アリストテレスの幸福論/純丘曜彰 教授博士
幸福論と言えば、まずアリストテレスだろう。彼の世界観は、手段目的論ないし原因結果論の連鎖体系であり、彼は、我々の日常の意志と行動のほとんどが手段的、すなわちそれを原因として結果するところが別に目的的になっている、と言う。そして、その目的的な意志や行動もまた、さらなる上位の目的的な意志や行動の手段的なものにすぎない。
ここで、例の彼独特の論理的飛躍だ。こうして、手段的なものがあるなら、その手段的な意志や行動の究極のところに、究極の目的、目的とはなるが、もはや手段とはならない最上位の目的があるのではないか、と言い出す。そして、彼は、これを幸福と名付ける。
翻って、彼の倫理学における意志と行動の基準は、この幸福にほんとうにつながっているかどうか、ということになる。いかに快であっても、インチキ政治だの、インチキ宗教だの、インチキ薬物だのに騙されているのは、この正しい連鎖をその先にもたないがゆえに、好ましいものではない。
また、アリストテレスは、カントを待つまでもなく、幸福に永続性を要請する。たとえ国会議員に当選しても、数年後に落選するかもしれない、というのであれば、それは幸福ではない。だから、だれも政治家をうらやましいとは思わない。同様に、いま一時の成功や快楽は、幸福とは関係がない。それは、外的に運がよかっただけで、それ以上のことではない。実際、彼らは、遠からずそれを失う同じだけの不幸を味わうのだろうから。
アリストテレスによれば、失われる可能性のある幸運は、幸福とはつながっていない。だから、善でも悪でもない、無記的なものだ。これに対し、彼は、アレテー(徳、卓越性、実力)というものを言う。それは、たとえ貧乏に落ちても、病気になっても、災難に遭っても、そこからはいあがってくる能力だ。このアレテーゆえに良い暮らしを得るひとは、なにものもそれを揺るがすことができない。
しかるに、このアレテーは、身体的な実力ではない。精神的なものだ。さらにまた、精神的なものと言っても、知識的なものではなく、習性的なものだ。そして、この習性的な領域こそが、「倫理」と呼ばれる。
しかしながら、この習性的な領域は、教えられてわかるようなものではない。わかっちゃいるけどやめられね、というアクラシアのギャップがある。だから、アリストテレスは、習性は、教導によって訓練付けられなければならない、と言う。善いこと、きちんと幸福につながることに快を感じるように、親や教師、そして自分自身で仕付けられなければならない、と言う。
ここで、ようやく幸福論と感性論がつながる。倫理学と美学が一体になる。それは、知識の領域ではない。かといって、身体の領域でもない。その間にあって、快不快にかかわる。さて、正しい快不快、正しい感性とは、どのようなものだのだろうか。