日本人が知らない「ミッキーマウス」誕生秘話
世界中で愛される「ミッキーマウス」はいかにして生まれたのか?(写真:Bettmann/Getty)
世界中で愛される人気キャラクター「ミッキーマウス」はいかにして生まれたのか? そこには生みの親であるウォルト・ディズニー氏の失業や倒産、仕事仲間からの恫喝など数多くの苦労がありました。同氏の少年時代からミッキーマウス誕生までの歴史を、作家の早見俊氏による『人生! 逆転図鑑』より一部抜粋・再構成してお届けします。
「夢を叶える秘訣を知っていれば、どんなハードルも越えられる」
ウォルト・ディズニーが残した言葉です。彼は秘訣についても具体的に語っています。秘訣は「4つのC」だというのです。いわく、Curiosity(好奇心)、Courage(勇気)、Constancy(継続)、そしてConfidence(自信)です。ディズニーは「4つのC」を実践し、大きな困難を乗り越え夢を実現したのでした。
ウォルト・ディズニーの人生
ディズニーは1901年、イリノイ州シカゴで生まれました。20世紀が開幕した年に誕生したとは、20世紀を代表する人物の一人となる彼にふさわしいですね。
一家が住んでいたのはシカゴの貧しい人々の居住区ですが、ディズニーが4歳のとき、シカゴから600キロ離れたミズーリ州に引っ越します。ミズーリ州に決めたのは、父イライアスの弟が農園を持っていたためで、イライアスが現地に赴いて調べてみると自然豊かな素晴しい土地でした。
イライアスは、ミズーリ州のマーセリーンに農場を買って、一家は移り住みます。当時のマーセリーンは人口4500人の小さな町でした。それでも、治安がよく、広場には野外ステージがある素敵な町でもありました。
一家の農場は広場から2キロほどの場所にあり、約16ヘクタールの農地が広がっていました。この農地で果物、小麦、とうもろこしを栽培し、家畜を育てました。
少年ディズニーは、牛や豚、鶏と接するのが大好きで、積極的に農場の仕事を手伝いました。彼にとって、農場は楽園だったのです。夏の午後、木陰に寝そべりながらリスやウサギ、小鳥をスケッチブックに描くようになります。
ディズニーに強い影響を及ぼしたのは、豊かな自然ばかりではありません。巡業に来た大衆演劇と映画です。とくに強い印象を受けたのは、演劇「ピーターパン」でした。後年、彼がアニメ映画化する際、主演のモード・アダムスに脚本を送ってアドバイスを求めたほどです。マーセリーンでの暮らしは、ディズニーの人生を決定づけるものでした。
ですが、幸福な日々は続きません。農場経営は次第に悪化し、経営を巡ってイライアスと長男、次男が対立、2人は農場を去ってしまいました。悪いことは重なるもので、父が肺炎に倒れてしまいます。こうなると、農場を支えるのは三男のロイでしたが、ロイは当時16歳、とても農場経営などできません。ほどなく、農場は競売にかけられました。
家や農機具はもちろん、育んだ家畜も売られていき、8歳のディズニーは、愛した動物たちと悲しい別れをしなければなりませんでした。彼はロイとともに、去りゆく動物たちに泣きながら別れを告げます。
動物たちとの楽しい日々と痛切な別れ、両極端な体験が偉大なるクリエイター、ウォルト・ディズニーを形成したのです。マーセリーンで過ごした3年間は彼にとっては宝物となり、40年の時を隔てロサンゼルスに所有する土地にマーセリーンにあった納屋を建てました。
映画のために「150万個のギャグ」を考案
その後、一家はカンザスシティに移り、イライアスは新聞配達店を経営します。ディズニーは新聞配達の仕事を手伝わされましたが、手伝ってもイライアスは一切、給料も小遣いも払ってくれません。そこで、ディズニーはアルバイトをして稼ぎます。稼ぐ目的は美術学校に入学したかったからです。
やがてイライアスはシカゴに戻り、ゼリー工場を経営します。そのころのディズニーは、昼は地元の高校に通い、夜は美術学校で学びました。好奇心旺盛な彼はボード・ビルショーにも通い、漫画に使えるギャグをノートに書き溜めます。1940年にアニメ映画を制作するころには、書き溜めていたギャグの数は150万個にもなっていたそうです。
1914年、ヨーロッパで第1次世界大戦が勃発します。ディズニーは陸軍に志願しますが、年齢が若いということで、赤十字の衛生兵として戦地に赴き、負傷兵の手当と輸送に従事しました。ちなみに、同じ衛生隊には、マクドナルド・ハンバーガーを世界的なチェーンに展開させたレイ・クロックもいました。
帰国後は父の工場を手伝うことはせず、漫画家になるべくカンザスシティに向かいます。カンザスシティに行ったのは、地元の銀行に勤めていた兄ロイを頼ってのことです。ロイは、アートスタジオでの広告デザインの仕事を紹介してくれました。
ここでディズニーは、後にパートナーとなるアブ・アイワークスと出会います。不運にも2人は、そろってアートスタジオの契約更新をされず、クビになりました。そこで、彼らはデザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を立ち上げます。
とにかく食べていかなければと、ディズニーは短編アニメーション映画の制作を始めます。制作した映画を劇場主に売り込み、好評を得るとフィルム・アド社の社長に定期的にアニメ映画の制作を持ちかけます。しかし、色よい返事はもらえませんでした。それでもディズニーは、アニメ映画の制作に手応えを感じました。すぐには商売にはならなくても、勇気(Courage)を持って制作を続けようと決意します。決意すると、自信(Confidence)もわいてきました。
資金回収できずいきなり倒産を経験
ディズニーは、家族、友人などから資金を集め、アニメ制作会社を設立、アイワークスと5人のアニメーター、アシスタントで、アニメ制作に乗り出しました。
まずはおとぎ話をアニメ化します。自信を持って売り込むと、ニューヨークの映画配給会社が気に入ってくれ、6本の映画を注文してきました。幸先のいいスタートに会社は喜びでわき立ち、物凄いスピードで完成させ配給会社に送ります。
しかし、喜んだのも束の間、なんとその配給会社は倒産、代金は未回収となってしまいます。発足間もない会社には甚大な影響で、会社は倒産してしまいました。
途方に暮れたディズニーでしたが、ピンチをチャンスに変えようと奮闘します。思案の末、彼が選んだのは実写映画の制作でした。折よく、ロイがロサンゼルスに住んでいました。ディズニーはロイに連絡を取りハリウッドに向かおうとします。ところが、会社を倒産させた彼には汽車賃もありません。
そこで、かろうじて残っていたムービーカメラで赤ちゃんを撮影し、その両親に売るという商売を始めました。これはうまくいき、汽車賃を得ることができました。1923年、ハリウッド行きの列車に飛び乗ります。
しかし、現実は厳しく、無名の田舎青年を映画監督に雇ってくれるスタジオなどありませんでした。失意のディズニーに、兄ロイはアニメ制作に戻るべきだと諭します。映画監督になりたい一心だったディズニーは、継続(Constancy)を怠っていたのです。ロイの言葉に耳を傾け、長らく閉じたままだったスケッチブックを開きます。
このときのディズニーは、発足したばかりの会社を倒産させてしまい、自分を見失っていたのです。継続(Constancy)の大切さを思い出し、アニメ制作を続けるべきだと思い直します。書き溜めていたギャグを活かした短編アニメ映画の制作に挑んだのです。
加えて、以前、彼の映画に興味を持ってくれたニューヨークの映画配給業者M・J・ウインクラーという女性社長に手紙を書きました。すると、彼女は1本1500ドルで6本買いたいと返事をくれました。ロイと喜びを分かち合い、2人は会社を立ち上げます。会社には盟友のアイワークスたちアニメーターも加わります。
今度は無事に代金も回収でき、会社は軌道に乗りました。しばらく後、ニューヨークの配給業者はウインクラーの夫ミンツが経営を引き継ぎました。ミンツも変わらずディズニーにアニメ映画の発注を続けました。
会社経営が順調となり、ディズニーとロイは家庭も安定させようと結婚しました。スタジオも大きくします。そして、社名を「ディズニーブラザーススタジオ」から「ウォルト・ディズニー・スタジオ」に変更しました。兄弟が仲違いしたからではなく、ロイが「このほうが響きがいい」と提案したのです。
「ミッキーマウス」誕生秘話
ところが、暗雲がたちこめます。ミンツが買い取り額の引き下げを要求してきたのです。配給してくれないことには商売になりませんから、このときはやむなく条件を呑みました。受注額の引き下げは痛手でしたが、ディズニーは作品の質を高めます。その上で契約更新のため、ミンツを訪れます。
ディズニーは受注額のアップを期待していたのですが、なんとミンツはさらなる値下げを要求しました。それどころか、応じないならディズニーのアニメーターたちを引き抜き、自分の会社で制作すると脅します。
実際、ディズニーが拒否すると、ミンツはアニメーターたちを引き抜いてしまいます。信頼したアニメーターたちに裏切られ、ディズニーはショックを受けました。しかし、彼は希望を捨てませんでした。
今こそ「4つのC」を発揮するときです。ディズニーは、新しいキャラクターを創造しようと、スケッチブックに向かいます。そこででき上がったのが「ミッキーマウス」でした。
ウォルト・ディズニーとミッキーマウス(写真:Mondadori Portfolio/Getty)
スタジオに戻ると、ただ1人残っていた盟友のアイワークスと、ミッキーのキャラクターを深めていきます。やがて、ミッキーマウスは世界中の子どもたちに受け入れられました。
この後、ディズニーは快進撃を続けます。失敗を重ね、苦境に陥りながらも「4つのC」で人生を逆転させたウォルト・ディズニー、今もなお、世界中の子どもたち、いえ、大人たちにも夢見ることの素晴らしさ、夢を叶えるための努力の尊さを教えてくれています。