感染症の流行により、私たちの生活は一変してしまった。

自粛生活、ソーシャルディスタンス、リモートワーク。

東京で生きる人々の価値観と意識は、どう変化していったのだろうか?

これは”今”を生きる男女の、あるストーリー。

▶前回:タワマン上層階に住む専業主婦。自粛の息抜きにバイトをしたら、職場の男とまさかの展開に




Act.12 1,800kmの織姫と彦星

2020年10月


コバルトブルーの海に、どこまでも続く青い空。

白い砂浜にふりそそぐ太陽の光…。

『ウルフギャング』からタクシーでデリバリーされたTボーンステーキを味わいながら、渡辺涼音は遠い南の島に思いを馳せていた。

「去年はハワイで食べたんだよね…次行けるのは、いつになるのかな…」

10年前、大学の卒業旅行で初めて南国のビーチリゾートを訪れて以来、その魅力に取りつかれた涼音。

ハワイはもちろん、セブ島にパラオ、ボルネオにモルディブ。国内でも奄美大島や石垣島、そして宮古島…数えればきりがないほど、国内外のあらゆる場所へ訪れた。

休みのたびに世界各地のリゾートを訪れ、ラグジュアリーなコンドミニアムや高級ホテルに泊まり、贅の限りを尽くすのが恒例となっていた。

なかでも、宮古島は国内という気軽さもあり、年に1回は訪れているお気に入りの場所だ。

もはや、旅行のために働いている状態の涼音。広告代理店の営業として昼も夜もなく働けるのは、このご褒美があるからと言っても過言ではない。

しかし、このコロナ禍…。

涼音の南国成分は、もはや飢餓状態だ。

沖縄には行こうと思えば行けるが、お気に入りの店も休業。歓迎されていない状況で旅行するのも忍びない上に、十分楽しめないのは痛い。

― もう、我慢できない…!

涼音はこの苦しみを解放させようと、SNSで愚痴ることを思い立つ。

すると、開いたパソコン画面には、宮古の青い海が広がっていたのだった。


SNSで見た鮮やかな光景に、涼音の心は癒され…


涼音の目にとまったのは、宮古在住の友人・ケンタの投稿だった。

『かぎすま!またやーさい!』

夢のような場景の写真の数々と、宮古の美しい島に来てほしいという意味のキャプション。それは、涼音の気分を南の島にトリップさせた。

『ケンタ、この状況じゃなきゃ今すぐにでも行きたいくらいだよ!』

思わずコメントを残すと、すぐに彼からダイレクトメッセージが届く。

『おひさしぶり!げんきー?』

ケンタは現地で出会い、宮古に行くたびに涼音を案内してくれる友人だ。生まれも育ちも宮古で、観光に携わる様々な仕事をしている。

『全然元気じゃないよ…ずっと自粛生活だし。でも、海の写真ですごく元気が出た』

『これから毎日写真送るから、元気出してー』

32歳の涼音よりも1つ年上の彼。にもかかわらず可愛らしさがあり、何より無邪気でおおらかな人間性に癒される。

以来、涼音はケンタとメッセージや写真を頻繁に交換するようになるのだった。




『はい〜。涼音ちゃんは今日も仕事かな?』

『うん。でもリモートだから、仕事しながらケンタとチャットできるよ』

閉塞的な毎日に現れた太陽のような存在。

涼音はケンタから送られてくる現地の写真に、毎日心躍らせた。写真とメッセージだけでは飽き足らず、ビデオ通話も長々とするほど親密になっていった。

「宮古は今、夏みたいな天気だね。東京は雪が降りそうな寒さなのに」

「じゅんになぁ!?自分、雪を見たことないんだぁ」

「そうなんだ。見せてあげたいよ…」

東京と宮古。約1,800kmも離れている。

しかし、2人の心の距離は日に日に近づいていった。それに比例して、涼音は彼に会えない辛さでたまらなくなる。

それは彼も同じようで…ついに、ケンタからその言葉を告げられたのだ。


2021年10月


「涼音ちゃん。自分と、結婚を前提に交際して欲しいんだ」

コロナ禍も少しだけ落ち着く気配を見せはじめたころ、改まった言葉でケンタからプロポーズされた。交際期間はないようなものだが、特に断る理由はなかった。

私たちは、いずれ結ばれると思っているからだ。

― もしかして、私が宮古によく行っていたのは、彼がいたからなのかも…。

初めて宮古に訪れた際、ダイビングスクールのスタッフをしていた彼に出会った。彼の人懐っこさと明るさですぐ心を開き、SNSでも繋がった。

次に行った時は、島内をまわるチャーター車の運転手として偶然に彼と再会する。その翌年は彼が年金通り近くにバーを開店したと聞き、そこで地元の人たちと楽しい夜を明かした。

涼音の宮古の思い出は、常に彼とともにあった。でも、旅の間だけの仲と割り切っていた上に、実際そうだった。

織姫と彦星のように、年1回会って、疑似恋人気分で楽しむような関係。SNSで繋がっていても、ただ、それだけのものだと…。

― 私は、彼を愛することから逃げていた。でも、会えなくなって気づいてしまったの…。

「私も早く会いたい…一緒に住みましょう」

涼音がその気持ちを口にしてからというもの、お互いの行動は早かった。彼は定職についていない分、フットワークも軽い。

ケンタはさっそく上京のための諸々の手配を済ませ、1ヶ月後には涼音の前に姿を現したのだ。


何千キロも離れた地からやって来た最愛の恋人…彼は東京の生活に馴染めるのか?


「ケンタ…!」

自宅の最寄り駅に現れた彼。涼音は会うなり、彼の胸に飛び込む。

いつもは青い空の下で会っているが、この東京の空の下で見ると少々雰囲気が違ってみえる。どこか怯えているようだった。聞けば、電車に乗ったのは旅行で本州に行って以来だったとか。

そんな様子も涼音の母性本能をくすぐった。

― きっと、知らない場所だから、不安なのよね。

その夜は、街の紹介もかねて行きつけのハワイアンで食事をした。自分の婚約者として彼を紹介する。

ケンタはオーナーのシンジさんとすぐに親しくなり、いい常連さんになれそうだと涼音は感じた。




そうして、しばらく2人だけの甘い生活を楽しんだ。

住むのは涼音の部屋。代々木の1LDK。2人だと手狭ではあるが、もちろんゆくゆくは引っ越しをする予定である。だが…。

「自分さ、海の近くがやっぱいいんだよね。南房総あたりがいいんじゃない?」

暮らし始めて2週間ほどたった頃。

ケンタは涼音が会社帰りに不動産屋でもらってきた物件のコピーをろくに見ず、机の上に置いて言った。

「え…通勤があるから、それは難しいかな」

「でも、考えておいて欲しいな。ゆくゆくはカフェを開きたいんだよね」

初耳だった。

ウィズコロナといえども、すでに日常生活がだいぶ以前のように戻ってきている。夢見がちだった涼音の脳内も、すでに現実を思い出してきていた。

― 千葉の海沿いでカフェか…確かに素敵な生活、とは思うけど…。

実は、ケンタは上京以来特に何をするわけでもなく、涼音の家にゴロゴロと居候状態だ。たまにシンジさんに誘われて、どこかに出かけるくらい。

生活に慣れるまでと、大目に見ていたがあまりにものんびり過ぎる。

その間、涼音は仕事をしているというのに…。“県民性”というものがあるのかもしれないが…。

「ねえケンタ、お仕事は探している?昼間はいつも何しているの?」

出社制限も解除され、その反動で激務からヘトヘトで帰ってきた夜。

ケンタに思い切って聞いてみると、返って来たのは驚くべきものだった。

「シンジにね、“海”に連れて行ってもらっているんだ。リーチになると魚がワーって出て来てね…」

なぜかケンタは右手でドアノブを回すようなジェスチャーをしている。意味がわからなかったが、ふと気づく。

― そういえば家になぜか見たことがない駄菓子があった…。シンジさん、ギャンブルが趣味だし、まさか…。

「自分、向いているのかな〜。大儲け」

彼の笑顔を見つめながら、涼音は、宮古に行くたびにケンタの仕事が違っていたことを思い出す。

1年に1度、夢のようなシチュエーションで会う時には気にならなかったが…。

「そう。がんばってね…」

自粛生活の頃は素敵に見えていた彼の奔放さと無邪気さが、この瞬間から幼稚なものにしか見えなくなってしまった。

涼音は冷静になるため、ベランダに出て空を見上げた。東京の星ひとつ見えない明るい夜空を眺め、ぼんやり思う。

― そういえば、織姫と彦星が離れ離れにさせられた理由って、確か一緒にいたことで堕落した生活になったから…だったよね。

自分たちは、離れていた方がロマンティックでいられるのかもしれない。

非日常のなか、夢のような幻の海に溺れていた自分。

涼音はそんな自らの罪を悔いながら、できるだけ彼を傷つけず元の関係に戻る方法について、考えをめぐらすのだった。

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