「史上最強」と称された日本代表
――第2回

2000年アジアカップ。日本は圧倒的な強さを見せて2度目のアジア制覇を遂げた。当時、その代表チームは「史上最強」と称された。20年の時を経て今、その強さの秘密に迫る――。

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2000年アジアカップ。大会当初、明神智和は「コンディションはよくなかった」と言う。photo by Press Association/AFLO

 レバノンで開催される2000年アジアカップへ向け、日本を発った日本代表は、まずはフランスに立ち寄った。当時、1998年のワールドカップと2000年のユーロで優勝していたフランス代表の活動拠点がある、クレールフォンテーヌで事前の最終キャンプを行なうためだ。

「僕自身のことだけで言うと、フランスの合宿でも、やはりコンディションも、パフォーマンスも、あまりよくなくて......」

 う〜ん......と唸り、そう語ったのは、明神智和である。

 持てる力を尽くし、メダル獲得に挑んだシドニー五輪の直後である。彼らが、心身両面で"燃え尽きていた"としても不思議はなかった。

 しかし、チーム状態に関して言えば、「シドニー世代の選手も五輪が終わって、ここからA代表でスタメンを取ってやるという、競争意識は高かった」と、明神は記憶している。

「チーム作りというか、雰囲気作りというところは、事前合宿でうまくできていたと思います」

 最終キャンプの仕上げは、パリ・サンジェルマン(PSG)との親善試合だった。結果は1−1の引き分けに終わったが、ピッチを広く使った大きな展開から森島寛晃が鮮やかなゴールを決めるなど、上々の内容で締めくくった。

 もちろん、すべてがうまくいったわけではない。だが、名波浩には、確かな手応えが感じられた。

「PGS戦では、森島のゴールも含めて、ダイナミックな動き出しができていた。結果的に2人目、3人目が絡めなくても、イメージは共有できていたよね、っていうポジティブなミスが多かったですね。ハーフタイムも、試合後も、トルシエはすごく上機嫌で、非常に前向きな選手への鼓舞が多かったです」

 そして名波は、今にして思えば実に豪華な最終調整を、こんな言葉で振り返った。

「あのフランスでのゲームが、チームをもうひとつ上に上げるきっかけを作ってくれたんじゃないかな」

 若き日本代表は、少しずつ膨らんでいく自信と手応えを携え、レバノンへと乗り込んだ。

 グループリーグ初戦の相手は日本と並ぶ優勝候補の一角、サウジアラビアだった。

 中東開催の大会で、いきなり中東屈指の強豪国との対戦。その事実は、かなりの苦戦を予想させた。当の選手にしても、「もともとA代表にいた人たちが、どう思っていたかはわかりませんが、僕としては、前回優勝でアジアトップと言われる相手との試合がどうなるのか、本当にやるまでわからなかった」(明神)。それが、正直な気持ちだった。

 ところが、である。

「最終ラインに少し不安定なところがあって、ボランチ(の自分)は(守備重視で)後ろに重くいたほうがいいのかな」

 名波はそんな意識で試合序盤を過ごしていたが、「むしろ前に顔を出したら、意外にボールがもらえて、前も向けて、みたいな感じで」、少し戸惑いながらも、「攻撃と守備(のバランス)を7:3くらいにしていった」。

 怖いのは快足ストライカー、アルジャバーと、中盤のテクニシャン、アルテミヤトのホットライン。そこだけは消しておく必要があるとは感じていたが、徐々に「攻撃的にやっちゃったほうがいいのかな」という感覚が強くなっていた。名波が続ける。

「よかったのは、(2トップの)柳沢(敦)と高原(直泰)だね。あのふたりは動き出しが速いし、動きが重なることもほとんどないから、(相手の)センターバックがあたふたしていた。そこに、森島が間をどんどん突いていって。2点目までスムーズに入ったんで、展開としては楽でしたね」

 厳しい戦いが予想された試合も、2トップのゴールで前半のうちに2点差がついていた。

「なんかもう、すべてが違う、って感じでしたよね」

 しみじみと振り返るのは、ベンチで見ていた山本昌邦である。

「世界で戦ってきた選手たちが、アジアを相手に子ども扱いする。そのくらいプレーの強度も、質も、スピードも、すべてが違った。そんな(試合の)入りだったので、(ベンチは)あまり仕事がなかったですよね」

 最終スコアは4−1。サウジを相手に歴史的、と評していいほどの大勝を収めた。明神が語る。

「大会初戦で、しかも相手はサウジ。監督も一番大事な試合だとずっと言っていたし、自分も正直、(コンディションが悪く)90%くらいはスタメンじゃないと思っていたのが、出発直前にホテルで(先発出場を)言われて、少し焦るというか(笑)。大丈夫かな、という感じだったのに、結果は4−1。

 今振り返ってみても、このサウジ戦で内容を含めて圧勝できたことが、自信を持ってその後の試合を戦えた一番の要因になったと思います。その後の試合は、まるでゾーンに入るというか、あれこれ考えて、というよりも、体が自然に動いてプレーできるという感じでした」

 名波もまた、この勝利の価値の重さを実感していた。

「初戦でサウジに対して、内容よく勝てた。拮抗しているのかなって感じながら入った試合でもあったので、あの勝利は大きかったと思いますね」

 勢いに乗る日本は続くグループリーグ第2戦でも、これまたアジア屈指の強豪国であるウズベキスタンを8−1と、怒涛のゴールラッシュで葬った。

 初戦に続き、よもやの圧勝。だが、2戦目になると、すでに選手の意識には変化が生まれ始めていたことを、明神は明かす。

「強いって言われていたサウジを相手に、内容も含めてあれだけの結果が出せたので、やることをしっかりやれば(勝てる)、っていう思いはありました。途中で相手も(集中力が)切れましたけど、前半を戦いながら、自分たちが気を抜かずにやれば、これくらいの差はつくのかな、という感覚はありました」

 名波にしても、「サウジ戦の自信があってステップアップできた試合なので、サウジ戦ありきだとは思うけど」と注釈したうえで、「その勢いだけでは8点も取れていない」と、ウズベキ戦の内容がさらによくなっていることを感じていた。

「柳沢が風邪か何かの体調不良で、西澤(明訓)が出たんだよね。そうしたら、高原と西澤の2トップがふたりともハットトリック。相手も戦意喪失だったし、あの試合はサウジ戦よりも左のウイングバックのほうに(長く)いたと思う。(中村)俊輔になるべく中央にいさせてあげて、森島と"ダブルトップ下"みたいな形にしていたと思います」

 名波の言葉にもあるように、この大会の日本代表の攻撃において、ひとつのカギとなっていたのが、名波と中村のポジションチェンジだった。

 スタートポジションで言えば、名波はボランチ、中村は3−5−2の左ウイングバック。だが、中村はトップ下志向が強く、左ウイングバックでの起用を完全に納得していたわけではなかった。名波はその心中を察し、時折ポジションを入れ替わっていたのだ。

「だって、俊輔は顔を見れば、もうストレスが溜まっているのがわかる。そういうタイプの選手じゃないですか」

 そう言って笑う名波は、「これ、(過去に取材で)何度も言っているんですけど」と前置きし、続ける。

「(2人のポジションチェンジは)トルシエの指示うんぬんとかじゃなく、ただ俊輔がストレス溜まっているなと思ったら、『おまえ、インサイドに来いよ』って。そう言ってやれば、俊輔はもう喜んで入ってくるんで(笑)。そうしたら、オレが外に出てやるだけ。これだけの話なんです。それを繰り返していただけで、そんなに難しいことじゃない」

 むしろ称えられるべきは、自分や中村ではなく、そのポジションチェンジに苦もなく対応し、サポートできた他の選手たち。名波はそう考えていた。

「俊輔が左にいるときと、オレが左にいるときの守り方の違いを、(左DFの)服部(年宏)や(ボランチの)イナ(稲本潤一)が把握していれば、何の問題もなかった。直接話をして、いちいち確認するわけじゃなかったけれど、こうなったらこうなるよね、っていう感じで、お互いが信頼して動けていたと思います」


2000年アジアカップの日本代表の戦いぶりについて語る山本昌邦氏

 そんなピッチ上の選手たちの様子を、山本は頼もしく眺めていた。

「スタート(初戦)は重要だと思いながらも、正直、まだ新しいチームだし、上の世代とシドニー世代が合流して限られた準備期間しかなく、不安がなかったわけじゃない。でも、(サウジを)圧倒しましたからね。『こいつら、やっぱりうまいな』って思いましたし、日本が一番テクニカルでしたよね。当時のアジアは、暑いところで試合をすると、倒れたら起きてこないみたいなサッカーがまだ主流だったなかで、攻守の切り替えとか、コンパクトにしてボールを奪うとか、そういうところでも日本が一番スピーディーでした」

 日本はアジアを代表する強豪国を寄せつけず、記録的なスコアで2連勝。早々にグループ首位通過を決めたばかりでなく、ライバルたちの度肝を抜いていた。

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