『ドムドムハンバーガー』社長の藤崎忍さん 撮影/吉岡竜紀

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「逆襲」「反撃」「大復活」……ファンにそう称えられる、日本初のバーガーチェーンの勢いが止まらない。独自路線をひた走り、創業50年にしてヒットを連発している。仕掛け人は、ユニークな経歴を持つ女性経営者。「政治家の妻」から「SHIBUYA109のショップ店長」「居酒屋オーナー」まで、介護と二足のわらじをはきながら突き進んできた挑戦人生は、今なお続く。訪れた人を幸せに、驚きと喜びを味わってほしいから──。

【写真】政治家の夫の隣でほほ笑む、専業主婦時代の藤崎社長

観光客の少ない時期に、なぜ浅草に出店?

 猛暑もおさまり、過ごしやすい気候に恵まれた9月19日のシルバーウイーク初日。少し賑わいを取り戻しつつあった東京・浅草で、朝から3密を避けながらの行列ができていた。観光名所・花やしきにドムドムハンバーガーの新店舗がオープンするからだ。

「いらっしゃいませ!」

 10時の開店時に陣頭指揮をとっていたのは、社長の藤崎忍さん(54)。2018年からトップに就任し、多彩なアイデアを出しながら収益を向上させ、新型コロナウイルスのダメージも乗り越えてきた女性経営者だ。

「“観光客の少ないこの時期に、なぜ浅草に出店するのか?”と疑問を抱く方もおられたと思います。でも、浅草の復興は日本の観光業はもちろんのこと、人々を活気づける意味ですごく重要ですし、社会的意義も大きい。会社として少しでも貢献できることをしたいと考え、2年ぶりの出店を決めました」

 うれしそうに話す彼女は開店当日、勝負服のドムドム柄衣装を身にまとい、店頭に立った。浅草店限定の「黒毛和牛バーガー」(350円)や「ビッグドムてりやきバーガー」(450円)などが飛ぶように売れるなか、「いかがですか?」「新店舗、よろしくお願いします」と、声をかけながら接客に当たった。列の後ろで待つ人には「申し訳ありません」「大丈夫ですか?」と気を配り、ときにチラシも配布する。

 精力的な動きぶりに、部下である営業企画部長、浅田裕介さん(45)は感心させられたという。

「自分自身も一生懸命に働き、周りも気持ちよく働かせてしまう、社長にピッタリな方。就任を聞かされたときも納得しましたね。誰もが信頼してついていきたくなる上司だと思います」

 この敏腕社長が実は37歳まで主婦だったという事実には、誰もが驚かされるだろう。

 短大卒業後、地方政治家の夫を支え、ひとり息子を育てていた藤崎さんだが、夫が病に倒れたことで一念発起。SHIBUYA109のアパレルショップ店長を経て、居酒屋店主に転身。ドムドムハンバーガーにヘッドハントされ、1年もたたないうちに社長に担ぎ上げられるという驚きの人生を送ってきたのだ。

「私の場合は事情が事情ですから、とにかくやるしかなかったんです」

 そう笑顔を見せる藤崎さんだが、ここまでの道のりは並たいていのものではなかった。持ち前の明るさとエネルギーで力強く生き抜いてきた激動の54年間とは一体、どのようなものだったのか。

ホントに嫌なリーダーだったと思います

 藤崎さんが誕生したのは1966年。同年の干支は丙午(ひのえうま)で、「この年に生まれた女の子は気性が激しい」という言い伝えがある。2人の兄と妹のいる4人きょうだいの3番目である彼女は、やはり強くたくましく育った。

 父・山本賢太郎(故人)さんは墨田区議から東京都議になった政治家だが、当時はせんべい店や不動産業、保険代理業など幅広い仕事を営んでいた。こうした事情もあり、生家は日常的に人の出入りが多く、にぎやかだった。長女である忍さんは母・久子さん(87)の家事を手伝いながら、政治家一家の人間としての立ち居振る舞いを自然と学んだようだ。

 小学校は父の教育方針で、2人の兄と同じ青山学院初等部を受験して入学。地元の墨田区向島からは片道約1時間と遠い距離を通った。加えて、富裕層の子女が集まる特殊環境ということもあり、下町育ちの少女は微妙な違和感を覚えたこともあったという。

「持っているものや身につけているものが全然違うし、お誕生日会のゴージャスさにもビックリした記憶があります。ギャップを強く感じた中等部のころは学校に行く足が少し重くなったこともありました」

 苦笑いする彼女だが、2番目の兄が入っていたラグビー部のマネージャーとして奮闘。明るく社交的な性格で友達にも恵まれた。

 現在に至る親友・高見由美子さんは、中等部で出会った仲間のひとりだ。

「忍とは別クラスだったんですが、彼女に初等科からのグループに入れてもらって、徐々に話すようになりました。あるとき私がひとりでいたら“ユンちゃん、寂しそう”とふと声をかけてくれた。“ああ、いい人だな”と感じたのをよく覚えていますね」

 高見さんとは意気投合し、高等部では一緒にハンドボール部に入った。

 青山学院の中でも「特に本気度の高い部」で、藤崎さんはキャプテンとしてチームを牽引。試合で攻撃陣が1点も取れずに負けたのに腹を立て、帰りの電車でひと言も口をきかなかったこともあるほどの、負けず嫌いだった。「ホントに嫌なリーダーだったと思います」と本人は申し訳なさそうに言う。

 けれども、高見さんのほうは「忍がまじめに頑張っていたのは全員が認めていたし、その姿勢は今につながっていますよ」と話す。

「忍は全員が楽しんでいるか、幸せそうにしているかをよく見て、気配りしていました。そのやさしさは印象に残っていますね」(高見さん)

 部活動で青春を謳歌したあとは青山学院女子短期大学に進んだ。4年制大学も考えたが、1、2年生が厚木キャンパスに移転したころで、「下宿はちょっと」と両親が難色を示したため就職率のいい短大を選択した。

 しかし藤崎さん自身には、「就職してバリバリ働くより、お嫁に行って家庭に入りたい」という願望があった。両親の影響からか、自営業者と結婚して一緒に家を切り盛りするような人生を歩みたいと考えていたという。

 そんなときに出会ったのが後に夫となる藤崎繁武(よしのり)さん。当時は国会議員の秘書だったが、墨田区議選への出馬を決意。父・賢太郎さんのところに出入りしていたのだ。

順風満帆の中、夫の都政落選と心筋梗塞

 藤崎さんは照れながら、なれそめを明かす。

「出会ったのは高校生のころだったんですが、短大入学祝いの食事会に誘われたのがお付き合いするきっかけでした。彼は12歳上でおいしいお店をたくさん知っていて、それまで食べたことのない料理をいっぱい食べさせてもらいました(笑)。

 地方分権の重要性を唱えるなど政治家としての志も明確で、本当に尊敬できる人でした。私も政治一家の娘ですけど、地道な活動をするのが地方議員の日常。そんな姿を見て信頼感も高まりましたし、ずっと近くで応援したいと思えたんです」

 交際は順調で、藤崎さんが短大を卒業した'86年に繁武さんが墨田区議に当選。ほどなくして2人は結婚した。彼女は就職活動も会社勤めもすることなく、政治家の妻としての人生をスタートさせ、'90年には、ひとり息子の剛暉(こうき)さんを出産。子育てに邁進(まいしん)した。

 藤崎さんの両親が近くに住んでいたこともあり、初めての子育ての味方は多かった。そのうち「自分が通った青山学院に息子を通わせたい」という気持ちが強まり、幼稚園受験の準備を始めることに。

 高見さんが当時の様子を打ち明ける。

「忍もお受験ママとして大変そうでした。あるとき、家を訪ねたら幼児教育の資料が段ボールいっぱい入っていて、これを全部やるのかと驚いたくらいです」

 藤崎さん自身、初等部の受験経験があるとはいえ、親の立場で幼い子どもをサポートするのは精神的にナーバスになりがちだ。それでも、長男は根気よく塾に通い、無事に合格を果たす。

 そんななか、剛暉さんが熱中したのが野球だ。小2から本格的に始め、藤崎さんも全力で応援した。ただ、ハンドボールに励んだ高校時代もそうだったが、ときに熱が入りすぎる傾向がある。

 息子が気の抜けた様子を見せると「じゃあ、やめれば?」などと、きつい言葉が出ることも何度かあったようだ。それでも、剛暉さんは母の一生懸命さを常にありがたく感じていたという。

「母が厳しいことを言うのは、指導者への立ち居振る舞いや礼儀作法、野球に対する姿勢が中心。その大切さは僕もわかっていたので、すんなり受け入れられました。弁当や食事作り、洗濯など身の回りのことはすべてやってくれましたね。

 父の選挙期間中は猛烈に忙しいんですが、そういうときも決して手を抜かず、学校行事やPTAにも来てくれた。いつも元気なのがウチの母なんですよ」

 そんな藤崎家に'05年7月、予期せぬ出来事が起きる。墨田区議を5期務め、満を持して都政に進出した繁武さんが落選。その直後、憔悴の大黒柱が心筋梗塞に襲われる。

 救急車で病院に運ばれ、ICUに2週間入るほど重症で、当面は治療専念となった。藤崎家には私学に通う息子がいて、収入が途絶えたら家計が回らない。妻である忍さんが働かざるをえなくなった。

37歳で初就職、109店員に

 とはいえ、20歳から17年間家にいた職歴なしの37歳の女性が就職先を見つけるのは難しい。途方に暮れる中、救いの手を差しのべてくれたのが青学時代の友人だった。

「私の母が経営している、SHIBUYA109のブティックで働かない?」

 これが、主婦業からの転身の第一歩となった。

「10坪しかないヤングカジュアルの店で雇われ店長として働くことになったんです。青学時代から109にはなじみはありましたが、社会人経験が皆無なので最初は戸惑いもありました。

 8月1日から出勤しましたが、アルバイト10人態勢でシフトを組んで回している状態。立地のよさで売り上げもそこそこあり、スタッフは忙しくしていましたが、私の目には店が汚くてセンスも今ひとつのように映った。まずはそこから手をつけようと思いました」

 藤崎さんが最初に着手したのは試着室のカーテン。華やかな色合いの布を買って自らミシンで縫ったものをかけ替えると、店の雰囲気がパーッと明るくなった。続いて洋服の並べ方を大胆に変えた。キャラクターTシャツなど売れ行きが芳しくないものは減らし、売れ筋商品を前面に押し出し、ディスプレーも今風にアレンジしたという。

 バイトに関しても、働きぶりを観察し、新たな人材を雇うなどしてスタッフを入れ替えた。1年後にはオーナーから専務を任され、最終的に'10年までの5年にわたって働くことになったが、この期間で売り上げ倍増を達成。年商2億円という優良ショップへ導くに至ったのだ。

「最初のうちは向島の実家が持っているマンションを倉庫にして、電車で洋服を運んでいました。息子にも手伝わせましたよ。いちばん頑張ってもらったのが1月2日の初売りのとき。ものすごい量の商材を運んでもらい、販売員の女の子たちのお弁当の搬入も頼みました」

 と、藤崎さん。一方で剛暉さんは、仕事と家事、療養中の父の世話と奮闘する母に心を打たれたようだ。

「父が病気になってからも家のことはしっかりやって、自分には栄養を考えた弁当も持たせてくれましたね。ただ、さすがに疲れが出て、母が洗濯機を回したまま寝てしまい、朝まで洗濯物が洗濯機の中に入っていたこともありました。そんな状態でも僕に“手伝え”とは言わなかった。“好きなことを頑張りなさい”というのが口癖で、うるさいことは言いませんでした」

 家族の頑張りがエネルギーになったのか、夫の繁武さんも徐々に回復。'09年夏の都議選で再起を賭けるべく選挙運動を本格化させていた。ところが同年5月、今度は脳梗塞で倒れる悲劇に見舞われる。

 藤崎さんは、その日を涙ながらに述懐した。

「近隣町会の温泉旅行に行っていた夫から“帰ったよ”と電話がありました。でも呂律が回っていなくて、変だなと思い、急いで自宅に戻って病院へ連れて行ったんです。そのまま入院になりましたが、本人は選挙に出るという強い意志を示し、数日後に退院を決めました。

 でも、家に帰る直前の栄養指導の場で突然、私にもたれかかってきて、倒れてしまった。身体じゅうにマヒが起き、口も手も足もきかず、左半身が不自由になりました。結局、半年入院して、その後は自宅でリハビリに努めましたが、都議選の夢は断たれてしまいましたね」

“やさしい人になろう”と自分に言い聞かせた

 繁武さんは出馬断念を支援者に伝えるため、6月に車イス姿で病院からホテルへ出向き、1000人以上を前に呂律の回らない、聞き取れないような言葉で「申し訳ありません」と涙ながらに詫びた。

 傍らの藤崎さんは涙をこらえるのが精いっぱい。思い余った息子は「自分が大学をやめて働く」と母に伝えた。

「そんなことはしなくていい。あんたは野球を続けなさい。お母さんは大丈夫だから」

 藤崎さんは気丈に言った。しかしながら、夫を介護しながら109で働くのは至難の業だ。まずは家の中をバリアフリーにして手すりをつけ、介護用ベッドを用意。行政の支援も仰ぎ、ケアマネージャーに相談しながら訪問介護ヘルパーに来てもらう態勢を整えた。

 週2回のリハビリも介護タクシーで送迎してもらう手はずを整え、自身は朝8時から23時までガムシャラに働いた。前述の売り上げ倍増は、壮絶な努力の末に達成したものだったのだ。

「このころは“やさしい人になろう”と自分に言い聞かせていました。“きつい”“つらい”“どうしよう”とネガティブに考えてもいいことは何もない。夫にやさしく接するほうが、すべてがうまくいくと信じて行動したんです。

 週末は必ず夫婦で外食に行きました。夫はお寿司が大好きで、事情を理解してくれるなじみのお店に出向き、時間をかけて食べましたけど、喜ぶ夫の姿がうれしかった。それに自分には仕事があったので、気持ちの切り替えがうまくいった。打ち込めるものがあったのは、やっぱり大きかったですね」

 こうして仕事と介護の両立に励んできた藤崎さんだが、またしても逆風に見舞われる。経営方針の変化もあって、'10年9月に109のお店を離れることになったのだ。

 5年にわたり働いたものの、雇われ専務だった彼女にはそこまでの貯金はない。すぐさま次の仕事を探さなければ生活が立ち行かなくなると考え、人生初の就活に乗り出した。

 短大時代には見たこともなかった求人誌を入手し、目を皿のようにして読んだが、自分にできそうなのは料理しかない。そこで当たりをつけたのが、JR新橋駅前にあるニュー新橋ビルの小料理屋でのアルバイト。

 16時〜24時の8時間労働で、時給1200円。日給にすれば9600円と109時代に比べはるかに安かったが、何もしないよりましだと思い、飛び込んだ。

「'10年10月から働き始めましたが、徐々にお客さんと仲よくなり、年明けの'11年1月末に斜め前の居酒屋が閉店するという話を耳にしたんです。実は、109に別のブティックを出すことを考えていたんですが、競争が激しくハードルが高かった。

 そこで“アパレルより先に、飲食をやっておこうか”と気持ちを切り替え、出店に向けて動き始めたんです。旬のものを扱い、見せ方次第で売れるという点は、洋服も飲食も同じ。そういう意味では踏み出しやすかったのかなと思います」

 こうと決めたら動きの早い藤崎さん。だが、事業計画書作成や資金調達の算段は、もちろん未経験。政治家の妻として支援者のリスト作成やパソコン入力くらいはしたことがあったが、ハードルの高い作業にほかならなかった。

 そこで彼女は本やインターネットでイチから情報収集を行い、アパレル関係の会社を経営する叔父にも相談。自分なりに書類を作成し、国民政策金融公庫や信用金庫、信用保証協会に掛け合った。結果、合計1200万円の借り入れをすることに成功。

「1日5万6000円の売り上げを5年継続できれば借金は返せるという計画を作って交渉したんです。ちょうど109の退職金がわりに、まとまったお金が入った時期でもあったので、それを元手にアタックしました。失うものはなかったですし、いつまでも日給1万円のアルバイトでは家族の生活が成り立たない。まさに背水の陣でした」

 新たな一歩を踏み出そうとする藤崎さんを家族も応援した。外食好きの夫は「居酒屋ならポテトサラダや厚焼きたまごは必須。赤ウインナーを入れたほうがいい」などとアドバイスし、息子も「お母さんならできるよ」と背中を押してくれた。

念願の居酒屋開業、夫の介護も献身的に続けた

 モチベーションはさらに高まり、東日本大震災から日が浅い'11年3月22日、契約に踏み切った。そして109時代の信頼できるスタッフに声をかけ、旧知のデザイナーに内装を依頼。大好きな空と木から「そらき」と命名し5月22日に、ついにオープンにこぎつけた。

「おひとり様でも心を尽くそうと誠実な接客を心がけたところ、少しずつ常連さんが増えていきました。そして大きかったのが青学の友達です。私の友達や兄のラグビー仲間が口コミやSNSを通して宣伝してくれて、開店1年を迎えるころには20席が連日予約でいっぱいという、ありがたい状態になりました」

 1年足らずで1日の平均売り上げは11万〜12万円と当初予測の倍に達した。そんなとき、隣の店舗が空いた。これは2軒目を出すしかないと思い立ち、再び事業計画書を準備し、資金を調達。

 新店舗はワインバルをイメージした洋風居酒屋の建てつけにして「SORAKI-T」と命名。これまでなかったピザやタパスも加え、幅広い客層を受け入れられるようにした。同時に、当時まだ珍しかったスマホオーダーのシステムも導入。店員の注文ミスを減らし、スムーズな会計も可能になった。

「これはイケる」と感じたら迷わず突き進むのが藤崎流。それは、息子である剛暉さんも認める点だ。

「僕は本気で目指していたプロ野球選手を断念し、'16年に母の居酒屋でバイトをしていたことがあるんです。社長兼料理人の母を間近で見ていたら、料理しながら、隙あらばお客さんのところに行き、会話をして場をなごませる。実に効率的でムダのない働き方をしていることに気づきました。家でもチャキチャキした人ですが、時間を最大限有効活用できるいいリーダーだなと感心しましたね」

 藤崎さんにしてみれば、必要に迫られての船出だったが、得意な料理にフォーカスし、それを商売にすべく必死に取り組んだ結果の成功だった。「私みたいに37歳まで主婦だった人間でも強みを突き詰めて仕事にできたんですから、世の中の奥さんたちも十分やれるはずです」と、藤崎さんはエールを送る。

 その一方、夫の介護も献身的に続けた。居酒屋の仕事は帰宅が深夜になるが、朝6時には起きて夫の食事を作り、リハビリや通院にも付き添った。高見さんは「たまに会うと本当に疲れているように見えました」と心配したが、本人は労を惜しまず働いた。

 そして6年という時間が流れ、迎えた'16年12月。長期療養中だった夫が急逝してしまう。数日間発熱が続き、入院した途端に心臓が止まるという予期せぬ最期だった。

「それまでも心筋梗塞3回、脳梗塞1回と大病を乗り越えてきていたので、何があっても大丈夫だろうと思っていました。まさか風邪で逝ってしまうとは……。

 先生が心臓マッサージをしてくれたんですが、息子が“これを続けて生き返りますか”と尋ねたら“可能性はありません”と。次の瞬間、自分から“もう結構です”と言っていました。涙があふれてきて、本当に喪失感が大きかったですね」

 4年前の出来事にもかかわらず、昨日のことのように涙をこぼす藤崎さん。それだけ夫への愛情と尊敬、信頼が大きかったのだろう。

ドムドムと藤崎さんの出会い

「まだ50前だし、これから好きなことをやればいいよ」

 訃報を受けた高見さんは藤崎さんを慮って、こうメッセージを送ったというが、本人の気持ちは晴れなかった。同居していた息子も「いつも元気な母が3か月くらい落ち込んだ状態で本当に心配になりました」と述懐するほど、心にポッカリ穴があいていた。

 夫の死から半年が過ぎた'17年5月、予想だにしなかった話が舞い込む。ホテル運営などを手がけるレンブラントホールディングスがドムドムハンバーガーを買収。新メニュー開発にあたり、藤崎さんに白羽の矢を立てたのだ。

 日本発祥のバーガーチェーンであるドムドムハンバーガーは1970年に創業。かつては親会社・ダイエーを軸に展開され'90年代には全国400店舗まで数を伸ばしたが、徐々に縮小。経営母体が変わった時点では約30店舗まで減っていた。

 マクドナルドをはじめ大手チェーンが席巻する中、同じ方向性では生き残るのは難しい。だからこそ、斬新で愛される新メニューが必要だったのである。

「レンブラントの方が店の常連で、私の料理をおいしいと感じて“ぜひアイデアを提供してほしい”と、オファーをくださったんです。50歳の居酒屋のおばさんを大きなビジネスに誘う勇気と情熱に感銘を受けましたし、私自身もすごくうれしかった。

 一緒に居酒屋をやっていたパートナーも十分ひとり立ちできると感じたし、息子も夫が亡くなった年に墨田区議選への出馬の決意を固めて、前に進んでいた。もう心配することもないので“やっちゃおうか”という気持ちが湧いてきました」

 藤崎さんが入社に当たって最初に提案したのは、「手作り厚焼きたまごバーガー」(300円)。厚焼きたまごは日本人のソウルフードであり、誰にも喜ばれるメニュー。日本発祥のバーガーチェーンであるドムドムで出すべきと藤崎さんは考えたのだ。

 とはいえ、卵焼きというのは想像以上に高度なスキルが必要である。既製品を使おうにも高価だ。いかにして簡単に、安く提供するのか。その大命題を一緒に模索したのが、前出の部下である浅田さんだ。

「藤崎さんは店舗で作って安く出すことに強くこだわり、絶対に妥協しませんでした。となれば、バイトやパートでも手軽に作れる工程を考えなければいけない。私もイタリアンシェフをやっていた経験から知恵を出し、試作を繰り返しました。そして2か月後には納得できる形を見いだせた。こちらの意見もしっかり聞いてくれましたし、気持ちよく仕事のできる人。25年の社会人生活で尊敬する上司の断トツ、ナンバーワンです」

 厚焼きたまごバーガーの商品化を終え、11月から正式に社員になった藤崎さん。最初は商品開発に特化した仕事をするつもりで店舗回りなどをして勉強していたが、同年12月に出店が決まった厚木店の店長をいきなり任された。営業時間は8時〜23時と長いうえ、自宅から職場までは遠く、寝る暇もないほど。

 それでも彼女は店の一部始終を見ようと休まず出社し、スタッフの意思疎通を密にした。そして翌年からは東日本15店舗を統括するエリアマネージャー(SV職)も兼務。あらゆる店を足しげく回っては現状把握と業績改善に努めた。

社長が各店舗のライングループに参加

 ところが'18年3月の最初の決算が予想以上に悪かった。居酒屋2軒を成功させてきた経営者目線で見ると「これはまずい」と、深刻にならざるをえない状況だったという。そこで悩みに悩んだ末、藤崎さんは本部に電話をかけて、役員にこう告げた。

「意見の言える立場にしてください」

 1か月後、本部に呼ばれた彼女は2人の役員から驚くべきことを言われた。

「取締役になってください。ついては代表取締役です」

 まさに青天の霹靂だった。

「前社長が辞任され、部長以上も全員降格。グループ会社への出向も含め大幅な人事異動により、SVは東西で2人だけに。そのうえで、私が東日本担当SV兼社長という大役を託されるというので驚きました。ただ、自分から意見の言える立場にしてほしいと言った以上、逃げることはできない。覚悟を決めました」

 社長となった藤崎さんは「ドムドムらしさ」にこだわりながら、メニューの刷新を図った。

 定番である「甘辛チキンバーガー」(350円)や「お好み焼きバーガー」(370円)を残しつつ、「カマンベールチーズバーガー」(999円=現在は販売終了)、「丸ごと!!カニバーガー」(999円)などの斬新なメニューを相次いで投入。特にカニ1杯を丸ごと使用したバーガーはSNSで話題になり、今年9月から再販、大ヒットを記録している。

 仕掛け人である浅田さんは、藤崎さんに背中を押されたのが大きかったと話す。

「“思いついたんだから、やろう”と社長が言ってくれて、勇気が湧きました。カニの水をきって、粉をつけて丸ごと揚げるというのは意外に難しい。バイトの教育もしなければいけなくて負担のかかるメニューなんですが、藤崎さんがスタッフとの意思疎通を大事にしてくれているので助かります。社長は各店舗のライングループに参加して、暇を見つけてはメッセージを送っているんです」

 “これはよかったね”“ありがとう”。社長から直接ねぎらわれたら、スタッフはみんなうれしい。

「天才的な褒め上手です(笑)。現場を大事にしている気持ちも、よく伝わってきます」(浅田さん)

おいしさに驚きや意外性をプラス

 藤崎さんの手腕が発揮されたのは、これだけではない。ファッションブランド「FRAPBOIS」「BEAMS」とのコラボ商品、六本木での期間限定イベント開催など斬新な企画を次々と打ち出し、話題をさらった。

 コロナ禍ではスタッフの安全を考えて、ロゴ入り布マスクを用意。マスク不足が深刻だったため社会貢献の一環として来店客に販売したところ、SNSで大反響を呼び売り切れが続出した。「ドムドムを取り巻くすべての人に寄り添って共存したい」という、藤崎さんの切なる願いが伝わった形だ。

「ドムドムはバーガー屋ですから、おいしいのは当たり前。それにプラスして、驚きや意外性があったほうが楽しいですよね。お客さんに笑顔になって帰っていただけたら私はいちばんうれしいんです。

 社長になってからの2年間で何よりも強く感じたのは、ドムドムがものすごく愛されているな、ということ。コロナで不安な時代だからこそ、みなさんと支え合うことが大切なんです。これからも安心安全を第一に、独自性を大事にして、新たなチャレンジをしていければいいですね」

 やむにやまれぬ事情により、専業主婦だった藤崎さんは波乱の日々を経て、いまやドムドムを率いる注目の女性リーダーとなった。こうして母が世間で評価されるのを、現在は墨田区議となったひとり息子も喜んでいる。

「家にいる母は以前と変わりませんが、多くの人に愛されているドムドムでイキイキと働く様子を見るとうれしいですね。僕も人生の指針を示してくれた父のようになりたいと努力しています。そうやって、お互いに頑張っていければいちばんいい。母にはもっと好きなことをやってほしいと思います」(剛暉さん)

 今年生まれた孫と息子夫婦を招き、得意な料理を振る舞いながら他愛ない話をする。それが、藤崎さんがいちばんリラックスできる時間。温かい家族に支えられながら、この先も自分らしいスタイルで、彼女はドムドムを力強くリードしていくに違いない。

(取材・文/元川悦子)

もとかわ・えつこ
ジャーナリスト。長野県松本市生まれ。サッカーを中心に、スポーツ、経営者インタビューなどを執筆、精緻な取材に定評がある。『僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン)ほか著書多数