「老害」の背景:身分世襲の妄執/純丘曜彰 教授博士
「老害」の背景には、世襲の失敗がある。敗戦と財閥解体、農地解放で、江戸幕府と明治維新による戦前までの名家が没落。代わって、高度経済成長に乗って、戦中世代や第一団塊世代(戦中多産による60年安保世代)が出世し、第二団塊世代(戦後多産による全学連世代)を従えることで名士に成り上がった。
戦中世代の立身戦略は、「人脈」だ。親が戦死や没落し、その引き立ての無い彼らは、町に出て、敗戦で下部組織を失った戦前の大物を義理の「おやじ」に見立てることで取り入り、ここに同世代や第一団塊世代の若造仲間を引き込み、その下に大量の第二団塊世代をオルグすることで新たな巨大圧力派閥を成し、大物「おやじ」の死後、代わって、それぞれが各界の頂点に君臨するようになった。そのようすは、政治家なら『小説吉田学校』、ヤクザなら『仁義なき戦い』、一般企業や労働組合に関しても、城山三郎や高杉良の経済小説などに見ることができる。
そして、その膨れ上がったなれの果てが、バブル経済であり、その崩壊。ここにおいて、戦中世代、第一団塊世代は、バブリーでリベラルな全学連第二団塊世代に地位を委譲することを好まず、新たな「戦後名家」の「新天皇」となって、支配的な「身分」を家内で世襲することをめざした。というのも、証券や不動産のような「財産」は、子女に相続させても、価値が当てにならない。税率も高い。それよりも、その年ごとに利益を生む「身分」の方が、あきらかに意味があるからだ。
とはいえ、若造のボンボンが、この上の分厚いリベラルな第二団塊世代を乗り越えて浮上するのは容易ではない。ここで、戦中世代、第一団塊世代がやったのが、第二団塊世代潰し。バブルの始末を口実とした、いわゆる「リストラ」。それ以上に強力だったのが、「人脈」の独占。彼らは、外部や周囲とのつながりを自分を通さずには触れてはならないアンタッチャブルな特別枠とし、経営幹部でも第二団塊世代以降は組織内に閉じ込めて日干しにし、その周辺人脈を根絶やしにして枯らし、ここに自分の子女ないし娘婿のみを同席させた。かくして、彼らは「老害」となった。
この子女や娘婿が優秀であれば、ふつうでは得がたいトップクラスの「人脈」のバックアップを得て、たしかにごぼう抜きで経営幹部に出世する。第二団塊世代以降も、この抜擢を黙認せざるをえないだろう。実際、たとえば、どこぞの自動車会社のボンボンなど、相応の才覚を発揮し、トップにふさわしい力量を備えるに至った。だが、残念ながら、そうでない場合も多い。どこぞのスーパーのボンボンなどは、あまりポンコツで、サポートする優秀な第二団塊世代以降が逃げ出し、全国組織ごと潰してしまった。
そうでなくても、ボンボンに才覚が足らないと、延々と親が「老害」となって外部との「人脈」を独占保持し続け、子女のライバルになりそうな優秀な人材を潰し続けないとならない。ただでさえ、自立できないような、いまいちな連中ばかりが吹き溜まって残ってしまっているのに、こんなチンケな出来レースでは、わざわざ潰される当て馬になりに、会社や組織を盛り立てられるような優秀な人材が新規に入ったりしない。いよいよボンボンも、だれのサポートを得られなくなり、全体がポンコツ集団に成り果てる。
ようするに、本来は会社や組織が事業継続のために公的に「継承」していくべき「人脈」を、「老害」は自分がプライベートに築いてきた「私物」と勘違いし、自分の子女のみに「相続」させようとする。これがうまくいけばいいが、この子女に相応の才覚が無いと、もしくは、この子女が死去したり失脚したりすると、組織は「老害」本人以外、外部との連携を持たず、日干しになり、人材も流出枯渇。
日本中、政治も、経済も、マスコミも、はては芸能界、アニメ業界まで、外部との「人脈」を独占し、自分の子女に私的に相続させようとしてきた戦中世代、第一団塊世代の「老害」のせいで、いまや有為の人材が流出枯渇し、自分ではなにも決められない、外部との交渉もできない(交渉のルートも持たない)者ばかり。そもそも、いつまでも親がかりで、社内の切磋琢磨にも耐えられないようなボンボンが、ポンコツ集団を率いて、広い社会、広い世界での競争を勝ち抜けるわけがない。
ムリなものはムリ。あれほど旧体制の世襲を嫌って新たな有為の人材を集めた常勝のナポレオンや織田信長、豊臣秀吉さえ、最後にはみずからが世襲を図って、すべてを失った。一方、徳川家康は、人をまとめられない後継ぎの嫡男を斬って棄て、幕府を成した。子々孫々まで続く新たな「戦後名家」を打ち立てたいなどという私的な現世執着を棄て、会社や組織、日本や世界の繁栄のために身を尽くし、より多くの後進を育て上げるなら、それは、高齢であっても「老害」ではなく、子々孫々まで「偉人」と讃えられるだろう。その意味でも、私的財閥を成すことを嫌い、広く人々が豊かになることのみを願って多くの会社や組織を優秀なな後進たちに譲り、恬淡と財界を去っていった渋沢栄一の生き方は、いま、学ぶところが多いように思う。