純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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13.2.1. アッバース帝国の衰退(九世紀後半)

このころ、バビロニアのバグダッド市を中心として東西に広がりすぎたアッバース帝国は統率を失いつつありました。とくに先の第七代カリフ、マアムーンが取り込もうとしたアラビアのシーア派は大きな問題で、アッバース朝は、848年、シーア派の第十代イマームとその息子を首都バグダッド市の近くに軟禁し、支持者たちとの接触を断ち切り、874年には息子の第十一代イマームも27歳で毒殺。ところが、シーア派は、彼と東ローマ帝国皇女との間に第十二代イマームが生まれたが、神に隠され、いずれ戻る、と信じるようになり、それまでの間、知識人(ウラマー)が代理を務めることになります。これをシーア・十二イマーム派と言います。

J なんだ、知識人が管理するんじゃ、スンニ派と大差ないじゃないですか。

いや、スンニ派の知識人、ムウタズィラ派は、神はつねに公正だ、として、アッバース帝国が支配する現状を肯定的にとらえるのに対して、シーア・十二イマーム派の知識人は、第十二代イマームが隠されたのは、神が現状に納得していないからで、我々はこれを変えるべきだ、と考えています。

さらに先鋭的なのがシーア・イスマーイール派で、彼らは、そもそもイマーム継承は、親より先に死んだ第七代イスマーイールで終わっていた、とし、神は改めて、アダム・ノア・アブラハム・モーゼ・イエス・ムハンマドに次ぐ七人目の預言者(マフディー)を送ってくれるから、それまでスンニ派はもちろんシーア派主流の十二イマーム派も信用せず、みずからの信仰を隠し、ひそかに伝道し、また、武装してその日に備えよ、とします。

J イマーム再来どころか、第七の預言者ですか。スケールがでかいなぁ。

一方、東でも、861年にはアフガニスタンでサッファール朝が、873年には中央アジアでサーマーン朝が独立。ターヒル朝は滅ぼされ、アッバース帝国はイラン高原東半を失ってしまいます。そして、残るイラン高原西半でも、外形的な生活法(シャリーア)に対する反発が生じ、インド文化の影響を強く受けて、禁欲主義からさらに内面性にのめりこむスーフィズムが流行。

西のアラビアのシーア派が法源をムハンマド後継者のイマームに求めて原点回帰を訴えたのとは別の意味で、東のイランのスーフィズムもまた原点回帰主義的でした。彼らは、真の法源は、歴史を越えたムハンマドと同じ神秘体験である、として、特異な修行や呼吸で忘我法悦の境地に至ることを求めました。イランのバスターミー(?〜c874)は、この過程を自我の層をはぎとっていくものとし、究極的には神そのものに至る、と考え、陶酔(スクル)スーフィズムの祖となります。

また、同じスーフィズムでも、イランのジュナイド(?〜910)は、陶酔の先の自己の再発見、覚醒(サフウ)を重視し、むしろ保守的に生活法(シャリーア)を遵守してこそ、真の自己滅却、イスラーム(帰依)が達成される、としました。彼の思想を継ぐ一派は、その後、覚醒(サフウ)スーフィズムとなっていきます。

J つまり、九世紀後半のアッバース帝国は、辺境の総督(アミール)たちが独立してしまうだけでなく、内部でも西のアラビアではシーア派、東のイランではスーフィズムが流行して求心力を失っていったわけですね。でも、中央のバビロニアのスンニ派はどうなっていたのですか?

もちろん、かなりまずい状況です。アッバース帝国の衰退ともに、大衆庶民の「伝承の徒」が、自分たちこそが合意(イジュマー)を決められる、と主張して騒ぎ出していました。これに対し、合意を四法源の一つに入れてしまった知識人(ウラマー)のシャフィイー学派からペルシア(イラン)出身のタバリー(839〜923)が独立して、法は厳密な歴史学と文法学によって決められられなければならない、とし、史料と分析に基づいて『諸使徒と諸王の歴史』と『クルアーン注釈』をまとめます。

J なんかすごい堅物みたいですね。

いや、タバリーは、とにかく博覧強記で、生まれのペルシア文化はもちろん、アラビア文化、エジプト文化までくわしく、信仰と教育にも熱心、上品でユーモアに溢れ、カネや名誉、地位には関心が無かった。だから、それまで騒いでいた大衆庶民も、彼を尊敬し、彼が言うなら、と従った。しかし、矛盾した諸説でも取り込む懐の深さや、まちがいをまちがいとはっきり言う性格が災いし、当時の知識人(ウラマー)たちからは敵視され、公職には就けなかった。

このころ、もうひとり、理系でも博覧強記の天才、アル・ラーズィー(ラーゼス、865〜925)が活躍します。彼もまたペルシアの出ですが、アッバース帝国のカリフの求めに応じて首都バグダッド市にイスラム最大のムダディッド病院を建て、患者の治療と医師の養成に努めます。しかし、彼の知見は、精神科や小児科にまで拡げられた臨床医学に留まるものではなく、天然痘などの感染の病理学、薬学や化学、さらには形而上学まで広範囲に及び、自身の視力を失っても研究と教育に邁進。ただ、彼は啓示宗教には懐疑で、むしろ人間は神から真理を発見する理性を与えられている、と考えていました。

J どちらも、いかにもアッバース帝国文化の最後の爛熟大成という印象の、知の巨人ですね。ただ、二人ともペルシア出身というのがおもしろいな。シルクロードの中心にあって、やはりそこに東西文化の粋が集結していたのかな。

一方、ヨーロッパは、ノルマン族やイスラム人という外敵の登場にもかかわらず、モラルは緩み、内輪もめを重ねていました。ビザンティン帝国では、皇帝の叔父の神父アサナシオス(c920〜c1000)が尊敬を集めていましたが、教会のあまりの堕落に嫌気をさして、すでに多くの修道士たちが隠遁していたエーゲ海北、カルキディケ半島のアトス山に移ってしまいます。おりしも、862年、スラブ人を征服したノルマン人ルス族が内陸部に新都という意味のノヴゴロド王国を建て、ビザンティン帝国との交流・交戦の都合で、さらにキエフ市に南下。これに対して、アサナシオスは、アトス山の修道士たちを組織し、修道院を建設して、これに抵抗。

イタリア半島でも、中部イタリア東側のスポレート公国がアグラブ朝を撃退し、西側の教会領をも実質的に支配。また、イングランドでは、アルフレッド大王(849〜王81〜99)が活躍し、ノルマン族の侵略を防いで、むしろアングロサクソン人を統一、興廃した国土の復興に努めました。彼はまた、宮廷学校を建てて、ボエティウスやアウグスティヌスなどのラテン語古典の翻訳、史書や法典の編纂も行っています。

フランク王国は、あいかわらず兄弟親族で領土争いを続け、870年、中フランク王国の相続に介入して、ロタリンギア、つまり、マース河とライン河の間を東西フランク王国で分割。その隙に、885年の冬、ノルマン族がパリ市を包囲。しかし、カロリング家でもないパリ伯ウード(c852〜王88〜98)が西フランク王となって、戦いの先頭に立ち、これをくい止めます。

J ノルマン族やイスラム人に対する反撃が始まったわけですね。

いや、こんどはすぐに反撃の盟主争いが起こってしまうんです。パリ伯ウードに対抗して、スポレート公グイド(855〜王88〜帝91〜94)も、西フランク王を名乗り、これが認められないと、ウード王と戦って、89年、イタリア王、91年には反西フランクの教皇によって、幼い息子のランベルト(c888〜帝91〜98)とともに西ローマ皇帝になります。ところが、次の教皇フォルモスス(c816〜教91〜96)は、スポレート公国を抑えようと、96年、ノルマン人やスラブ人を勇猛に撃退している東フランク王アルヌルフ(c850〜王87〜帝96〜99)も西ローマ皇帝に就けてしまいます。

これに怒った皇帝スポレート公ランベルトは、傀儡の新教皇を使って、97年、前教皇フォルモススの死体を掘り出して裁判にかけ、ローマ市のティヴェレ川に流し、アルヌルフの帝位を無効としました。 西フランク王ウードも898年に亡くなり、王位はカロリング朝のシャルル三世(879〜王93〜廃923〜29)に返上。西ローマ皇帝ランベルトも、わずか十歳で死去。スポレート公国も、グイドの小姓だったアルベリーコ一世に乗っ取られてしまいました。そして、その妻となったのが、ローマ南東の貴族の娘で絶世の美女、マロツィア(c890〜937)。

J うわ、なんかいかにも問題を起こしそうな女性が出てきましたね。


13.2.2. 次世代勢力の主導権争い(十世紀前半)

ローマ教会は、フランク族派(旧フォルモスス派)とイタリア派(スポレート公国派)に分かれて対立していましたが、マロツィアの愛人、イタリア派の教皇セルギウス三世は、904年、フランク族派の対立教皇を殺害し、事実上の世俗領主として君臨。一方、アッバース帝国でも、十世紀になると、地方軍人総督(アミール)たちが各地でいよいよ跋扈し、909年にはシーア・イスマーイール派伝統師のシリア人アブダッラー(873〜934)が、北アフリカのベルベル人の軍隊を組織。チュニジアのアグラブ朝を滅ぼし、第七預言者(マフディー)を自称するウバイドゥッラーを本国シリアから招いて、ファーティマ朝を建て、アッバース朝に対抗する「カリフ(後継指導者)」とします。

J つまり、キリスト教でも、イスラム教でも、露骨に世俗支配する宗教国家が登場してきたわけですか。

西フランク王国も、異民族を前にしながら、無能なシャルル三世王は、諸侯をまとめられず、がたがた。ボルドー市を中心にイベリア半島や南仏に侵入してくるイスラム人と最前線で戦っていたアキテーヌ公は、国王に見切りをつけ、910年、リヨン市の北80キロにクリュニー修道院を建てて、その大所領を強引な世俗的教皇セルギウス三世に寄進。イングランドでも、アルフレッド大王の後を継いだエドワード長兄王(c874〜王99〜924)が、アングロサクソン族の統一王としてノルマン族防戦のために教皇との連係を強めます。一方、シャルル三世王は、同族略奪でノルマン族から追放されていたロロを味方につけ、王女を与えて、ノルマンディー公として領土を割譲。東フランク王国でも、フランク族カロリング朝の支配が断絶し、地元のフランケン大公がドイツ王国を建てる。

J イスラム人やノルマン族などの侵略で、大移動以来のフランク族のヨーロッパ支配が揺らぎ始めた感じですね。

代わって、世俗化した領主教皇が勢力を拡大。ここで鍵となったのが、クリュニー修道院系領。これまで修道院は、地方領主がヨーロッパの森に植民開拓するための前線基地として機能してきました。まず僻地に修道院を建て、それを中心に村を作る。当然、その修道院も、その一帯も、私有領でした。これに対して、クリュニー修道院系領は、教皇直轄とされ、地方領主の要衝1200ヶ所をを虫食い状に奪取。また、その修道士二万名は、聖ベネディクト戒律に従って、個人財産を持たず、事実上の教皇の私兵として、どこへでも派遣され、大量の助修士、じつはただの農民を集めて、農耕はもちろん、ワインやビール、蜂蜜などの商品の生産で収益を上げた。

J 聖ベネディクト戒律って、529年にベネディクトゥスが作った、服従・清貧・純潔とかいうモンテカシノ系修道会の規則ですよね。でも、それって、「祈り働け」とか言いながら、実際は、ローマ的な贅沢三昧の俗物貴族主義にどっぷりだったんでしょ。クリュニー系は、なにか違ったんですか?

黒い服を着ていたのは同じ。農民たちを搾取して自分たちで働かず贅沢三昧に浸る俗物貴族主義も同じ。ただ、モンテカシノ系が地方領主の私有で、修道士でも司祭でもないその親族が院長になって支配していたのに対して、クリュニー系は、あくまで教会直属で、教皇が院長を指名。収益もすべてローマ教会が吸い上げた。

それと、やたらおどろおどろしく祈って、はったりめいた度派手な典礼と装飾、建築や音楽を発展させ、もうすぐ受難千年で、この世が終わるぞ、と脅した。これによって、無能な国王に見切りを付けた地方領主たちから膨大な寄進を受け、地方から逃亡した農民や新規に流入した移民を助修士ということにして囲い込んで、所領拡大を進めた。

J ああ、カロリング・ルネサンスとか、イスラム圏との交流交易とか、意外に中世も明るいなと思っていたけれど、このころからむしろいわゆる暗黒の中世に突っ込んでいくんですね。

アッバース帝国と同じく、イベリア半島の後ウマイヤ朝も群雄割拠。しかし、912年、若きアブド・アッラフマーン三世が(889〜アミール912〜カリフ29〜61)が再征服に乗り出し、北部レオン王国などを除いて、統一を回復。首都コルドバ市に壮大なザフラー(花)宮殿を建てる一方、旧貴族を削減し、奴隷を登用。インフラ整備による経済振興で、驚異の繁栄に至ります。

また、ローマのマロツィアも、ポルノクラシー、娼婦政治と揶揄されながらも、スポレート公の妻として、また、諸教皇の愛人や母親として、イタリアと全ヨーロッパのクリュニー系教皇領を支配。アグラブ朝に代わってイタリアに侵攻してきたエジプトのファーティマ朝に対し、915年、ローマ市とナポリ市の間、モンテカッシノのすぐ南のガリリャーノ川の戦いで、教皇諸侯連合軍を組んで、これを撃退。

エルベ河中流にあって、ノルマン人だけでなく、西進してきたマジャール(ハンガリー)人やスラブ人にも侵略に苦しんでいたザクセン公ハインリッヒ一世(876〜王919〜36)は、独自に戦って勢力を増大。むしろドイツ中央の東フランク王、西南のロートリンゲン公、南のシュヴァーベン公、東南のバイエルン公も実力で屈服させ、919年、みずから新たなザクセン朝の東フランク王として就きます。

J 乱世は権威より実力ですよね。

921年、シャルル三世はハインリヒ一世とボン条約で王位の相互承認したものの、諸侯に疎まれて廃位。ウードの甥、パリ伯ユーグ(c898〜フランス公36〜56)は、東フランク王ハインリッヒ一世に臣従し、また、26年には、イングランド長兄王エドワードの娘、エディルドと結婚して、カロリング家西フランク王に対抗。ハインリッヒ一世も、長男オットー一世(912〜王36〜帝62〜73)を、29年、同じイングランド長兄王エドワードの娘、エドギダと結婚させます。

J 各地のクリュニー系教皇領に加えて、イングランド王、パリ伯、東フランク王ザクセン公が婚姻外交を結び、イスラム人やノルマン人などの外敵に備えつつ、フランク族支配を封じ込めたということですね。

アッバース帝国も、その独占支配が終わりつつありました。929年、イベリア半島を再統一した後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン三世が、衰退するアッバース帝国やシーア派ファーティマ朝の「カリフ」に対抗して、みずから「カリフ」を名乗り、イスラム世界の次の指導者となることを表明。一方、アッバース帝国では、西のチュニジアのシーア・イスマーイール派ファーティマ朝だけでなく、東のイランでも、932年、シーア・十二イマーム派の地元イラン人アルダウラ(c891〜949)がブワイフ朝を興し、支配に抵抗します。帝国は、対ファーティマ朝として、エジプトに中央アジア・テュルク人奴隷傭兵(マムルーク)のトゥグジュ(882〜946)を送り込みましたが、935年、かってに独立してイフシード朝となってしまいました。

しかし、混迷するアッバース帝国の首都バグダード市においては、アル・ファーラービ(c872〜c950)が哲学の研究と教育に当たり、アリストテレスに次ぐ「第二の師」と呼ばれました。彼は、イスラム圏にいたキリスト教ネストリウス派の聖職者からギリシア語で古代ギリシア哲学を学び、アリストテレスの形而上学や論理学、認識論、倫理学、そして政治学を、統一的に紹介。もっとも、そのせいで、そこには新プラトン主義の影響も入り込んでいます。また、彼は、哲学の実践を強く説いていますが、不安定な時代にあって、宗教や政治の活動からは距離を置いていました。

J 崩れゆく帝国の最後の知の繋ぎ手というような人ですね。

ヨーロッパでは、932年、奸婦マロツィアがイタリア王ウーゴとサンタンジェロ城で再婚。ところが、実の息子、スポレート公アルベリーコ二世(c912〜プ32〜54)がこの結婚式を襲撃して、政権を奪取。かつてのローマ皇帝と同じ「プリンケプス」として、傀儡教皇たちを使って、イタリアだけでなく、ヨーロッパ各地のクリュニー系教皇領を支配。さらに、従来の修道院の院長を地元領主の親族から教皇の直接指名の聖職者にすげ替える叙任権闘争によって、勢力を拡大していきます。一方、東フランク王国でも、936年、ハインリッヒ一世が没すると、オットー一世(912〜王36〜帝62〜73)が、ゲルマン人の分割相続の慣習を破って単独で継承し、カール大帝をまねてアーヘン大聖堂で東フランク王として戴冠。おりしもエディルドを亡くしたパリ伯ユーグは、オットー一世の妹、ハトヴッヒと再婚し、さらに両国の結束を強めます。

J フランク族支配が衰退して、ドイツとイタリアで、次の主導権争いですか。どちらも、長年のゲルマン人の分割相続で細切れになってしまった領土をかき集め始めたのですね。

イスラム圏でも、もはやアッバース帝国に勢いはなく、エジプトのシーア派ファーティマ朝と争っている隙に、イラン高原の方のシーア派ブワイフ朝が中央の肥沃なバビロニアへ進出。946年には首都バグダード市も奪って、大総督(アミール)として政治の実権を握ってしまいます。とはいえ、シーア派に対しては大多数を占めるスンニ派の反発も強いことから、各地の傭兵軍人たちに、俸給ではなく、支配域徴税権、イクターを与えて、帝国を分割統治に転換。一方、西のシーア派ファーティマ朝は、海軍力を増強して、地中海支配を拡大。もはやエジプトのイフシード朝も射程に入れ、同じシーア派の東のブワイフ朝との対決は必至となっていきます。


13.2.3. 政権交代と文化振興(十世紀後半)

このころ、ビザンティン(東ローマ)帝国も、すっかり勢いを失い、暴虐なテュルク系遊牧民のブルガリア王を「皇帝」とし、政権も宦官や軍人に乗っ取られる体たらくでした。ところが、民衆の支持で、文人皇子コンスタンティノス七世(905〜皇帝45〜59)が皇帝となると、彼は、次の時代を担う北のノルマン人キエフ大公国や、西のドイツ王のオットー一世、後ウマイヤ朝カリフのアブド・アッラフマーン三世と結ぶ巧妙な外交政策によって、安定を回復させます。もっとも、彼自身は教養人で、宮廷に学者たちを集めて古典文化の復興に努め、後に「マケドニア朝・ルネサンス」と呼ばれることになります。

J 力よりも外交と文化ですか。

ところで、イタリア王位は、名ばかりながら、中フランク王国の名残りのブルグント(南仏)王のものでした。ところが、スポレート公アルベリーコ二世のように傀儡教皇を立てることでヨーロッパ各地に広がるクリュニー系教皇領を支配できるとなると、イタリア王の肩書は、俄然、大きな意味を持つようになります。それで、950年、隣のイヴレーア(トリノ)辺境伯がブルグンド王を暗殺、息子を未亡人王妃アーデルハイトと結婚させることで王位奪取を図ります。アーデルハイトは、東フランク王オットー一世に救援を求め、辺境伯親子を追放し、オットー一世と結婚。これによって、オットー一世は、イタリア王位を得て、ローマ市での戴冠を試みますが、これをプリンペプスのアルベリーコ二世がこれを阻止。

しかし、54年、アルベリーコ二世が急死。18歳の息子が教皇ヨハネス十二世(937〜教皇55〜64)となって、権力を継承。しかし、無謀な勢力拡大に走り、イヴレーア(トリノ)辺境伯領に攻め込んで、逆に教皇領に攻め込まれ、東フランク王オットー一世をローマ市に迎え入れて、かろうじて防戦。その見返りとして、962年、オットー一世を「ローマ皇帝」として戴冠せざるえなくなります。すると今度はイヴレーア辺境伯と謀って皇帝の追い落としを企て、これが露呈して、翌63年、廃位追放。代えて、皇帝は傀儡教皇を置きます。

J フランク族支配の後の、イタリアとドイツの主導権争いに、これで決着がついたのかな?

イスラム世界も、もはやアッバース帝国の次の勢力が台頭しつつありました。961年、イベリア半島を再統一してイスラムの「カリフ」を名乗った後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン三世が没すると、その子アルハカム二世(915〜カリフ61〜76)もまた「カリフ」を宣言。ただし、教養人の彼は、政治や軍事は宰相や将軍に任せきりで、みずからは文化振興でイスラムの、それどころか地中海世界の中心となることをめざします。

彼は、各地に学校を建て、多くの学者を集めるとともに、首都コルドバ市の中央寺院に世界最古の大学を設け、四十万冊もの蔵書を誇る図書館を建てます。かくして、後ウマイヤ朝では、ほとんどすべての国民が読み書きができ、北アフリカや中東のイスラム教圏はもちろん、ヨーロッパのキリスト教圏からも多くの学生が集まりました。

J ビザンティン帝国と同様、文化振興で世界の中心になる、ですか。

同じくイスラム世界で「カリフ」を称するチュニジアのシーア派ファーティマ朝は、すでに支配力を失っていた東ローマ帝国領のシチリア島へ進出。これとともに、ファーティマ朝と交易する自治都市アマルフィ公国がイタリア半島南部へ拡大。また、ヴェネツィア共和国も、ビザンティン帝国の保護下にありながら、ファーティマ朝との交易で隆盛していきます。

一方、このころ、アッバース朝カリフは、もう大軍事総督(アミール)ブワイフ朝の傀儡で、ブワイフ家からもらう日銭で、かろうじて宮廷を維持。首都バグダード市は、経済が停滞し、物資が不足し、土地や家財を売っても食料が手に入らないような状況。これに乗じて、ビザンティン帝国は、61年、クレタ島を奪還。さらに、968年には重装騎兵軍団でアンティオキア市まで再征服。

J ビザンティン帝国は、西でシチリア島やイタリア半島南部を失いながら、東でクレタ島やアンティオキアを取ったとなると、一進一退かな。

でも、その東方回復領も、すぐ新たな敵に脅かされることになります。すなわち、969年には、ファーティマ朝がエジプトのイフシード朝を滅ぼして、地中海東岸、アラビア半島西部へも進出。これとともに、ビザンティン帝国のマケドニア朝ルネサンスや後ウマイヤ朝のコルドバ大学に対抗して、新首都カイロ市にアズハル(光輝)大学を建てます。ここでは、シーア派としてのイスラムの神学や法学を中心としながらも、エジプトの遺産であるヘレニズム文化も積極的に採り入れ、プラトンやアリストテレスの研究がさかんに行われました。

でも、クレタ島奪還やアンティオキア再征服を果たした将軍皇帝ニケフォロス二世(913〜皇帝63〜69)は、ファーティマ朝より、まず、かってにローマ皇帝となったオットー一世に異を唱え、両者は南イタリア東岸で会戦。しかし、皇后の愛人将軍ヨハネス一世(925〜皇帝69〜76)が彼を暗殺。72年、神聖ローマ帝子オットー二世(955〜皇帝73〜83)とビザンティン帝女テオファヌが結婚することで、両国は和解。

73年、オットー一世が死去し、二世が神聖ローマ帝位を継いだものの、いとこのバイエルン公が従わず、西フランク王とも対立。一方、ビザンティン皇帝ヨハネス一世は、死に体のアッバース帝国へ侵攻し、シリアを奪取して、イェルサレム市のすぐ目の前まで進撃したものの、76年、毒殺されてしまいました。代わって帝位についたマケドニア朝直系のバシレイオス二世(958〜皇帝76〜1025)は、キエフ公国を従え、以前にローマ皇帝を名乗っていたブルガリアの征服に乗り出し、ビザンティン帝国としての最盛期を築いていきます。また、北アフリカのシーア派ファーティマ朝も、内部に各地のスンニ派軍事総督(アミール)委任領を含む宗主帝国として拡大します。

J なんだか帝国だらけですね。でも、とりあえず版図を拡げて、隣接帝国と対抗してみたところで、抱え込んだ国々が素直に権威を認めるわけもなく、内憂外患の不安定さが増しただけかも。

でも、帝国になりそこねた西フランク王国なんか、ひどいものですよ。クリュニー系修道院領で虫食いにされ、神聖ローマ帝国が攻め込んできて、おまけに、かつて一時的に王位を担ったこともあるパリ伯家はカロリング朝を軽んじる。そして、987年に家系が断絶すると、パリ伯ユーグ・カペー(c940〜伯56〜王87〜96)のカペー朝に取って代わられてしまいました。もっとも、この王朝は、しょせん一地方の伯爵上がりなので、ノルマンディー公やブルゴーニュ公をはじめとする他の大物地方領主たちは従わず、国がばらばらになっていってしまいます。

J 大移動以来のフランク族の支配も、とうとうこれで潰えたわけですね。

できたばかりの神聖ローマ帝国してもはなはだ脆弱で、28歳で病死した皇帝オットー二世を983年に継いだオットー三世(980〜皇帝83〜1002)は、まだ三歳。ビザンティン帝国出の母后テオファヌやブルグンド王国出の祖母后アーデルハイドに支えられて、どうにか維持。この隙に、ローマ市では、かつてスポレート公国下にあったサビーナ男爵クレシェンティウス家がサンタンジェロ城を拠点にして、枢機卿執事のボニファティウス七世を対立教皇として立てて、神聖ローマ帝国の支配に抵抗。

対立教皇ボニファティウス七世は、正統教皇を投獄して餓死させるなど、暴虐によってローマに君臨するも、85年に死去。しかし、こんどは彼を支援していたクレシェンティウス二世が、コンスタンティヌス帝やシャルル・マーニュ帝と同じ「ローマ父長(パトリキウス)」をかってに名乗って権力を掌握し、傀儡教皇を指名。

これに対して、若き皇帝オットー三世は、96年、ローマ市に進軍して、教皇を従軍司祭のグレゴリウス五世(c972〜教皇96〜99)に代えて戴冠。おりしも、フランス王国で同96年にユーグ・カペーが亡くなり、ロベール二世(972〜王96〜1031)が即位して、ブルグンド王国出でブロア伯の未亡人との結婚を企てます。その勢力拡大を嫌って、新婦がロベール二世のはとこに当たることを理由に、皇帝オットー三世は教皇グレゴリウス五世にフランス王ロベール二世を破門させます。クレシェンティウス二世ら反皇帝派貴族が反乱を起こしますが、皇帝オットー三世は、998年、サンタンジェロ城を襲撃して皆殺し。対立教皇は、目を潰し、鼻と耳を削いで修道院送りに。

J これが千年紀の終わりとは、なんとも血なまぐさい。でも、ドイツの皇帝とイタリアの教皇の問題は、まだまだ続きそう。