泳ぐクルマを発見! どうして魚の形をした自動車が生まれたのか?

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数奇な運命をたどった魚の形をしたクルマ

 2018年の秋、ミラノ近郊を走る走行会、「Trofeo Milano」でとても奇妙なクルマに遭遇した。前から見ても、横から見ても、後ろから見ても、まるで魚。なんと、名前も「ペーシェ」、日本語で「魚」という意味だ。

 この奇妙なクルマの物語を知りたくなった。一体、いつ、何故、誰が作ったのだろう?

ミラノのスフォルツェスコ城内に置かれたフィアット「509ペーシェ」(C)野口祐子

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 ペーシェの現在のオーナー、エドアルド・テンコーニは、1940年生まれの81歳。聞くと彼の父親であるピエトロは、フィアットのディーラー“Autorimessa Italia di Pietro Tenconi”をミラノの隣町、セスト・サン・ジョバンニで始めたという。時は1922年、イタリアで漸くクルマを見かけるようになった頃だ。

 そんなクルマに囲まれた環境で育ったエドアルドが、17歳の時に初めて購入したクルマは、フィアット「トッポリーノ」だったそうだ。それから彼はどんどんクルマをコレクションするようになり、今では何十台ものクルマがガレージに収まっている。

 では、さっそくこの奇妙なクルマ「ペーシェ」の物語をはじめよう。

●コレクションとして引き取られた魚クルマ

 1970年半ば、エドアルドに友人の業者から連絡が入った。この頃すでにコレクターとして名前が知られていたエドアルドの元には、色々なクルマの情報が届くようになっていたのだ。

「おい、ベルガモ近郊で面白いクルマが出て来たぞ」

 さっそく見に行くと、なんと魚の形をしたクルマではないか。エンジンはなく、ボディ、ダッシュボード、シートだけという状態だった。長いコレクター人生、こんな奇妙なボディは見たことがない。どうしてこんなクルマを作ったんだろうと、興味が湧いて来た。

 しかし、誰もこの奇妙なクルマの出自を知る人はいなかった。どんな名前か、誰が作ったのか、いつ頃に作られたのか、謎は深まるばかり。「とにかく家に持ち帰ろう」ということで、この奇妙なクルマは、エドアルドのコレクションの1台としてガレージに収まることになった。

 持って帰ったものの、魚の形をしたクルマに関する手かがりはなかなか掴むことができず、クルマをガレージに置いたまま数年が経過してしまった。そして、世にも不思議な偶然が訪れることになる。

 1970年代後半のある日、フィアット「131」のスペアボディを探している親子が、エドアルドのガレージを訪れたときのことだ。彼ら親子は、事故で壊したクルマをレストアするため、スペアボディを探しているとのことだった。

 エドアルドのガレージに置かれていたクルマを見ていた父親が、歓喜の声をあげた。

「ペーシェだ! 私が作ったペーシェだ!」

 なんと、この親子の父が、魚のクルマを作った張本人だったのだ。ついに、世にも不思議なクルマがどのようにして生まれたのか、その秘密を解く手がかりに辿り着くことができた。

●魚のクルマを作った張本人とは?

 魚のクルマの作者、アルフレッド・アクアティは1911年生まれ。彼は13、14歳の頃からミラノのMartelleria Italiana工房で鈑金職人として働いていた。

 この工房はイゾッタフラスキーニ、ボネスキ、カスターニャ、その他ミラノ近郊の錚々たる自動車メーカーのボディ部品を供給していたという。職人が80人ほどいたというから、当時の高級自動車メーカーを陰で支える重要な工房だったと考えてよいだろう。

おさかなクルマが生まれた理由とは?

 1926年、ミラノで“Salone dell’Automobile Fiera Campionaria”という自動車ショーがおこなわれた(後にトリノのSalone dell’Automobileに移行)。そのなかで、ロンバルディア州のカロッツェリア、職人のためのコンクールが開催された。今でいうところの、「コンクールデレガンツァ(クルマの美しさを競うコンクール)」といったところだろうか。

●魚の形はコンクールのために

この尾ひれがまさに魚を連想させる(C)野口祐子

 Martelleria Artigiana工房は、自分たちの鈑金技術を駆使して、このコンクールに挑戦。先ずは前年の1925年にミラノで発表されたフィアット「509」のエンジンを調達した。

 ふだんは自動車メーカーの鈑金下請が主な仕事である。コンクールでは是非とも自分たちの手でオリジナルのクルマを作ろうではないか、ということになった。

 ロンバルディア州には、優秀なカロッツェリアや職人が大勢存在していた。そのなかで優勝するためには、他のカロッツェリアでは作れないクルマを披露しなければならない。

 1920年代のクルマは、まだ馬車の面影を引き継いだものが多かった。そんな時代に、Martelleria Artigiana工房の板金職人は、アルミの板からみごとに魚の形をしたボディを仕上げ、フィアット509のエンジンをシャシに載せた。

 車名は、「フィアット509ペーシェ」と名付けられた(日本では「Delfino=イルカ」と呼ばれているが、正式名は「Pesce=魚」である)。

 狙いは的中。今まで見たことがない奇想天外なボディを持つ「ペーシェ」は、コンクールで人気の的となった。

 ボディは塗装はせず、Buscioneという方法で変化がつけられている。このBuscioneとは、ワインの栓に使うコルクに特別な紙やすりを当て、ボディを叩いていくという根気のいる手法だ。まさに職人の技といってよい。

 叩いていくと、いつくもの円が重なり合い、シンプルなシルバーの地金が美しい模様と化していく。それはまさに魚の鱗のようにも見える(この技法は昔のブガッティのダッシュボードにも使われている)。

 その「ペーシェ」のボディを叩いて仕上げた職人の1人が、当時15歳になったばかりのアルフレドだったのである。

 コンクールは、ミラノのセンピオーネ通りにクルマを並べておこなわれた。1920年代は自動車文化が少しずつ芽生え、通りには多くの観客が集まったという。なんとこのコンクールで他のカロッツェリアを差し置いて、フィアット509ペーシェが見事優勝する。

 そして、コンクールを見学するためにベルガモから来ていた人物が、フィアット509ペーシェを購入。その人物は今でいうところのベルガモの市長にあたる人物だったそうだ。彼はこのクルマを日常の足クルマとして使い、時には数百km先の海にまで出かけていたという。

 ペーシェを製作したひとりの職人であるアルフレッドが知っている情報は、ここまでだった。その後、このペーシェの所在どころか、存在すら知る由もなかった。

 このクルマをエドアルドに紹介してくれた業者によると、「第二次世界大戦に入ると、イタリア政府は兵器製作のため鉄の回収を始めた。悲しいことにフィアット509ペーシェのエンジンも鉄の部分は国に回収されることになった。しかし、幸運にもアルミボディはそのまま残り、オーナーを転々としながらガレージの隅に忘れさられていたのを、たまたまベルガモ近郊の小さな街で見つけた」ということであった。

●現代に蘇った「泳ぐクルマ

 さて、1970年後半、運命の出会いとなったエドアルドとアルフレドは、フィアット509ペーシェを元の形に戻すことにした。まずはオリジナルのフィアット509のエンジン探しから始めた。

 そしてボディ、ダッシュボード、シートのレストアをスタート。アルフレッドは半世紀前に仲間と夢を抱いて叩いていた時のことを思い出しながら得意のBuscioneの手法で円を描いた。

 こうして1981年、70歳になったアルフレッドの手で、フィアット509ぺーシェは「今を泳ぐ」クルマとして蘇った。

 2021年、誕生から95年目になるペーシェは、今でもイタリア国内外のイベントに参加し、世界中の街を“泳い”でいる。2018年には、日本の京都でおこなわれたコンクールデレガンスにも参加しているので、この不思議なクルマを目にした人もいるだろう。

 現在は、さまざまな安全基準をクリアしなければならない自動車。およそ100年前は、すべてが未知の世界で、人間は夢に向かって自由に想像力を発揮することができた。そうした大らかな時代だったからこそ、ペーシェは誕生することができたのだろう。

 ペーシェ誕生から半世紀後に、オーナーであるエドアルドと、その製作者アルフレッドが出逢えた奇跡は、ページェが蘇るべき運命だったのかもしれない。ひょっとしたら、ページェがふたりを引き合わせたのではないだろうか、とさえ思ってしまう。

 現在、エドアルドの息子ピエトロは、クラシックカーをレンタルする会社「classic Car Charter」を経営している。そしてそれらのクラシックカーは、アルフレッドの息子ジョバンニと孫ステーファノの工場「Carrozzeria Valera」がメンテナンスを担当しているという。まさしくペーシェによって引き寄せられたふたつのファミリーの物語だ。

 そしてこれからも、95歳になるペーシェは、世界中の街を泳ぎ、たくさんの人を繋ぎ続けることだろう。