前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その3】

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1868年1月3日から6日までの4日間、京都洛南の鳥羽・伏見において、徳川慶喜を擁する旧幕府軍と薩摩を中心に長州などを主力とする維新政府軍の間で、激戦が繰り広げられた。

戦闘は、維新政府軍の連戦連勝により、旧幕府軍はじりじりと大坂に追い詰められていく。旧幕府軍の失地回復は、大要塞・大坂城での徹底抗戦しか残されていなかった。

そんな中、1月6日の夜、慶喜は股肱の臣を伴って、突然大坂城を脱出した。

結果的に、この敵前逃亡が徳川家復権の望みを断ち切る決定打となった。なぜ、慶喜は大坂城から逃げたのか、その真相を探っていく。

これまでの記事

前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その2】

慶喜東帰の真相に迫る

明治時代の江戸城。将軍就任以来一度も戻らなかった江戸城を慶喜は目指した。(写真:Wikipedia)

ここまで、【その1】【その2】の2回に分け、鳥羽・伏見の敗戦から大坂城脱出、開陽丸での東帰を通して、徳川慶喜の言動を述べてきた。

ここからは、なぜ慶喜が大坂城脱出という前代未聞の敵前逃亡を行ったか、少しでもその真相に迫るため、「尊王説」「深慮説」「変節説」の3つの説を考察していこう。

1.慶喜東帰の真相とは「尊王説」

「尊王説」は、徳川慶喜が水戸藩主の家に生まれたことに基づく。

水戸藩で奉じられた学問が水戸学で、尊王攘夷を源泉としながら、内憂外患の危機にいかに対処するかを説いたものだ。

このような学問に幼少の頃からどっぷりと浸っていた慶喜が、尊王の志を人一倍持つのは当然のことだろう。

慶喜は、1863年の「八月十八日の政変」で、京都から長州藩が追放された後、禁裏御守衛総督として京都に常駐する。「禁門の変」では、御所守備軍を自ら率いて、御所に押し寄せた長州藩兵を退けた。

慶喜の働きに対し、時の孝明天皇は絶対的に信頼した。慶喜もまた、孝明天皇の信任に応え、持ち前の政治力を遺憾なく発揮したのだ。

そんな慶喜だけに、大政奉還後は天皇を頂点にした挙国一致の政治体制の確立を目指していた。

水戸学の下では将軍という地位は大した意味を持っていなかった。それよりも、天皇という存在が絶対的であったと思われる。

それ故に、鳥羽伏見の戦いで、錦の御旗が維新政府側に翻り、慶喜に朝敵の烙印が押されたことが決定打となった。この時点で、慶喜の恭順の意志は固まったのである。

浮田可成画、錦旗(赤地大和錦御旗)。錦旗は錦の御旗の略称。維新政府軍はこの旗を先頭に掲げた。(写真:Wikipedia)

2.慶喜東帰の真相とは「深慮説」

この説も半ば尊王説と被るところがある。天皇の存在を絶対的なものと考える慶喜にとって、将軍職や幕府は、来るべく国家体制には不必要なものであった。

欧米列強に対抗するためには、一刻も早く天皇を頂点にした挙国一致の政治体制の確立が必要だった。もし、慶喜が執拗に薩長を中心とする維新政府に反抗すればするほど、内戦が長引くことになる。

慶喜が江戸に戻り、兵力を整え、維新政府軍を迎え撃つなり、京都へ攻め上りなりすれば、薩長の討滅など難しくなかった。

にもかかわらず、慶喜はそれをよしとせず、臆病者との誹りを受けながらも恭順謹慎に徹し、ひとえに内乱を回避した。

このことは、1月23日に勝海舟が示した二者択一案も影響を与えたと考えられる。

自分(海舟)が艦隊を率いて、駿河の海岸に兵を上陸させ官兵を阻止するとともに、艦砲射撃をもって殲滅します。

その上で、軍艦で大坂湾に乗り入れ、西国・中国の海路を閉鎖すれば、敵には最早打つ手はなくなるでしょう。

我が軍の軍事力をもってすれば勝算は十分です。しかし、それ以降は終わりの見えない戦乱になることは必至でしょう。

もし、上様がおやりになれとおっしゃるなら、我らは一死をかけてやりますぜ。お覚悟のほどは、いかがか。(『勝海舟上書』)

勝の半ば脅迫ともとれる提案を慶喜は否決した。その上で、2月21日、幕臣一同に不戦を徹底する由の沙汰書を下した。

慶喜の行動は、たとえ自分と幕府を犠牲にしても、あくまで日本の将来を深く考えてのものであった。慶喜がいたからこそ、明治維新は成ったのである。

このような評価は、現在放映中の大河ドラマ『青天を衝け!』の主人公・渋沢栄一が編纂した『徳川慶喜公伝』によりところも大きいかもしれない。

明治に入り、長らく謹慎して表に現れなかった慶喜に代わり、明治維新を創成した最大の功労者は「まごうことなく徳川慶喜である」ということを世に広めようとしたのだ。

慶喜の孫にあたる榊原喜佐子は後年以下のように語っている。

おじじ様は天子様に政治をお返しあそばれたのです。

おじじ様がいらっしゃったから、御一新ができたんでございますよ(榊原喜佐子『徳川慶喜家の子ども部屋』)

徹底抗戦か、恭順か、慶喜に二者択一を迫った勝海舟。(写真:Wikipedia)

3.慶喜東帰の真相とは「変節説」

尊王説・深慮説はともに、慶喜のひとえに朝廷を重んじる精神と自己犠牲によるもので、言い換えれば、慶喜を称える説である。

しかし、これから述べる変節説は、慶喜の人間像を貶めるものといえるだろう。

では、慶喜の変節とは何か。それは、1月7日の開陽丸上での慶喜と松平容保の会話に対しての会津藩の所見から伺える。

あのように勇ましい演説を行い、我が軍の士気が大いに盛り上ったのにもかかわらず、何故、こうも急に東帰することを決心されたのか。(松平容保/『会津戊辰戦史』)

あのような調子でやらなければ、皆が奮い立たないからだ。あれは一種の方便だよ。(徳川慶喜/『会津戊辰戦史』)

この会話に対し、会津藩はこう所見した。

5日に大坂城大広間で内府が述べたことは、心からそう思ったことであったに違いない。

その時は、維新政府軍と徹底抗戦をしようと決意していたのだ。しかし、この後に例の変節病が頭をもたげ、急な東下を決心したのだ(『会津戊辰戦史』)

会津藩がいう「変節病」とは何を指すのか。文芸評論家の野口武彦氏は『鳥羽伏見の戦い』の中で、こう指摘している。

それは、1866年の第二次長州征伐の折、旗本一同を集めて、「たとえ、千騎が一騎になるとも、山口城まで進入して戦を決する覚悟なり」と大見得を切りながら、前線の敗退を知るとたちまち意気阻喪し、止戦を願い出て孝明天皇の怒りをかった。

大坂城大演説で、「城を枕に討死」と大見得を切っておきながら、鳥羽伏見で味方の敗戦を前にすると、意気阻喪して、江戸に逃げ帰った。

この慶喜の言動は、長州征伐でも鳥羽・伏見でも、そっくりだというのだ。そして、野口氏は、慶喜の変節病の原因を「臆病風」と言い切った。

慶喜を将軍に推した人物の一人・松平春嶽(しゅんがく)[越前福井藩主]もまた慶喜の人間像についてこう述べている。

慶喜公は、才知優れた人物だ。

しかし、あまり知る人はいないと思うが、とても肝の小さな性質なのだ。胆力が小さい故、なにごとも決断することができない。(『逸事史補』)

戦うも、戦わないも決断ができない。慶喜とはそういう人だ。余りにも辛辣な春嶽の見方である。

慶喜を将軍職に推しながら、その人物像を厳しく評した松平春嶽。(写真:Wikipedia)

 

「禁門の変」の折、死に物狂いで御所に攻めかかる長州軍を相手に、御所を死守した慶喜はどこへ行ったのか。

銃弾が激しく飛び交う最前線で、文字通り長州兵と切り結んだ慶喜は、本当に小心で臆病者だったのか。

時流が自分に向いているときは強いが、一旦その流れが逆流になると、とたんに弱くなってしまうのだろうか。

目の前に迫る維新政府軍も怖い。さらに、徹底抗戦の上に万が一敗れたら、確実に死罪は免れない。事実、江戸東帰後に、和宮が慶喜の助命嘆願をとりなした。

これに対し、大久保一蔵(利通)は、はっきりと突き放している。

和宮にとりなしを依頼するなど、あほらしいことだ。

朝敵として親征まで決まっているというのに、謹慎くらいで謝罪とするなど愚弄するのも甚だしい。(『大久保利通文書』)

抗戦か、恭順かと迷っているうちに、恐怖感がどんどん押し寄せてくる。

臆病風に取り付かれた慶喜は、恐怖のあまり、大坂城から江戸に逃げ帰った……ということなのであろうか。

禁門の変で、慶喜が長州軍を阻止した御所・蛤御門。(写真:T.TAKANO)

まとめに代えて・慶喜恭順の代償

将軍就任前、禁裏御守衛総督時代の慶喜。(写真:Wikipedia)

 

3回にわたり、徳川慶喜がなぜ大坂城から逃げ出したのかを考察してきた。

「尊王説」「深慮説」「変節説」はいずれも可能性がありそうだが、どれが真実であるかは、残念ながら確証はできない。

そこで、最後に私見を交えながら、まとめに代えたいと思う。

徳川慶喜の人物像を俯瞰すると、とびぬけて頭が良く、弁の立つ人物だというのは間違いないだろう。しかし、反面、優柔不断な部分も併せ持っていた……という印象もぬぐい切れない。

歴史とは面白いもので、大きな転換期に、このような人物にその判断を委ねたのだ。

その後の歴史を紐解いてみると、

明治維新政府は、富国強兵・殖産興業をスローガンに帝国主義の道をひた走った。その中心は、薩摩・長州の2藩による藩閥政治、すなわち政治独占形態だった。

日本陸軍の父と呼ばれ、総理大臣を2度も務めた長州出身の山縣有朋。伊藤博文と並ぶ藩閥の巨頭。(写真:Wikipedia)

 

もちろん、そこには慶喜が目指した挙国一致の政治体制は微塵もなかった。

そうなることを賢明な慶喜は見抜くことができなかったのか、それとも、ここでも逃げを打ったのか、それは慶喜だけが知ることだろう。

3回にわたり、お読みいただきありがとうございました。