでやってのける。おまけにRGBベースだから、印刷では特色として高価だったポップな蛍光色がガンガン使える。塗りの修正も簡単。

商業誌にも問題があった。さすがに写真の丸パクは忌避されるようになったものの、現行でも海外ファッション誌などからのポージングのパクリが当たり前のように出ていて、これまた恥ずかしげも無く、それを作者がウリにしていたりする。これらが売れる、人気が出るのは、発表者の芸術的な力量ではなく、写真そのもの、モデルそのものに芸術的な魅力があるからではないのか。

これらのパクリ問題の根本には、日本で写真やコレオグラフ(ポージング)の芸術性が理解されていない、ということがあるようだ。たしかに、近年の高性能カメラなら、シロウトがシャッターを切っても、深度を浅くして遠景や近景をぼかしたりした、それらしいものがうまく撮れる。だが、それで芸術作品の域に達するか?

写真は、フォトグラフ、光で描くものであり、コレオグラフは、コーラスと同じ語源で、身体表現を意味する。プロの写真家、プロのモデル(コレオグラファー、振付師)は、かならずしも自分自身でカメラを操作すること、被写体となることを要しない。モデルで重要なのは、なにをどう表現するか、であり、写真家で重要なのは、なにをどう捉えるか、である。その相乗効果があってこそ、そこに強い情感の込められた写真の芸術性が成り立つ。

この後、この芸術的写真を、シミュラークルとして、拡大しようと縮小しようと、雑誌媒体に載せても、写真集にしても、その芸術性の魂は魅力を放つ。模写しても、トレスしても、その魅力の根源は、写真家とモデルが切り結んだ創造的セッションに凝縮されており、模写やトレスの加工にあるのではない。だから、模写者やトレパクラー、イラストレーサーが、それを自分の「作品」だなどというのは、あまりにおこがましい。

誤解の原因は、古い「現代」芸術、元祖芸術系タレントのアンディ・ウォーホルのポップアートあたりにあるのかもしれない。1962年、モンローの死の直後から発表し始めた大量の『マリリンのディプティック』は、たしかに、彼女の代表作『ナイアガラ』(1953)のもっとも有名な宣材を奇妙に安っぽい色使いのシルクスクリーンで表現したもの。

これは、当時、当然に激烈な著作権論争を引き起こした。ところが、当事者が流用を黙認するという曖昧な決着に。もともと米国は、著作権が著作権ではなく、商業的な複製権であるなど、このあたりの法整備が不十分だったこともあるが、ウォーホルの「作品」(芸術的アクション)は、マリリン・モンロー本人を差し置いて、セックスシンボルに祭り上げ、亡くなってもなお、そのゴシップのシミュラークルを大量に複製してきた映画業界とマスメディア、世界に対するアイロニーになっており、モンローが死んだ、だが、劣化複製は増え続ける、という大仕掛けのメタな表現、レクイエム(鎮魂)としての意義に芸術性があった。

しかるに、その後、そのウォーホルの制作様式の表層だけマネたポップアートも大量に出現した。それらはそれらでまた、その後のウォーホルの安直な芸術タレント活動を揶揄するものでもあり、また、彼自身、「誰でも15分は世界的な有名人になれる」「誰でも15分で世界的な有名人になれる」「僕の作品の裏側には何も無い」と、自分が薄っぺらなシミュラークルのインスタントアート、インスタント・アーティストであることを自嘲し、莫大な遺産、自分の「作品」の「著作権」は、ほとんどすべて後進を育成する芸術振興財団に寄付してしまった。

しかし、ウォーホルが使ったのは、もともと大量複製の、芸術性のかけらも無い、モデル本人も嫌うような虚像としての写真であり、それを劣化させてさらに大量複製することが、その大量複製に対する批判になっていた。その模倣も、当初はウォーホルを批判する意味を持ったが、やがてその原義が忘れられた。それで、やがて、あのウォーホルがやっていたんだから、自分だって、などという、自嘲する反省力も無い、15分だけのインスタント・アーティストの方が大量に沸いて出てきた。そして、それらを、芸術も知らず、審美眼も無い連中が、ポップアーティストとして押し上げた。

いまの時代、優れた作品でありながら、著作権が切れて忘れられた絵画や写真はいくらでもある。フリーで提供して、進んでコラボを求める作家もいる。温故知新、暮雲春樹で、高山流水を知れば、他人の芸術的な努力や才能を盗み奪うのではなく、時間空間を隔ててなお、同じアーティストとして比肩し、その芸術性を再認識して蘇らせ、なお一層の創造に寄与することもできる。

芸術に志すなら、世俗的なカネや名誉よりもっと大切な、もっと崇高なもの、それこそがめざすべきもの。そして、それにはまず、写真といえど、その向こうにある写真家やモデルの芸術性を、もっと自覚し、敬意を払うべきではないのか。