中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(前編)/純丘曜彰 教授博士
第一章 春の到来
13.1.1. 中世温暖期(〜八世紀前半)
J さあ、先生、いよいよ十字軍ですね。
いやいや、その前に、「暗黒時代」と呼ばれる時代の闇の中をのぞいてみましょう。十字軍でいきなりカトリックがイスラム征伐に乗り出したわけではありません。じつはむしろ、ムハンマド無くしてカール大帝無し、と言われるくらい、イスラム圏とヨーロッパは密接な関係、いや、それ以上の友好関係にあったんです。
J え、どういうことですか?
まず、七世紀の世界情勢から見ていきましょう。六世紀半ばに東ローマ皇帝ユスティニアヌス一世が、北アフリカのゲルマン人ヴァンダル王国など、地中海を再征服したものの、その後の衰退疲弊で、かえって七世紀の西欧は無政府状態に陥ってしまいました。
くわえて、再征服を免れたゲルマン人のフランク王国も、分割相続と宮宰政治のせいで、大きく四域に分かれて争い続ける。イタリアは、それまで東ローマに協力していたゲルマン人ランゴバルト族が奪取してイタリア王に。教会網のヒエラルキアで教皇グレゴリウス一世がかろうじて西ヨーロッパ全域を束ねたものの、これらの脅威を前に、その後の七世紀のローマ教皇は、あいかわらず東ローマ皇帝の威力に頼らざるをえませんでした。
一方、660年、ムアーウィヤのカリフ(後継指導者)僭称で始まったウマイヤ朝は、特権的アラブ人が原住民を遊牧する、という、それ以前の正統カリフたちの方針の延長線にあり、80年の彼の死で、世襲の是非から内乱になるも、92年に分家筋のアブドゥルマリクが五代目ウマイヤ朝カリフとして再統一。東ローマ帝国を牽制しつつ、貨幣発行や交通整備でアラブ帝国としての中央集権化を進めます。
J 同じ宗教的中央集権化でも、イスラムの方が勢いがあったようですね。
で、ヨーロッパの暗黒時代ですが、もともとヨーロッパなんて、真っ暗な森ばかり。でも、その丘の上や川の中州にローマ式の強固な石積みの教会と修道院ができ、それを中心にして移住してきたゲルマン人たちが粗末な住居を建て、それらの周囲に壁を築いた。その外側を畑として開拓しましたが、それより先は、あいかわらず山賊とオオカミと悪魔魔女が跋扈する暗い森。だから、日が暮れたら、壁の中に戻らないといけない。それゆえ、教会の鐘が聞こえる範囲が村の限界。
J たしかに、西欧の街って、教会を中心に壁で囲まれていて、その外側は家もなにも無しにただ畑が広がっていて、街と街の間はぜんぶ森ですね。教会の外に救い無し、っていうのも、いざというときに石造りの教会に逃げ込めるのでないと助からない、っていう意味で、リアルな感覚だったんでしょうね。『三匹の子豚』なんていうのも、中世からの寓話なのかな。
そんな原始回帰みたいな西欧ですが、農業だけは発展を遂げたんです。ゲルマン人は以前、パサパサした大麦の粥を主食としていましたが、旧ローマ領内にはローマ人の小麦畑が残されており、修道院は水車臼も備えていた。それで、彼らはグルテンの多い小麦で作ったパン食へシフト。大麦は、もうブタの餌。耕作に馬と車輪付きの鋤を使い、春蒔き大麦畑、秋蒔き小麦畑、そして休耕地を交代させる三圃制で地味を維持、さらに、ブタを大麦や森のどんぐりで肥育。そのうえ、これが中世温暖期と重なる。八世紀になるころから、世界的に気候が好転。かくして、食糧事情は劇的に向上、人口も増え続けた。
J おや、学芸はともかく、生活は、それほど暗黒でもなかったようですね。
逆に、イスラム世界では、中世温暖期のせいで砂漠での生活がきつくなったようですよ。再統一を果たしたアブトゥルマリクの息子、ウマイヤ朝カリフ六代目ワリード一世(674〜位705〜15)は、アラブ帝国としての基盤の上で、砂漠の外への広大な征服戦争を繰り広げます。東は、中央アジア、パキスタンへ、西は、北アフリカのヴァンダル王国跡を走り抜け、北上して、711年、ゲルマン人西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を征服。さらにピレネー山脈を越えて、内輪揉めを続けるゲルマン人フランク王国南部へ。これらの地において、彼は、既存のゾロアスター教やキリスト教の教会堂をイスラム教礼拝堂(モスク)に変え、学校や病院を整え、内政も充実させます。
しかし、715年、彼は42歳で病死。その弟が地位を奪うも、わずか二年でやはり病死。そして、717年、この兄弟の甥のウマル二世(682〜位717〜720)が第八代カリフに即位。このころになると、アラブ人以外でもイスラム教に改宗する者が増え、ウマル二世もまた、人間平等を唱う本来のイスラム精神に則り、積極的にアラブ人以外の異教徒原住民にも改宗を勧めました。でも、このことは異教徒庇護税(ジズヤ)の減少を意味し、ウマル二世は37歳で毒殺され、結局、異民族は改宗しても庇護税の賦課は続いて、かえって不満を高めてしまいます。
J 砂漠以外のところでは、中世温暖期の恩恵で、西欧と同様、食糧が増え、人口も増えていたんでしょうね。でも、それを少数のアラブ人で支配するなんていうのは、もうムリだったんだろうな。
でも、こんなふうに移住ゲルマン人たちを使って開拓する修道院が、耕地のほとんどを荘園私領としてまったために、帝国には税収が入らず、それでいて国土防衛だけ負担させられている状態に。それで、ウマル二世のイスラム精神高揚の影響もあったのか、東ローマ帝国でも、726年、皇帝が聖像禁止令を出し、イコノクラスム(聖像破壊運動)が起こします。
イスラムが強調実践するまでもなく、モーゼの十戒からユダヤ・キリスト教でも偶像崇拝が禁じられています。しかし、古代ギリシア・ローマの神像礼拝の影響や、文字の読めないゲルマン人の布教のために、キリスト教では、教会堂はもちろん街角や一般家庭内までイエス・キリストの十字架像が掛けられ、受難画や聖人画、聖遺物が溢れかえって、礼拝の対象とされていました。というのも、布教という名での聖像の製造販売こそ、移住ゲルマン人相手の修道院の最大の収益ビジネスだったからです。そして、イコノクラスムは、帝国に寄生して荘園私領を開拓買収し続ける修道院勢力を弱体化することが、ほんとうの目的でした。
J 十字架とか、敬虔そうに見えて、アクセサリーとしてもかっこいいですからね。最近も、キリスト教徒でもないくせに、首から十字架をかけているひと、いっぱいいますよ。
でも、皇帝直下のコンスタンティノープル教会はともかく、修道院を束ねる地方教会、とくにローマ教会は、イコノクラスムに激しく反発します。同じころ、フランク王国では、敗残兵をかき集めて蜂起した北東部宮宰の庶子、若き「鉄槌」カール、カール・マルテル(c688〜741)が、部族内対抗勢力と戦って四域をまとめつつ、732年にはトゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝イスラム帝国を撃退。その後、フランク王国の王は空位となり、彼が実質的な支配者となります。
歴代のローマ教皇たちは、この「鉄槌」カールの活躍を見て、イコノクラスムで高圧的な東ローマ皇帝への依存から、自前で西ローマ皇帝を復活させて傀儡として利用する方針に転換。ベネディクト修道会出身のボニファティウス(c675〜754)に、ゲルマニア伝道のミッションを与え、いまだに嵐神ヴォータンを中心とする多神教を侵攻するゲルマン人たちをキリスト教へ改宗させていくとともに、「鉄槌」カールの宮廷に取り入ります。
J でも、利用される「鉄槌」カールの方にメリットが無いでしょ。
いや、フランク族の中がぐちゃぐちゃで、一族の中で王としての絶対的な正当性を打ち立てる必要があったんです。おりしも、カール・マルテルが741年に死去。分割相続と兄弟争いの末、ピピン三世(714〜位51〜68)が全土を再掌握。教皇が支援して王族たちの反対を押し切り、751年、彼を新たな王として、カロリング朝を開かせます。そして、ピピン三世は、教皇に対する返礼として、東ローマ皇帝からイタリア王とされていたランゴバルト王国を倒し、その領土を寄進しました。
J ウマイア朝の方も、ウマル二世の後は、シーア派だとか、異民族改宗者だとかで、ぐちゃぐちゃでしたよね。
おまけに、北のコーカサス地方(黒海とカスピ海の間)ではテュルク系遊牧民ハザール人と、東のイラン高原では現地イラン人と、西のアフリカ北岸でも現地ベルベル人との戦いが生じ、それで、ムハンマドの叔父の子孫とかいうアッバース家が、国内の不満の高まりを利用して革命を扇動し、750年、王朝が交代。
13.1.2. アッラシードとシャルル・マーニュ(八世紀後半)
アッバース家は、政権を取ると、東のメソポタミア(現イラク)に首都を移し、異民族改宗者にもアラブ人と平等な権利を認め、むしろ積極的にペルシア人親衛隊で身辺を固める一方、ウマイヤ朝残党やシーア派を弾圧、オリエント風の豪奢で独裁的な帝国を築きます。
また、アッバース帝国は、その創成直後の751年に、西に勢力を拡大してきた中国、唐朝と、天山山脈の北側、中央アジアのタラス河畔の戦いで衝突。でも、その後、その南側のチベット帝国が、安史の乱(755〜63)で弱体化する唐朝を侵略。このため、唐朝は、反対側のアッバース帝国と協調してチベット帝国を牽制し、シルクロード貿易を繁栄させました。この連係によって、アッバース朝は、紙や火薬、印刷術、そして羅針盤という四大発明を手に入れ、海のシルクロード、海上貿易も発展させていきます。
J ちょうど日本で奈良の大仏ができたころの話ですね。フランク王国から、アッバース帝国、唐まで、シルクロードでつながっていたから、その東の端の日本で大仏に献げられた正倉院が異国風の財宝だらけになるわけか。
ウマイヤ家の王子アブド・アッラフマーン一世(731〜788)は、北アフリカへ逃走。イベリア半島に入って、コルドヴァ市に後ウマイヤ朝を興します。彼がもたらしたイスラム帝国の壮麗で豪奢な文化は、野蛮な原住民たちを圧倒し、多くの改宗者を集め、勢力を拡大。しかし、頑迷なキリスト教徒の反乱も相次ぎ、また、フランク王ピピン三世は、アッバース朝と連携して、後ウマイヤ朝を挟み撃ちにして、半島南部に追い詰めていきます。
そして、八世紀後半、ピピン三世の子、カール大帝、シャルル・マーニュ(c742〜王68〜帝800〜14)が、領土を拡げて最盛期を迎え、800年、教皇によってローマ皇帝とされ、フランク王・ローマ教皇と東ローマ帝国との対立は決定的となります。そして、イスラム帝国でも、アッラシード(763〜位86〜809)がアッバース朝第五代カリフとなって、領土を拡大、フランク王国と連携し、東ローマ帝国を攻撃侵略。カール大帝も、東ローマ帝国からクロアチアやボヘミア(現チェコ)まで勢力拡大。
J このころは、カトリックとイスラムって、東ローマ帝国を共通の敵として、けっこう仲が良かったんですね。
アッバース帝国カリフのアッラシードは、異民族改宗者を含めて公用語をアラビア語に統一。首都バクダードに知恵の館、「バイトゥルヒクマ」という私的図書館を作って、異端として東ローマ帝国を追放されて来たキリスト教徒たちにギリシア語のヘレニズム文献を翻訳させ、各地に学校や病院を創りました。また、ペルシア人アルファザーリ親子(父?〜777、子?〜c806)も、バグダードでインドの数学書や天文学書を翻訳し、アラビアの数学や天文学の基礎を開きます。こうして、科学、医学、哲学、そして文芸が、帝国全土で開花。
J アッラシードは、夜な夜なバグダードの街に繰り出す優雅な王さまとして『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』にも出きますよね。
ええ、その宮廷は華やかだったようですよ。壮麗な宮殿建築の中で、壁は世俗的な人物や植物の絵画が描かれ、ペルシア仕込みの豪奢な工芸品が溢れ、崇高なアブル・アターヒーヤや陽気なアブー・ヌワースのような詩人、多彩なイブラーヒムや甘美なジャーミのような音楽家をはべらせ、少年愛からワイン礼賛まで、なんでもありでした。
J え? 絵画とか音楽とか、まして少年愛だの、ワインだのって、イスラムじゃ厳禁だったんじゃないんですか?
イスラムに存在しないはずの王さまがいるくらいなんですから、そんなこと、気にすることはありませんよ。宗教画や宗教音楽ではないし、宗教家がなんと言おうと、帝国が広がれば、いろいろな人や物が街に溢れるのは当然。アッラシードは、友好関係にあるフランク王国のカール大帝に、シルクや香水、水時計などの最先端の珍しい財宝を贈って、驚かせたりもしています。
J そりゃ、ユーラシア大陸の端のフランク王国では、見たこともないものばかりだったでしょう。
そのフランク王のカール大帝も、ヨーロッパの中心、アーヘン市(現ドイツ・ベルギー・オランダ国境)に宮廷を構え、アルクィン(c735〜804)をはじめとする修道院教育者を招聘して学校を開かせました。彼自身は字が読めませんでしたが、広大な王国の管理と教会との関係の維持のため、公用語を方言だらけのゲルマン系諸語からラテン語に統一し、字の読める官僚や聖職者を養成することが急務であると考えたからです。ここにおいて、ラテン語学はもちろん、かつての自由七科、つまり、文法、弁論、修辞、幾何、算数、天文、音楽も教えられ、十万余もの古典写本が作られて、「カロリング・ルネサンス(文芸復興)」とも呼ばれます。
J アッバース帝国同様、フランク王国も公用語の統一が文化発展の鍵になったようですね。
とはいえ、急進的な変化は、反発も招きます。アッバース帝国において、知識人(ウラマー)のムウタズィラ派は、思弁的な神学から、神は唯一絶対で公正であり、したがって、ウンマ(信徒共同体)もまた唯一絶対で公正である、として、現状を追認。しかし、庶民では、古い伝承に従う生活こそ神との一体化である、として陶酔する保守的な「伝承(ハディース)の徒」が流行。
そこで、法学者シャーフィイー(767〜820)は、法源を『クルアーン』、スンナ(慣例)、キヤース(類推)、イジュマー(合意)の四つとし、とくに四番目のイジュマーによって、柔軟な対応を図ります。しかし、シーア派は、法解釈は、アリーの子孫、イマーム(霊的指導者)の専権であると主張し、政治を離れ、『クルアーン』の隠された意味、バーティンを伝える神秘主義に傾倒。また、スンニ派内部においても、イジュマー(合意)が知識人たち(ウラマー)の合意なのか、それとも、大衆庶民の合意なのか、すぐに揉め始めます。
J みんなで決めよう、なんて、きれいごと言っても、こんな大帝国、そうかんたんにまとまるわけないですよ。
13.1.3. 知恵の館とパリ宮廷学校(九世紀前半)
たしかに、イジュマー(合意)主義は、広大なアッバース大帝国にはムリがありました。宗派ごと、地方ごとにまったく異なる合意が成り立ってきて対立し、イスラムの根幹となる唯一の神の唯一のウンマ、共同体が分裂してきてしまったのです。
J つまり、ばらばらの国になってしまうということ?
このころになると、周辺部の軍事総督、アミールたちが管轄地を私領化して独立性を強めていきます。たとえば、アフリカ北岸チュニジアでは、中央アジア・バクトリア人総督(アミール)が800年にアグラブ朝を興します。とはいえ、中央のアッバース朝に逆らうわけではなく、むしろその権威を借り、たがいに妥協的な関係を維持。
809年に第五代アッラシードが亡くなると、母の血筋の高い弟アミーンが第六代カリフになる一方、兄マアムーン(786〜位813〜33)が帝国東半ペルシアを相続。アラブ人とペルシア人の内戦となり、弟アミーンを殺害してマアムーンが第七代カリフとなりましたが、シーア派も取り込んだせいで、逆にスンニ派の反乱が頻発。イラン東部では、アラブ人総督(アミール)が821年にターヒル朝として独立してしまいます。
J もう中も外もがたがたですね。
ところが、こういう時代こそ、文化が熟成するものでね。マアムーンは、本人が詩人で幾何学マニアという教養人で、父アッラシードの創った首都バグダート市の私的図書館「知恵の館」を公的なアカデミーとして門戸を開き、アルファザーリ親子に続けて、遠く中央アジアから万能の天才学者フワーリズミ(c780〜c850)を招いて館長に据え、代数学や天文学、地理学の研究を行わせ、また、博覧強記の哲学者アルキンディ(c801〜c873)を地元バグダード市から抜擢。アリストテレスに倣って百科全書的な知をめざします。
このために、アルキンディは、アッシリア人ネストリウス派キリスト教徒の医師、「ヨハンニティウス」として知られるイツハーク(c808〜c73)をはじめとして、さらに多くのギリシア語学者を集めて翻訳を進め、プラトンやアリストテレスの哲学、プトレマイオスの数学、ピポクラテスやガレノスの医学をイスラム世界に紹介していきます。
J ローマ人が軍事バカで、アレキサンドリア図書館を三世紀に自分たちの戦争で破壊してしまいましたからね。そこで散逸してしまったギリシア文化を知恵の館が再収拾して後継者となったわけですね。それにしても、フワーリズミとか、アルキンディとか、ダヴィンチを先取りするような万能の天才をよく集めたものですね。
このころ、ヨーロッパでも、大きな変化が起こっていました。北方のデンマークやスカンジナヴィア半島の狭い氷の入り江に閉じ込められていたゲルマン人ノルマン族も、中世温暖期になると、食糧事情が改善して人口が増大し、それで、北海を越え、西の大ブリテン島やアイルランド島の沿岸部を侵略。カール大帝のフランク王国が拡大すると、むしろ逆に大陸側に進出。
J でも、そんな辺境の連中より、フランク王国の方が強かったのでは?
いや、ノルマン族は、独特のヴァイキング(襲奪)船を使った。これは、底の平らな箱船で、前後両方に反り上がった竜骨船首が付いていて、船長20メートルもありながら、中央の一本マスト以外、船室もなにも無い。これに百人近くが乗り込み、外洋では乗員や荷物を後にずらして船尾竜骨部を沈め、キール抵抗と横風で進んだ。そして、河口からは、水平にして、オールで遡上。この船は喫水が浅いので、かなり上流の支流まで入り込め、いきなり内陸の都市を襲撃略奪した。
J うわぁ、沿岸はもちろん、河沿いの都市は、みんなダメですね。
おまけに、イスラムもヨーロッパへの侵略を開始。チュニジアのアグラブ朝がビザンティン帝国支配下のシチリア征服に乗り出し、さらにイタリア半島南部に迫る。アッバース帝国本体も小アジア(現トルコ)アンカラ市まで進出。カール大帝を継いだフランク王ロタール一世(795〜王40〜55)は、841年、ノルマン人に現オランダ沿岸部の支配を認め、彼らをノルマン侯として懐柔を試みますが、フランク王国自体が兄弟間の相続争いで、843年のヴェルダン条約により三分割されてしまい、自分は主要な中フランク王国を取る。
J ああ、それ、アルプスを越えてオランダから中部イタリアまで南北にやたら細長い、廊下みたいな変な国でしょ。
あれ、当時の主要都市をつないだ街道国家なんですが、民族もバラバラで、首都アーヘン市の宮廷いて管理できるような領土ではありません。中部イタリア、かつてのランゴバルト王国領は、カール大帝に征服されて、西側が教会領、東側がスポレート公領となっていましたが、この隙に、アグラブ朝は、846年、その西側の教会領を襲撃略奪。このため、東側のスポレート公が単独で戦って撃退。
そうこうしているうちにも、ノルマン族は北側からの侵略を進め、エルベ河、ライン河、セーヌ河、ロワール河の内陸まで攻め込む。それどころか、ノルマン族はイベリア半島を回り、地中海に入って、コンスタンティノープル市に到達。ポーランドのヴィスワ河やラトヴィアのダウガヴァ河と、黒海側のドナウ河、ドニエストル河、ドニエプル河の両方から、スラブ族の南ロシア平原を征服。
J これじゃ、ヨーロッパはよほど混乱していたでしょ。
ところが、不思議なことに、バグダード市の知恵の館同様、こんな時代でも西フランク王国パリ市シテ島の宮廷学校は、むしろ活況を呈していました。というのも、ノルマン族の襲撃から逃れて来た多くのアイルランドの文化人たちが、ここに招かれていたからです。彼らは、辺境の修道院で、五世紀の初めにキリスト教が伝わった当時のヘレニズムかぶれのローマ文化をそのまま残しており、これが九世紀の人々には、むしろとても新鮮だったのです。
J ああ、辺境だったからこそ、タイムカプセルのように、その後のゲルマン化やフン族の混乱の影響を受けなかったわけか。
ええ、それで彼らは、カール大帝のラテン文化ルネサンスに続いて、ギリシア文化ルネサンスをもたらします。とくにエリウゲナ(c810〜c877)は、ギリシア語にも堪能で、五世紀に整えられたローマの自由七科にも詳しかった。しかし、エリウゲナは、御用学者として、やっかいな問題に巻き込まれます。このころ、ある修道士が、天国へ行く者と地獄へ行く者は最初からそれぞれ決められている、という双対予定説を唱え出し、信仰を奨励したい教会や国王は、これを断罪する理屈をひねり出せ、と依頼されたのです。
J だけど、予定説って、アウグスティヌスも主張していて、それが正統と認められていたんでしょ。
いや、アウグスティヌスが言っていたのは単純予定説で、その人が自分でかってに自由を貪ったせいで悪事を犯し地獄に墜ちるのであって、神がその人に悪事や地獄を予定していたわけではありません。だから、エリウゲナも、神は存在であり、存在の欠如である悪事や地獄は神の外のことだ、としました。しかし、この彼の主張は、あまりにドライすぎて、かえって異端の疑いをかけられてしまいます。
J まあ、ものの言い方の問題なんでしょうけれど、たしかにエリウゲナの主張だと、神の人格的な慈悲とか恩寵とかも無いような印象ですね。
どうもエリウゲナは、哲学も、神学も、パリ市に来てから学んだようで、なかでも彼はあるギリシア語文献の影響を強く受け、そのラテン語を翻訳した。その著者は、自分を使徒パウロの直弟子だったアテネ元老院議員(アレオパギタ)ディオニシウスだと言うのですが、これは六世紀に突然、世に出てきたもので、内容も、そのころのイエスの神性と人性の論争を調停すべく、新プラトン主義を援用したもの。
J つまり、それ、偽書ですよね。
たしかに著者は紀元一世紀のディオニシウスを語るニセモノですが、むしろさんざんの神学論争が落ち着いた後に書かれただけあって、カトリック正統教義の上に成り立っており、神学の祖となりうるものでした。だから、新プラトン主義を援用すると言っても、一元論的で汎神論的なプロティノスの流出説は取り除かれ、神と被造物の絶対区別のために、むしろプラトン本来の離存分有説や弁証法を復活させています。すなわち、神は、被造物的な肯定や否定を越え、一の存在にして多のイデアなる者で、輝く闇。これに対して、被造物はその神の光に照らされる程度に応じて存在させられている、とされます。
J うーん、たしかにカトリック正統教義とプラトン哲学をうまく合わせているようですけれど、やっぱりずいぶん無機的な神学ですよね。
でも、エリウゲナは、この偽ディオニシウスの神学を独自に発展させます。ディオニシウスが、あくまで神と被造物の静止的な位置づけであるのに対して、エリウゲナは、キリスト教の創造と終末の歴史観と合わせるべく、これを原因と結果の力動的論理(ロゴス)の発展と見なした。
彼によれば、最初、創造されず創造する神が自己認識として、創造され創造する類的なイデアを立て、これが創造され創造しない個的な被造物として、精神性のみの天使、精神性と物質性を併せ持つ人間、物質性のみの諸物を成す。しかし、これらの被造物は、みずから類的なイデア、そして創造されず創造しない神へ回帰しようとする、とされます。
J つまり、被造物としての個性は殺して、天上界的な類的イデアに徹しろ、そうすれば神の御許に近づける、ということかな。いかにも暗黒時代っぽい神学ですね。
(後編に続く)