村山 昇 / キャリア・ポートレート コンサルティング

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東京オリンピック・パラリンピックの組織委員会会長の後任人事をめぐり、メディアは連日大きな盛り上がりをみせました。晴れて後任が決まったわけですが、後任者によるリーダーシップが「人を導く」形になるのか、それとも「人を率いる」形になるのかが注目されます。きょうはそんなリーダーシップの原義に関わる内容です。

導くとは「道に手引きをする」ことで「自分についてこい」ではない

導くとは「みちびく」と読みます。そして漢字の構成も「道」+「寸=手」となっているように、手を引いて道に連れていくことです。道とは真理や理想へと続く物事の在り方、あるいはその実践をいいます。

したがって、導くとは人びとを道にいざなうということであり、「自分についてこい」ではありません。そのため人を導くときに、指導者は必ずしも先頭にいるとは限らず、人びとの後ろから支えることもあります。「サーバント・リーダーシップ(メンバーに奉仕する形の指導力)」といった概念もそのひとつです。


「人を率いる」型リーダーシップの危険性

さて、英語の「lead/leadership」ですが、あらためてみてみるとこのような意味を持っています。

lead=人を率いる、導く
leader=統率者、指導者
leadership=人を統率・指導する能力や行動、作用、立場

「lead/leadership」はとても広く奥行きのある概念です。綿密にみていくと、日本語では「人を率いる」と「人を導く」という2つのニュアンスを含んでいます。「率いる」と「導く」とではどういう違いがあるのでしょう。それをまとめたのが下の図表です。


「率いる」とは人を引き連れて行くことで、フォロワー(従う人)は統率者につきます。他方、「導く」とは人を道にいざなうことで、フォロワーはその道が内包している目的につきます。フォロワーが「ヒト」につくのか、「目的(意味・価値)」につくのか、この違いが大きな点です。

したがって人を率いる場合、統率者の「権力や地位」「対人的能力」「人間的魅力」はとても重要です。ただ、人を率いるのに「目的や理念」は必ずしも必要ではありません。保持する権力や大衆を扇動する能力、人気を集めるキャラクターで十分に人を率いることが可能です。

そしてその手のリーダーシップの危険なところは、統率者の隠れた野心がきれいな言葉で飾られ、集団の目的にすり替えられることです。「ヒト」につくフォロワーは、往々にしてこうしたことを見破れません。歴史上、悪い野心を隠し持ったカリスマ的リーダーに率いられた集団が、悲惨な末路をたどる例を私たちは少なからず教科書で学んできました。

「人を導く」型リーダーシップのもとでは目的・理念が求心力となる

その点、人を導くためには、何より「目的・理念・ビジョン」がいります。権力や能力、人間的魅力は、あればなおよい程度です。まず、その人自身が「道なるもの」を覚知・実践していく。そうした道に献身している人の姿、あるいはその人が目指す理想に人が感化を受け、そこに人が集まりだす。これが「指導者(リーダー)と従支者(フォロワー)」の関係性が生まれる本来的な姿といえます。

その場合の従支者は1人1人が目的のもとに自律的に振る舞おうとします。たとえ指導者が途中でいなくなっても、その志を受け継いだ誰かが新しい指導者として現れます。何か大きなことを成し遂げる集団は、「導く」形のリーダーシップによって力強く持続的に歩みを進めるものです。

さて、今回の東京オリンピック・パラリンピックの組織委員会会長交代の一件。オリンピックは、その理念をオリンピック憲章の中で「オリンピズムの根本原則」として記しています。まさにこれが中核的価値を表した“五輪道”ともいうべきものです。ここに運営者集団、競技者たちを導いて、そのもとで大会を成功裏に終わらせる。後任の会長にはそうしたリーダーシップを期待したいと思います。